好きな人を、ずっと好きでいることって、私たちが思っているより、ずっとずっと難しいことなんだと思う。
例えばその横顔とか、指先とか、私の名前を呼ぶ声とか、毎日毎日、何度も好きになって、それがずっと好きでいるってことなんじゃないかなって考えて、溜息を吐いた。
私たちが、ずっと一緒にいられないことは、なんとなく分かっていた。でもどこかで、そうならないことを願っていた。私が考えているのは最悪の結末で、きっとそれは回避できると信じていた。
だから、あの雨の日、ひとつの傘に入って聞いた言葉は、私をひどく混乱させている。






立ち止まってるより どこまでもゆこう
大切な人を残しても









中学を卒業したら、留学する。
彼は確かにそう言った。私はしばらく何も言えなくて、ドキドキする胸を堪えながら、相槌だけを打った。傘に叩きつける雨の粒が大きな音を立てて、私たちの沈黙を阻害する。俯いた私の目に映る、私のローファーと、彼の革靴。水溜りを避けながら、私の歩幅に合わせて歩く、大きな足。好きなのに、どうしてうまくいかないんだろう。そう思うと、ひどく苦しい。その日はうまく笑えないまま私の家の前で別れた。シャワーを浴びながら、どうしてか涙がたくさん流れて、ちょっと笑えた。
私たちの恋は、大抵うまくいかない。彼の家のことや、彼のファンのこと。まだ中学生の私たちの恋は、そういうことに阻まれる。好きなだけじゃ、ダメ。そんなの分かっていた。ただ、彼が私を好きでいてくれる、それだけで私はこの恋を諦めていなかった。

「なまえ、」
「…うん」
「そんな顔すんなよ」
「…うん」
「…まだ一年あるんだ、どうなるかは分かんねえだろ」
「…分かるよ」

行っちゃうんでしょ、そう言うと彼が私を背中から抱き締めた。胸が締め付けられる。また、彼を好きになって、そのせいで苦しい。彼は、分かんねえよ、と呟く。本当は、振り向いて抱きつきたい。頬をすり合わせて、彼の体温に安心したい。そう思うのに、抜け殻の体は言うことを聞かない。

「一緒に行くか」
「無理だよ」
「即答かよ」
「私、英語喋れないし、行ったって、景吾しか知ってる人いないもん」
「俺がいれば良いだろ」
「そんなわけにもいかないじゃん」

背中に感じる、体温。私の肩に顎を乗せて密着してくれることが、嬉しくて、幸せで、それだけで十分なはずなのに。好きだよ。好きでいたいよ。
彼の腕の中で、ぐるりと振り返る。彼の憂いを帯びた表情に、ぶつかる。その脇の下に両腕をまわして、しっかり抱きついた。細く見える彼の、筋肉をまとった丈夫な体。隙間を全部埋めるように、その存在を確かめるように私は縋りつく。
いいんだよ。景吾は、私なんかで躓いてちゃダメなんだよ。本当は最初から分かっていた。いつかこうなることだって、本当はちゃんと分かっていた。私はその辺の一般人で、景吾は、もっと大きな世界で生きていくひとなんだ。

「思い出、いっぱい作らせてね」
「なまえ、」
「あともう、一年しかないんだからさ」
「…別れるつもりかよ、」
「こうやって会えなくなったら、たぶん、私のことなんか好きじゃなくなるよ」
「そんなわけねえだろ」
「あるよ」

毎日、何度も好きになって、そうやって、好きでい続けることができるんだから。
少しずつ、でも確かに、彼のことを忘れていく、私のことを忘れていく。そうやって、好きを忘れていく。
そんな未来を想像して、胸が痛んだ。うまくいかないね、こぼした私の小さな声をちゃんと拾ったようで、彼の腕がさらに強く私を抱き締めた。一年後がどうか、そんなことより、いまこの瞬間を後悔しないように辛い想像を打ち消しながら感触を確かめる。

「あのな」
「…うん」
「なまえが考えてるようには、ならねえよ」
「そうかな」
「離れることがあっても、俺は絶対になまえを迎えにいく」
「…けーご、」
「留学してもしなくても、何もかも、なまえのせいにはさせねえよ」
「私のせい」
「留学したって、どうとでもなる。いつだって帰ってこれるし、なまえも遊びに来させる。留学しなくても、その理由をなまえにはしねえさ」
「…」
「すべての障害は、俺は取り除いてやるから、待っててくれないか」

ぎゅう、と胸が締め付けられて、目が潤む。幸せだなあって、手放しで思える。この世にたくさんいる女の子の中で、彼に愛されているのは私だけだ。いまそれを、強く強く噛み締めている。離したくない。私だって。ずっと彼と、生きていきたいよ。
ごめんな、と彼が小さく繰り返す。私が我慢をするとき、彼はいつも弱気な声でそう言う。学校で、彼が女子にアプローチをかけられていても私は私が彼女だと主張できない。彼にまとわりつく女子と彼を、見ないようにすることしかできない。家柄やそのカリスマ性が、巡り巡って私を傷つけることを彼は恐れている。
はやくおとなになりたい。自由になりたい。何度もそう思いながら、何度も目を閉じた、日々。

「なまえ」
「…うん」
「俺のこと好きか」
「好きだよ」
「じゃあ、頼むから逃げないでくれ」

逃げないでくれ。彼の言葉を、反芻する。逃げる。なにから?

「俺はなまえが好きだ。だから、なまえと一緒にいるための努力は惜しまねえよ」
「…」
「だからな、なまえも、俺といる未来を諦めないで欲しい」
「…けー、ご」
「ふたりの未来なんだ。なまえが諦めたらそこで終わりだ」

焦れたような、怒るような彼の声に顔を上げた。彼の眉間にはシワが刻まれていて苦しそうな顔をしている。いま、そんな顔をさせているのは私だ。彼の言葉を反芻する。少しだけ高めの、ドキドキするその声で紡がれた言葉たち。その言葉を噛み締めれば噛み締めるほど、私は何も言えなくなる。彼の真摯な思いに正面衝突して、クラクラするようだ。
ふたりの未来。それは、私ひとりで願っても叶わないように、景吾ひとりで願っても叶わない。景吾はもう願っている。私たちの未来を。誰にも指図されないくらいの自分になることで、願いを叶えようとしている。

「景吾」
「…なまえ」
「ごめんね」
「…なまえ、」
「私、大事なこと忘れてたね。ごめんね。私が信じていなきゃダメなのに」
「…俺が我慢ばっかさせてたから、」

彼の体に、ぴっちりと触れる。どこにも隙間がないように。筋肉をまとって融通の利かない彼の体に、やわらかい私の体で合わせるように。景吾。目の前の心臓に話し掛けるように呟いた。何もかもが満ち足りた、これ以上ないくらいの彼が、私のために努力すると言う。私との未来のための努力。景吾が努力するのに、私は彼にもたれかかったままでいるつもりだったのか。私だって努力が必要なんだ。いまひた隠しにしていること、すべてを、認めて欲しい人たちに認めさせる、そういう努力が。
毎日繰り返し、景吾に恋をする。もう何度、恋をしたことだろう。彼の睫毛の長さも、爪の形も、声に混じる息遣いも、目を閉じても思い出せるのに。好きでいるための努力が、必要だと思い知った。ふたりの未来なんだから、私と景吾が同じだけ恋して愛する、そうでなければならないことに気がついた。そんな、春を過ぎた頃。