生理が遅れているのを、妖一は知らない。ちょうど遠征のタイミングだったからだ。心当たりは、ある。でも、もう少ししてから、と思って一週間。予定の日より一週間と数日。今日の夜、妖一は帰ってくる。昼のうちに買い物に行って、ドラッグストアに寄り、二本入りの妊娠検査薬を買った。帰って食料品を冷蔵庫に詰めたらトイレに行く。一本に尿をかけて、少し待つ。そこには予想した通り、くっきりとした線が。ああ。これが意味するところを知っている。嬉しい。嬉しい。本当に嬉しい。それしか思わなかった。一本目の妊娠検査薬と箱をゴミ箱の奥深くに捨てる。気づかれたくないからだ。もっと驚かせたい。
 夕飯を作りながら夜を待つ。こんなに夜が恋しかったことがあるだろうか。排卵日を狙っていたわけじゃない。この頃はもう、避妊はしていなかった。いつかできるといいね、お互いそんな気持ちで愛を確かめ合っていた。その結果が、胸にしまいきれないほどの喜びになった。スマホが一瞬揺れる。妖一からだ。あと一時間ほどで帰るらしい。待ちきれない。気分が高揚していた。どうやって一時間を過ごしたか分からないほど浮かれ立ちながら、家の中を行ったり来たり。寝室ともう一部屋しかないこの家から引っ越すことになるのだろうか。お腹に宿るこの子は、女の子だろうか男の子だろうか。どこの病院で出産しようか。名前はどうしようか。考えることなら、たくさん、たくさん、ある。
 そわそわが収まらない中で、ガチャ、と玄関から音がする。帰ってきた! そう思って急いで迎えに行く。
「妖ちゃん!」
「たでーま」
「おかえり!」
 玄関で荷物を担いだままの妖一ときついハグ。久しぶりの体温、匂い。いつまで経っても、大好き。大好きで大好きでたまらないよ。見上げた妖一のいつもどおりの顔を眺めていたら、キスが落ちてくる。あたたかい。
「どーしたよ」
「嬉しいことがあったよ」
「子どもでもできたか?」
「えっ?」
 靴を脱いだ妖一はなんの気なしにその言葉を放つ。まさか当てられると思っていなかった私はその場で硬直した。そんな私を見て、妖一も驚く。
「まじでか?」
「…なんで分かったの」
「排卵日付近でヤったからな」
「…気にしてないと思ってた」
「別にそのへんだけでヤってるわけじゃねーしな」
「…赤ちゃん、できたよ」
「…おう」
「今日、検査薬使ったら、陽性だった」
「早く産院決めねーと、希望のとこで産めなくなるぞ」
「そうなの?」
「分娩扱ってる産科は少ねーからな」
「…そうなんだ」
「…産んでくれんだろ?」
「産んで良いの?」
「当たり前だろ」
 そう言った妖一は、鞄をぼとんと落として私を抱き締める。ぎゅう、ときつく。その大きな体に抱かれて目を閉じた。まだなにも感じないけど、このお腹に、いる。私たちの遺伝子を持ったこどもが。妖一と私の、遺伝子を持ったいのちが。広い背中を、強く強く抱き締める。
「こんな嬉しいことってあるんだね」
「奇遇だな。俺も同じこと考えてた」
「男の子かな、女の子かな」
「その前に引っ越しだな。家でも建てるか」
「…楽しみ。妖ちゃんに任せておけばきっと最高のおうちになるね」
「なまえの希望を詰め込まなくてどーするよ」
「…そっかあ」
 突如舞い降りてきた幸福に、頭が働かない。こんな嬉しいことってあるんだね。私たちずっと幸せだったけど、もっと幸せになれることなんてあるんだね。
大学を卒業して三年。私は専業主婦、妖一はいくつかの会社を経営しつつ、アメフトの社会人リーグでまだアメフトを続けている。何不自由ない満たされた生活。毎日が幸せに約束された日々。好きな人と暮らす温かい日々。遠征にはついていったり、いかなかったり。大学でとった管理栄養士の資格は妖一の体調管理くらいにしか役立ってないけど。別に働く必要もないだろ、と言ってのけた横顔。その鋭利な口角。会社経営もうまくいっているみたいだし、相変わらず投資も続けているらしく、私は毎日のんびり暮らしていた。でも、それももう終わる。久しぶりの、変化が、私たちの生活にやってきた。
 妖一の手が、背中をポンポンと叩く。それを合図に私たちは体を離した。
「なまえ」
「なあに?」
「これから…大変な思いをするのはなまえで、俺はなんにもしてやれないかもしれない」
「…うん」
「でも、なまえとこどものためなら、なんだってする。それだけは覚えてろ」
「…うん!」
 妖一にそっくりの男の子が私のお腹から出てくるのは、あと十か月ほどさきのこと。