まず最初にしたことは、ゴミ袋をたくさん買ってくることだった。帰宅後すぐに部屋着に着替えて、とりあえずクローゼットを開けた。掛けているハンガーをひとつずつ反対端に手繰り寄せながら、最近着ていないものを引っ掴んですぐそこのベッドに放っていく。季節でないものも、心に引っ掛かるものは同じようにした。
結局、反対端に辿り着けたのは半分以下で溜め息を吐く。
部屋着を脱いで、ベッドに放った。ハンガーに掛かったままの洋服らを、一枚ずつ掴んで外して、鏡の前で着てみる。着心地はどうだろう。襟ぐり、丈、色、なぜしばらく着ていなかったのだろうか?
着てみると、しっくりきたものも勿論ある。そういうものはハンガーに掛け直してクローゼットに戻す。要らない、と思ったものは、口を広げたゴミ袋に軽く畳んで入れていく。それなりのものしかないから、後でリサイクルショップにでも持って行こう。
すべてを判別し終えて、今度はタンスの方を開けた。中に入っているものを、選んで、捨てて、戻して。
それはなんだか、自傷行為みたいだった。
いま私は、私の一部を、引き剥がして、削いで、千切って、捨てようとしている。
ひりひりする。心が。でも、私はこうしなければならない。
靴下とストッキングのひきだしを判別し終えて、下着の入っているひきだしを開ける。レースは傷んでいないか、ほつれていないか。ゴムは伸びていないか。気に入っているか。一枚ずつ取り出して眺めていたら、チャイムが鳴った。

「…凄い顔してますよ」
「…久しぶり」
「…入れてもらいたいんですけど」
「…うん、」

弥鱈さんは、左手に袋を持っている。リビングに続く廊下、寝室のドアを全開にしたままだった。弥鱈さんはすぐそれに気づく。立ち止まって、思い詰めた顔をしているのかもしれない私の背中に声をかける。

「すごいことになってますね」
「…うん」

開け放したままのひきだし。たくさんのゴミ袋。タンスの上に置いていた、ブランド靴の箱、多数。不織布の巾着に入っているブランドバッグ、多数。高級腕時計、多数。好きなブランドのアクセサリー、多数。それらが、床に所狭しと広げられているのだから、仕方ない。

「なまえさん」

弥鱈さんの声が、立ち止まって俯いた、私のうなじに掛かる。それ以上のアクションがなくて、私は渋々振り向いた。弥鱈さんは顔だけ、寝室に向いている。複雑な気持ちで眺めていたら、弥鱈さんが私をまっすぐ見た。

「お見舞いです。ずっと面会謝絶だったので」

弥鱈さんが左腕をまっすぐ伸ばして、持っていたものを私に突き出す。
情けない話、私は死にかけていた。退院したのは、さっきだ。意識を取り戻してからは、ずっと考え事をしていた。誰にも会いたくなくて、謝絶にしてもらっていた。
情けなくて堪らなかった。怖くも、なった。自分の愚かさを痛感もした。当たり前に生きていたことを、思い出したのだ。
この仕事をしていて、人を殺したこともあるし、死んでいくのを幾度も見た。けれど、何とも思わなかった。
この前やっと、実感したのだ。生きるということ。死ぬということ。我が身に降りかかって、やっとどういうことか理解したのだ。そうしたら、怖くて怖くて仕方なかった。毎晩、個室のベッドで泣いた。誰にも言えやしない。同業の彼氏にだって、言えなかった。

「驚きましたよ、まさかあなたが道路に飛び出した子どもを庇ってトラックに轢かれるなんて」

返す言葉もない。体が勝手に動いていたのだ。でもトラックはもうすぐそこに迫っていたし、信号はどこも青でトラック以外の車もたくさん来ていたから、もうどうしようもなかった。それはたった2、3秒で、私はただ車道に飛び出した女の子を抱えてトラックに背を向けるのが精一杯だった。
命を落としかけたのが、仕事でもなんでもないことだなんて、私だって予想していなかった。
私はただ情けなさに涙が出そうなのを我慢して、俯いていた。
弥鱈さんはすたすたと距離を詰めて、私の手にケーキ屋の紙袋を持たせる。

「なに落ち込んでるんですか」
「…もうぐちゃぐちゃだよ」
「なまえさんのおかげで、女の子が助かったんじゃないですか」
「そうなんだけど」

そうなんだけど、私は考えてしまう。
あの子を助ける必要が、あったのだろうか。いままで、たくさんの人が死ぬのを見てきた。助けようなんて思いもしなかった。そういうものだと思っていた。それなのに、どうして。
目を覚ましたとき、すべてを思い出したとき。初めて、死ぬことを怖いと思った。死にたくないと思った。痛いのは嫌だ。辛いのも、苦しいのも嫌だ。自分の能力を過信していたから、こうなったのも分かっていた。
紙袋を持ったまま、しゃがみ込んだ。そして、泣いた。

「弥鱈さん、」
「はい」
「私、死にたくないよ…」

その一言で、涙が次から次へと落ちてくる。
死にたくない。死にたくないけど、それは私には選べない。死ぬときは、誰だって死んでしまう。そう思ったら、怖くて、恐ろしくて、堪らなかった。
死はこんなに近くにあった。それで、捨てようと思ったのだ。要らないもの、使っていないもの。捨てて、身軽になろう。生きることに、向き合おう、そう思った。
いつ死ぬか、分からない仕事を、私たちはしている。

「生きてるじゃないですか」

弥鱈さんの手が頭を撫でる。私は、咽び泣いている。
生きていて良かったと、目が覚めて、すべてを理解したときに思った。まだ弥鱈さんといられる。そう思って、泣いた。止まらない涙は、仰向けの私の耳の近くを幾度も通って不快だったけど、私は腕を動かすことすらできなかった。

「俺だって、何度も死にかけたけど、まだ生きてる」

だから、大丈夫、と弥鱈さんの優しい声が私を宥めた。泣き止まない私の背中をずっとさすり続けてくれる。
少しでも死を回避するには、強くなるしかない。弥鱈さんのように。少しでも、儚くても、僅かでも、生に執着するために、もっと強く、もっと向き合って。
落ち着きたくて、なんとか深呼吸を繰り返す。続けてやっと、私は正しい呼吸でびしょびしょの顔を拭う。

「でも捨てることにした。なんか、よく考えたら、なんであんなに持ってるんだろう」
「良いんじゃないですか」

立たせてくれた弥鱈さんは、もう一度寝室を見る。息を僅かに吐き出しながら口角を上げて、口を開いた。

「でも、あれじゃあ、今日は寝れなそうですね」
「今日中にまとめるよ。明日も休みだから、売りに行く」
「頑張ってください」
「でもその前に、糖分補給する!」

笑って紙袋を顔の横に持ち上げてみせたら、弥鱈さんは目を伏せながらまた緩く口角を上げた。
この人のために、生きよう。
私のために、生きよう。
助けたい誰かのために、生きよう。
見捨てた彼らのために、生きよう。
弥鱈さんが、久しぶりのキスをしてくれて、心から、生きていることに感謝した。