いつも思うのだけれど、それって私に言うことじゃない。 怒った顔の女の子は可愛く見えなくて私は視線を別のところにやった。
幸村くんと別れて。彼女たちはいつもそう言う。私が幸村と別れたからと言って、それだけでは彼女が幸村と付き合えるわけではないのに。だったら、私がいても好きだと幸村に直接迫れば良いのに。乗り換えてくださいと頼めば良いのに。
面倒なことに私を巻き込まないでよ。
私の頬を叩いたことがあるのは、みんなみんな恋敵だ。親でさえ頬をぴしゃりと叩くことはない。こんなことする子が幸村に好かれるの? そう聞くと彼女たちは大体押し黙るから、私はじゃあねと言ってそこから離脱する。
でも今日の彼女はなかなか過激だった。何せ二回も頬を叩いてきたのだ。幸村が良いよって言ったら別れるから直接言ってきてと言ったのが、きっと、気に食わなかったのだろう。そして、前述の台詞を言ったらまた叩かれたのだ。なにこれ。何もかも幸村のせい。もれなくまるっと幸村のせい。
「えっ、なまえ、なんかほっぺ赤くない?」
「うん、叩かれた」
「マジで? 保健室行こう」
「いーよ、別に。冷やすだけだし」
教室に戻ると、友人が目敏く異変を察知するけれどそのまま席に着いた。次、移動教室だよ、と友人に言われて教科書をまとめる。人もまばらな教室を出て少し歩けばうるさい集団が先の方にいた。友人が、迂回しようと言ったからそれに従う。
あの人だかりは私の彼氏と、それに群がるはしたない女子どもであり、彼女らはよく侮蔑の視線を寄越すから友人が私を気遣ったのは言うまでもない。
どんな場所で耳を塞いだって 君を必要としていた
部活動をしていない私は、授業が終わり帰りのホームルームが終われば真っ直ぐ帰宅する。友人は部活に行った。さっさとしないと、また彼氏のファン集団に出くわすから私はさっさとぺちゃんこの鞄を肩にかけ部活に行く人波に紛れながら昇降口で靴を履き替え学校を出る。ひとりで歩きながら、いろんなことを考えた。
どうして幸村は、私がいるのに女子たちに優しくするのだろう、とか、私が呼び出しくらったりしてるの知ってるのかな、とか。どうして幸村は、私に、好きだとか言ったのだろう、とか。
考えてみれば考えるほど、彼の意図が掴めない。
私に嫉妬させたいのだろうかとも考えるけど、そういう女々しいことをする奴は好きじゃない。それに、その軽挙妄動でどれだけ私が傷つき、自尊心を失っていくのか分からないのかとも思う。私を彼女にした、正確に言うと私が幸村の彼女になることを了承したそのときから、幸村には、私とその他女子を明確に区別して扱う義務が生じているはずだ。
私はこんなときに愚痴を言うふりをしてしなだれかかる男友達もいないし、そもそもそんなはしたないことはしない。幸村や他の人気な男子たちに群がる女子たちのように生きることは私にはできないとはっきり分かっている。
こんなにも幸村をはっきりと特別扱いしている私と、私以外にも優しい幸村。不公平すぎる。ひとりで、幸村の彼女、というプレッシャーに耐える私。どうしてこんなことしているんだろう? 答えは簡単、好きだからだ。幸村に、好きだと言われる、ずっとずっと前から。それが私の感覚を鈍くする。悔しいけれど。
何にも遭遇することなく帰宅できた私は、着替えもせずにソファーにだらしなく体を預けてメールを打った。
私にわざわざ幸村と別れてって言いに来なくても、幸村が良いよって言ったら別れるって幸村ファンに言っといたから、そうなったら連絡して
なるべく簡潔に、けれど意味を取り違えられないように文章を考えて何回も読み返す。その度に白く光る画面の黒い文字は私に細かい傷をたくさんつけた。私はそれに気づかないふりをして送信する。
幸村がこれを読むのは、きっと部活が終わってからだろう。
ママが着替えてきなさいと何度も言うから立ち上がる。部屋に行って着替えたら、そのまま宿題でもしておこう。夜はどうなるか、分からない。
…
「なにあれ」
私は呆れて溜息を吐いた。
案の定、部活が終わったであろう夕方を過ぎた頃に、ちょっと出てこれる?とメールが返ってきた。嫌な予感がして自室の窓から下を覗き込めば、大きな鞄を肩にかけた幸村が立っていた。目が合ってしまい、仕方なく外に出たのだけれど。
眉間に皺を寄せて険しい表情の幸村は低くて冷たい声を出す。きっと、幸村ファン諸君は見たことも聞いたこともないだろう。彼女である私だけが、つまるところこのような扱いを受けるわけだ。
「そのまんまだけど」
「女の子が俺に付き合ってって言って、俺が良いよなまえとは別れるって言ったら教えてってことだろ?」
「それ以外ないよ」
「意味分からないんだけど」
「そうやって言っておけば、もうファンの子たちに呼び出されなくて済むでしょ、私が」
嫌味ったらしく言ったら、幸村はまたむっとした顔をする。毎日毎日、嫌な思いをしているのは私だって、分かってないのかな。
「なんで俺に何も言わないの?」
「言ったらどうにかしてくれるの?」
「するに決まってるだろ」
「へえ、知らなかった」
なまえ、と幸村はイライラを隠さない声で私の名を呼ぶ。
このひとは私をどうしたいんだろう。
このひとは私とどうなりたいんだろう。
ずっと思ってたけど、我らが誇る立海の、神の子とか魔王とか呼ばれている、向かうところ敵ナシな個性派テニス部を率いる部長、幸村が、どうして平凡どころかマイナス思考型の私に、好きだなんて言ったのだろう?
嬉しかったのに、怖くて聞けないままでいたら、こんな風になってしまった。幸村も悪いけど、多分私にも悪いところはある。だから、一方的に幸村を糾弾するのも違う気がするし、言えば言うほど惨めになるだけだから、もう私は何も言いたくないのに。
心臓がすごくうるさくて、口の中が渇いていく。うまく動かない口を、なんとか動かした。
「もういいよ」
「良くない」
「幸村、私のことなんて別にそんな好きじゃないでしょ」
「…どうしてそうなるの」
「私、取り柄もないし、何もかも、平均か、それ以下だよ。だから実際、幸村ファンになめられてるわけだし」
「俺が好きだって言ってるだろ」
「言うだけなら簡単だよ。でも行動が伴ってないから、バレバレなの。幸村ファンだって分かってるよ。私がいるところで幸村にベタベタしたって幸村も私も止めたりしない。私は知らないふりして、幸村はいつも通りだから、彼女のクセにって笑われてるんだよ。知ってた?」
私もう疲れたから。早口に、一息で言い切った。言葉がすらすら出てきたのはいつもいつも考えていたからだ。言いたくって、でも言えなくって、飲み込み続けて、ついに消化不良を起こして、吐いてしまった。
幸村に見られたくなったし、聞かれたくなかった。でも私はお腹がいっぱいで、もうこれ以上飲み込めなかった。
黙ったままの幸村を見た。ずるいな。いつもずるいけど、こういうときに黙るのは本当にずるい。
どっちか選べよ。私だけか、私以外の全部か。選べないなら、私が決めるよ。
「…なまえは俺のことどう思ってる?」
「…私は幸村よりたくさん好きって言ってるし、行動でも示してたでしょ」
「女の子に囲まれてる俺を見て、どう思ってた?」
「傷つかないとでも思ってたの? やめて欲しいって思わないと思ってたの? なんで私だけじゃないのって思わないと思ってたの?」
表面が塞がっただけの傷跡をこじ開ける。指で。柔らかい膜を破るように。治ってなんかいない。だから、いつまで経っても痛いのだと、本当はずっと分かっていた。でもそれに向き合うのは、もっと痛くて苦しくて辛いことだから、ずっと気づかないふりをしてただけなんだ。
一緒にいる幸せと、彼の彼女でいる不幸せを載せた天秤が、どんどん傾いてきていた。幸せの皿に載せるものより、不幸せの皿に載せられるそれの方が多かった。重かった。
ふたりで過ごす時間は本当に楽しかったし、幸せだった。それだけが私が彼女だっていう唯一の証拠になっていた。それだけがひとりで立つ私の支えになっていた。誰に悪意を向けられても。誰に傷つけられても。
幸村の優しい声。優しい表情。温かい手のひら。薄い匂い。意外と固い肌。私を名前で呼んでくれること。
その中に、私しか知らない幸村はどれだけあるのだろうか。
あの子たちと幸村を共有するくらいなら、全部要らない。全部要らない。本当に。
「…ごめん」
「もういいよ。全部終わりにするから」
「したくない」
「私の気持ちも想像できないのに?」
「悪かった」
「そうだね。もう取り返しのつかないところまできちゃったね」
「なまえ、お願いだから」
「うん、お願いだから、もう私を苦しめないで」
オレンジと紺色が混じって、明るいような暗いような、不思議な色をしていた空は、だんだん、幸村の髪の色になっていく。束でなくても、あの髪は青味がかった綺麗な色をしている。
砂浜の先に見えるエメラルドグリーンの海じゃなくて、崖の向こうの濃く青い海。
夜の手前のほんの少しだけ明るい、橙や赤や色んな色が混ざりあって、でもすべて紺色に飲み込まれてしまう空。
青より暗くて、黒より冷たい、綺麗な髪の色。
好きなところはたくさんあったけど、海の藻屑になって、空の彼方に消えていくのかもしれない。
やっぱり、私には不釣り合いな恋だったのかもしれない。
好きだからこそ、それらは私を傷つける刃物になっただけ。
「ちゃんと守るから」
もう、今更という感情を拭いきれないよ。こんなに苦しむ前に、気づいて欲しかったよ。
私が、素直に言えば良かっただけなのも、分かってるよ。分かってる。
「なまえ以外を彼女にするつもりなんてないよ」
それに乗っかりたいと思うくらいには、まだ好きなんだけど、素直になれない私は、何も言えない。口を開けば泣いてしまいそうだ。
「まだ、ほんの少しでも、俺を好きだっていう気持ちがあるなら、最後に一度だけ、チャンスが欲しい」
なまえ、と幸村がダメ押しに私の名前を呼ぶ。泣くのを堪えるのに精一杯で、うまく頭が働かない。奥歯を噛み締める。喉が、引き裂かれるように痛む。息を吐こうと少しだけ口を緩めたら、それで何もかもが決壊してしまった。
躊躇うことなく幸村が伸ばした手に、抗う気力もなく、私はただ大粒の涙を零しながら咽び泣く。抱き締めてくれた幸村の熱が、何枚もの布越しだというのに、そんなもの無いかのようにしっかり伝わってきた。
誰にも渡したくない。私だけのものにしたい。抱き締められるのは、私だけが良い。本当はずっとそう思ってたよ。だから、こんなに苦しかったんだよ。
「なまえ、ごめん。本当にごめん」
ここが家の前だということも忘れて、私はぶるぶる震えながら泣いた。でも、幸村がすぐ抱き締めてくれたせいで、体感的には長く感じたけれど、多分すぐに泣き止んだ。
「ファンの子、抱き締めたことある?」
「ないよ。ない」
「ほんとうに?」
「本当だ。昔からああだったから、愛想良くはしてたけど、それだけだよ。ほんとうに、それだけ。何もしてない」
俯いたまま、そっか、と言えば幸村が私を抱き締めたまま、頭にもたれてくる。抱き締められるとこんなにも安心して、こんなにも落ち着くということを、私は幸村に教えてもらった。友人といても満たされない心のどこかを、幸村が満たしてくれるのも、知った。
何度手放そうと思っても、想像するだけで辛くて辛くて、幸村の行動を制限するようなことを言って嫌われたくもなくて、好きだから辛かった。こんなに、こんなにも。
「なまえ、ごめん。でもまだ、俺の彼女でいて欲しい」
幸村の、覇気のない声に、迷って、迷って、頷いた。もう少しだけ、信じてみたかった。
ありがとう、と幸村が屈むようにして私の頬に彼のそれを擦り合わせる。確かにそこに皮膚があるのに、ふたつの熱は、肌に遮られて行き止まりなのに、どうしてこんなに、混ざりあっているように感じるのだろう。私は私の輪郭を失っていく。膨張している。肥大していく。幸村の熱を取り込みながら。
月並みだけど、もっと、もっと混ざりあいたい。
「なまえ、次の休みは、俺の家に遊びにきて。それから、色んな話をしよう。もっと」
少しずつ、ぺりぺりと剥がしていくように接触していた部分を離しながら、幸村が言った。
たぶん、俺たちにはもっと会話が必要だ。なまえが俺を名前で呼ぶ練習も。
うん、と頷いて、顔を拭った。私の顔より幸村の制服の方が濡れている気がした。泣いて泣いて、ひどくなっているはずの私の顔を幸村はいつものように優しく見る。頬を撫でる。キスをする。
「…ゆきむら、」
「ん?」
「私、今日、ビンタされたよ。二回も」
「誰に」
「えーと、アレ、女バレの副部長。あの、髪短いけど、内巻きにしてる子」
「どうして」
「…幸村の彼女だからじゃない? 昼休み、呼び出されたの、幸村くんと別れて!って」
「ごめん」
幸村は私の頬を優しく撫でる。顔を上げたら、その目が少し怒っている気がした。
こういうことは、言わない方が良いと思ってた。私なんかの話をするより、幸村の話を聞きたいと思っていた。知らない部分を少しでも多く埋めたかった。幸村の、充実した日々を知るのが楽しかった。それだけだった。
「ごめんね、もうなまえに手出しはさせないから」
「うん、」
もう一度キスをして、幸村は少し黙って、もう帰るよ、と言った。また、私は、うん、と頷く。いつまでも私の頬を撫でている幸村の手も、名残惜しむように離れていく。空気が、実際以上に冷たい。ふたつの体ということは、ただでさえ隙間があるんだ。私たちは、自ら密着していかない限り、触れ合うことも混ざり合うこともできない。
次の休みが楽しみだと思ったら、幸村が同じことを言い出して、言わなかったけど、嬉しくなった。