ある夏の暑い日、堤防に掛けて海を見ながらふたりで色んなことを話していたら、彼の背中から、大きな大きな羽根が生えた。
彼の髪と同じ、水色みたいな、白みたいな、灰色みたいな、よく分からない色。
柔らかな羽毛がみっしり生えたそれが、ゆっくり広がって、ゆっくり空を切る。ぶわりと、風が、起きる。それは私の汗を撫でてどこかへ行ってしまう。
驚きの余り跳ねるように立ち上がり息を飲んで呆然とする私を、彼は見上げる。こめかみを、汗が一筋、落ちたのが見えた。
まさはる、私の声が彼に届く前に、彼は同じ色の鳥になった。
何故君は僕より、なんて本気で思うの?
目を逸らしたり
掻き毟って誤魔化さないで
格好つけないで 隣にいるよ
「ていう、夢を見てね」
「へぇ」
その夢は、まだ続きがある。でも、どうしてもその続きが思い出せなかった。
とても不思議で、綺麗な夢だった。背景が、全部キラキラしていた。たぶん、昼間だったのだ。キラキラした背景は、どこかぼんやりとよく見えなくて、しっかり見えていたのは雅治だけだった。
起きて、しっかり反芻したい素敵な夢だったのにそれができなかったのは、寝坊をしたからに他ならない。ママが、いい加減起きなさい!と掛布を引っぺがしたのだ。ハッと気がついて真っ先に時計を見たら、いつも家を出る時間の二十分前だった。血の気の引いた私は、素敵な夢のことを考える間もなく支度をして朝練に向かった。
音楽室に向かう途中、廊下の窓からテニスコートが見える。その中に、揺れる銀髪を見つけて嬉しくなった。それから、私も、もっと頑張らなきゃと、思う。まだ誰もいない音楽室でメトロノームを動かしたときにようやく、今朝見た夢のことを思い出した。
思い出せない結末に、覚えているところまではどうしても忘れたくなくて、雅治に伝えたくて、授業中もずっと考えていた。思い出していた。繰り返し、繰り返し。
雅治が鳥になってしまう、あの、胸が張り裂けそうな、けれどどこか美しく幻想的な光景を。
「続きがどーしても思い出せないの」
「じゃあ思い出さなくて良い夢なんじゃろ」
「でも、すごく雅治に話したい夢だった」
ママが作ったお弁当を空き教室でふたり、だらだらと食べて、雅治の顔を眺める。色素の薄い睫毛と瞳が印象的で、とても綺麗。もうすぐ、夏。雅治も、私も、中学生最後の夏。最上級生として、雅治はテニスで、私は吹奏楽で、すでに忙しい。こうやってふたりでのんびりできる時間は、とても貴重だ。
なんだったかなあ、という私の大きな独り言は、雅治が食べているパンの包装が立てるカサカサした音と私がお弁当箱をしまう動きに重なる。
「なまえちゃん、今日、化粧薄いのぅ」
「寝坊したの…びっくりした」
「最近お疲れさんじゃき」
「全然、雅治に比べたら、大したことないよ」
「なまえ」
たしなめるように、雅治が優しい声で私を制す。ぽんぽんと頭を撫でられて、自然と目蓋が下がる。昼休み、ちょうど良く差し込む陽の光が、眠気を誘う。
窓際の机の上に座る雅治に、くっつくようにして、足を折り畳んでその足に乗せる。鎖骨の辺りに頭を当てれば、雅治も頭を傾けて私たちの熱がわだかまる。
なんとなく、そんな気はしていた。小学生から、中学生、次の春には高校生になる。成長すればするほど、男の子と女の子の距離が開く。雅治と私の、強さやしなやかさや、丈夫さも、開いていく。
もっと、もっと子どもだった頃。私は雅治より背が高かったし、腕や足も同じような細さだった。あの、羽根が生えた背中を思い出す。とても、広い背中だった。
「…俺が鳥になって、なまえちゃんはどうするんじゃ?」
「…んー、そうだなあ、うちに連れて帰る。雅治のパパとママ、怒るかな?」
「そういうことは考えんでよろしい。じゃあ、俺はなまえちゃんに飼われて、めでたしめでたし?」
「んーん、もっとなんか、あった気がする」
もっと壮大な。
眠たい目で雅治を見つめる。雅治は窓の外を見ていた。
すっかり男の子になってしまった骨格、透けるような顎や鼻筋、私のそれより太い鎖骨。浮き上がる喉仏と、低い声。細く見える指だって、私のと重ねたら、全然そんなことないんだと気づいたのは結構前だ。
投げ出された雅治の足、爪先が外を向く上履きに私の足を並べてみる。
そんな私に、雅治は気づいてるのか気づいていないのか、なんの反応も示さない。ただ、腰に回された大きな手が、確かな熱を伝えてくる。見上げた首筋がひくりと動いた。
「俺が鳥になって…どうしたら、元に戻るんじゃろ…」
「あ、」
「ん?」
「そんな感じだったかも」
「なるほどー、どうやって、元に戻るか…」
「んー、」
「なまえちゃん、眠そう」
「だいじょうぶ」
「想像もつかんな…そもそもなんで鳥になったんじゃ」
「えーと、なんだっけ、分かんない。でも、他にもなってる人がいたはず。クラスの担任、とか」
「呪いを解いてもらうんなら、お姫様のキスがええのう」
「そういう感じじゃなかった気がする」
「えー。もう、アレじゃ、流れ星にでも頼みんしゃい。マサハルをニンゲンに戻してくださいーって」
「あ…」
「ん?」
「それだ。そんな感じ。なんだっけ、他にない? 願いを叶えてくれるモノ」
「流れ星の他に? んー、なんかあったような…白い…クジラ?」
がばっと、体を離して顔を上げた。どろどろと絡みついていた眠気が、一気にどこかへ行ってしまう。
白いクジラが目の前を泳ぐ。どこまでも続くこの空を緩やかになだらかにするすると、すべてを遮るくらいおおきなおおきな白いクジラを、ふたりで見た。バチンと、思い出せなかった続きが一瞬で頭になだれ込む。一瞬で。私の頭の、処理能力を遥かに上回るスピードで。
瞬きをしてちゃんと見たら、雅治の髪がキラキラしている。ああ。すごく眩しくって、私は目を細めなくちゃいけない。
「それだ」
「白いクジラが願いごとを叶えてくれるのは、前になまえちゃんが本で見たって話してくれたぜよ。忘れたんか?」
「忘れてた。いま、思い出した。でも、そうだ、白いクジラだった」
そうだ。思い出した。
私は、綺麗な鳥になった雅治を連れて帰って、そして一緒に暮らしていた。陽の光がよく入る家だった。それは、暑い暑い夏の日。空は白く澄んでいて、雲と同化して見えるくらいだった。空全体が、太陽みたいに眩しかった。私は、暑いね、と雅治に話しかけながら、からりと窓を開けた。
つけっぱなしだったテレビが喧騒を伝える。ちょうどレポーターが海岸を背景に立っているところだった。白いクジラが目撃されました、という声がやけに鮮明に聞こえた。白いクジラ。西の方角へ、という声が私と雅治の間を滑る。
白いクジラは、願いごとをふたつだけ、叶えてくれるらしい。願いごとを、ふたつ。
それで、私は、雅治を入れた鳥かごを自転車のカゴに入れて、海に向かったんだ。
またふたりで通り過ぎる、あの日、雅治が鳥になった、堤防。あの日のふたりが見えた気がして悲しくなったけど、ここにだって雅治がいるから大丈夫。涙を風でやり過ごすように自転車を漕いで漕いで、人が集まる海岸に着いた頃には、白いクジラ目当ての人たちが帰るところだった。見つからなかったらしい。それでも私たちは歩いてその先に進む。人波に逆らって。白いクジラを探して。
雅治。私頑張るから、こうやって、ずっとふたりで生きていこうね。鳥かごを守るように抱えながら、空を見上げる。白いクジラは、やっぱりどこにも見えない。
「でも、いたの」
「…白いクジラ?」
「うん」
「それで、」
「雅治」
「ん?」
「雅治は、何て願う?」
そう、思い出した。目が覚める直前のこと。
視界の端の、窓の向こうの木の枝に鳥が二羽止まっていた。例えばあの嘴で、どうやってキスをするのだろう?
私の寂寥も知らず、雅治はしっかりした口調で言う。
「人間に戻りたい」
「うん。そうだよね」
「どうなったんか、教えんしゃい。気になる」
「うん。雅治はね、人間に戻りたいって願ったの」
「うん」
「でも私はね、私、鳥になりたいって、願ったの。なんでだろ」
「…それって」
「逆になって終わったの。私が鳥で、雅治が人間。それで、そこで目が覚めた。雅治、悲しそうだったけど、優しい顔してた、気がするんだけど」
「なまえ、」
どうだったかな、と言う前に、雅治が、ぎゅうと私を抱き締める。
すべて思い出して、すっきりしたんだけど、また新しい切なさやもやもやが私の体の中を巡る。あれは夢だったんだ。私も雅治も、いまちゃんと、人間だ。抱き締めてくれる腕の強さを、頬をくすぐる髪の先を、ちゃんと感じる。それなのに。
「なまえちゃん…疲れてるんじゃき」
「そんなことないよ」
「頑張りすぎじゃ」
「そんなこと、」
「あーるー。なまえちゃん、真面目なんじゃ」
「…」
「誰もなまえちゃんに頑張れなんて言うとらんのにのぅ」
「…」
「なまえちゃんが、一番早く来て、誰よりも頑張っとるの、みんな知っとう」
「…」
「もうちょっと、肩の力、抜けたらええのにな」
「うん」
「でもなまえちゃん、そういうの下手じゃ」
「…うん」
よしよし、と雅治が私の頭を撫でる。
頑張らないと、雅治を見てると、本当に強く強くそう思う。頑張らないと、雅治に追いつけない。それどころか、どんどんどんどん、ぐんぐんぐんぐん、離れてゆく。
どうしてこんなにダメなんだろう、とわたしを責める癖。雅治に言われて初めて気づいたけど、確かに誰も、私に頑張ることを強要しない。頑張れ、なんて言わない。いつもいつでも、自分を追い立てていたのは、誰でもない私だ。
「雅治」
「んー?」
「どうするか、決めておこうよ」
「…俺が鳥になったら?」
「私かもしれない」
「そうだなあ…」
「ふたりで、鳥になるか、人間に戻るか、」
「鳥に、なったことないから、難しいのう」
目を閉じて、想像する。ふたりで空を泳ぐ瞬間を。この、広い広い、果てのない空を。
気持ち良いかもしれない。幸せかもしれない。雅治とふたりなら。
それでも良いかもしれない。
夢の結末を思い出したとき、不思議だった。鳥になりたい、だなんて、夢の中の私はどうしてそう願ったのだろう。私だって、絶対に、こう願うはずだ。雅治を人間に戻してください。雅治が鳥になったから私も鳥になるだなんて、ちっとも考えなかったのに。
「でも、ふたりとも鳥になったら、」
雅治が不意に口を開く。見上げたら目が合って、ふ、と優しく目を細めて微笑んだ雅治が、私に柔らかくキスをする。唇を、触れ合わせるだけ。そっと、離れて、私は閉じていた目を開けた。
「こういうこと、できないかもしれんな」
あ、と、嬉しくなる。私も、私もさっき、そう考えたよ、と言いたくなる。子供みたいに。
雅治の表情が、あのときのそれに重なる。鳥になった私を、見つめる、あの目に。
「うん」
胸が詰まって、それしか言えない私に、雅治が優しく頭を寄せる。ねえ、どうして、そんなに優しいの?
「なまえちゃん」
「うん」
「あんま、頑張らんでええよ」
「…うん」
「なまえちゃん、」
優しい声で、愛しとるよ、そう言われて、その口の動きを見て、少しだけ泣いた。
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なまえちゃんが見た夢は、シャカラビッツのシルクという曲のMVの内容です。タイトルも、シルクの歌詞です。
このMV、ヒロインはかの有名な透明感が半端ない女優さんなのですが、黒い九官鳥になる彼氏が、四天Bの謙也くんなのです。当時、謙也くんの出てるものを片っ端から探して見ていた私は、このシルクのMVに辿り着いたわけですが、ほんとうに、ほんとうに、切ないストーリーに胸を鷲掴みにされました。そして、切なくて美しくて透き通っていて爽やかで綺麗で悲しいこの曲を聴いて、シャカラビッツの存在を認識しました。モンスターツリーは聴いたことあったと思うけど。それから、他の色んな曲を聴いて、私の好みどストライクで、どハマりしました。
タイトルにしたこの歌詞が、本当に私に深く突き刺さったというか、当時の、自分の価値を低く低く見積もっていた私にはグッとくるもので、もうめちゃくちゃ好きな歌詞です。そして、めちゃくちゃ切なくて好きなMVです。つべで見られるので、見たことない方、ぜひご覧くださいませ。
ありがとうございました。