※倫理的に問題があります、ご注意ください
「本当に、可愛くない」
そう吐き捨てた彼の声が、未だに耳から離れない。
人が少ない休憩所を狙って、ブラックの缶コーヒーを飲みながら煙草を吸う。最近、体調があまり良くない。もう数週間は食欲がない。食べていないせいか、体はだるいし重い。ゼリー飲料やヨーグルトなんかを流し込み、頭痛薬を頻繁に飲んで、なんとか毎日働いている。
向こうの方から、エレベーターが止まる音がした。いまは、誰とも、接触したくない。
「みょーじさん」
「銅寺さん…お疲れさまです」
「顔色、悪いね。大丈夫?」
私が何か返す前に、そんなわけないか、と銅寺さんはひとりで完結する。銅寺さんは煙草を吸わないけど、自販機で缶コーヒーを買って私の隣に来た。避けられない。銅寺さんの恐らく気遣いが、いまは痛い。
「薄情なもんだよね。すーぐ、付き合いだしちゃって。あんな人だとは思わなかったな」
こみ上げてきた何かを、ぐっと飲み込む。ごまかすように、煙草を咥えて大きく吸った。肺に充満していく、苦い煙。深呼吸をするように、長く長く吐き出す。
銅寺さんは、もしや傷口に塩を塗り込みにきたのではないか?
「痩せたんじゃない? ちゃんと食べてる?」
「あんまり、食欲がなくて」
「煙草もコーヒーも、体に良くないよ。 一度、診てもらった方が良い」
「そんな、そこまでじゃないですから」
銅寺さんの、憐れむような視線が痛い。だから、目を合わせられない。もう放っておいて欲しい。
彼氏が、可愛い後輩にちょっかいをかけられていた。彼氏も満更でもなさそうな態度で、その後ふたりきりになったときに私はそれを責めた。彼氏は面倒くさそうな視線を私に向けて、そして、例のあの言葉を浴びせた。
その言葉の冷たさといったら、私はすっかり凍ったように固まってしまった。可愛くない。その言葉は、私の両の耳からずるりと入り込んで、足の先までを冷たくする。
私はそのとき、泣かないでいられた。じゃあもう別れよう、あの子と付き合ったら良いよ、と言って、鞄を持ち彼の家を飛び出した。だからもう、その人は彼氏じゃなくて、元彼氏になった。玄関のドアを閉めるときに言った、さようならは彼に届いただろうか?
「…自覚ないかもしれないけど、本当に顔色悪いよ。ちゃんと栄養摂ってね」
「はは、大丈夫ですよ。ちゃんと働けますから」
「そういうことじゃなくって」
銅寺さんは、溜息を吐きながら私を見る。その目を、これ以上見ていたらここで泣き出してしまう気がして、私は慌てて煙草をもみ消した。まだ少し残っているコーヒー。ポーチに入れている頭痛薬を、それで流し込んだ。
銅寺さんのそれを窘める小言を聞き流して、笑う。大丈夫。もう少ししたら、この傷も癒えるだろう。忘れられるだろう。そうしたら、きっと元通りになる。
別れたことと、彼が別の子と付き合いだしたことは、水面下ですぐに広まったらしい。捨てられた女を憐れむ視線は受けても、一様にみな無言を貫いてくれる。惨めで、仕方ない。
これから会議があるので、と銅寺さんに声をかけて休憩所を出た。
もう昼休憩も終わる。けれど、お腹が減らない。もうずっとだ。食べなさすぎて、先月は生理がなかった。今月もなければ、栄養点滴でも受けた方が良いのかもしれない。
エレベーターを下りる。掃除課に一度戻って、会議室に向かった。もう半分くらいの掃除人が着席している。指定の座席に座って、置かれている資料を手に取った。
形式通りの定例会議は静かに始まり、黙々と進行されていく。私は、徐々にこみ上げてきた吐き気と無言で戦っていた。周りに気づかれないように気をつけながら、何度も何度も嚥下して、深呼吸を繰り返す。やっぱり、この後早退して附属病院に駆け込むべきかもしれない。
「みょーじ?」
不意を突かれた夜行掃除人の鋭い声に、慌てて返事をしながら視線をやる。その怪訝な表情に、しまった、と思ったけれど、まだ胸や腹の辺りが気持ち悪くて仕方がない。
「具合が悪いなら上がって構わん。内容は後で誰かから聞け」
「…すみません、そうさせて頂きます」
視線を集めているのを感じた。きっと、みんな、私が弥鱈さんと別れたのを知っているのだ。同期で賭郎に入って、もう何年も付き合っていたことも。そして、弥鱈さんはもう歳下の可愛い後輩と付き合っていることも。
仕事に私情を挟みやがってと思われているだろう。愚かな女と思われているだろう。とめどない羞恥心に、顔を上げられない。資料の端を揃えて、立ち上がる。下を向いていた私の視界が、さあっと、黒く染まっていく。覚えているのは、そこまでだ。
…
目を開けたら、そこは真っ白だった。体中の気持ち悪さがあまり感じられない。はあ、と息を吐いた。隣から咳払いがした。
「お目覚めですか」
心底嫌気がする、そんな声音で弥鱈さんが嫌味に言った。私はそのとき、ここが病院で、あのとき私は倒れたのだと理解した。
横を向いたら、だるそうに椅子にかける弥鱈さんと目が合う。弥鱈さんは、緩慢にナースコールを押した。
「どれだけの人に迷惑をかけたか」
「…」
「体調管理もできないんですか」
「…」
「恥を知りなさい」
涙が、出そうになった。押し殺すので精一杯で、何も言えなかった。顔を背ける。引き裂かれるような痛みを喉に感じたけど、歯を食いしばって目を少し見開いて堪えた。
押し黙っていたら、足音がしてドアが開いた。パタパタと、看護師と医師がやってくる。年配の看護師と、目が合った。
「気分はどう? 少し顔色が良くなったみたいね」
喋ろうと口を開けてみたけれど、声が震える気がして、開けるだけで終わった。察した看護師は、私の返事を求めない。
溢れ出る直前だった涙を、弥鱈さんに気づかれないように、顔を背けたまま静かに落とした。
「ちょっとお話があるから、外してもらえるかしら」
「…分かりました」
もう視線を合わせることはなく、弥鱈さんは病室を出て行く。その椅子に、白髪で優しい顔をした医師が座る。一通りの、私を探るような問答の末に、眩しさに目を眇めるように、医師は一息吐いた。
「驚かずに、聞いて欲しいんだけどもね」
「…はい」
「みょーじさん、妊娠してますね。切迫流産、しかかってました」
医師の、柔和な目尻や頬の皺を眺めながら、私は何も言えなかった。
生理がなかったのは、妊娠していたからだったのか。食欲がないのも、だるいのも、具合が悪いのも。私はそんなこともつゆ知らず、煙草もコーヒーも、頭痛薬だって過剰に摂取していた。
頭を殴られたような、首を絞められたような、そんな衝撃が、私から呼吸を奪う。すかさず看護師が、落ち着いて、と私の腕をさすった。
「にんしん、」
「はい、心当たりは…いまの人かな」
弥鱈さんしか、いない。いないけれど、私はその優しい口調の言葉に、返事ができなかった。どうして良いか分からなくて、この状況を飲み込みきれなくて、ぶわっと涙が溢れた。視界のすべてがぼやけて何も見えない。
声を抑えられずに、子どものように泣きじゃくる私を、看護師が黙ってずっと撫でてくれていた。
絶対安静を言い渡された私は、柔らかい布団に埋もれながら考える。
産むか、産まないか。
あの後、夜行掃除人が見舞いに来てくれた。医師が付き添い、切迫流産の恐れがあるためしばらくは絶対安静で、仕事には行けないという話をした。弥鱈さんは、それから来ない。友人らと、銅寺さんが来た。誰も私が入院している理由は知らなかった。私も、言わなかった。銅寺さんは、弥鱈さんが夜行掃除人に呼び出されたと教えてくれたが、勿論なぜかは知らなかった。
白い天井を見ながら、じっと私は考える。
私のお腹に、命が宿っている。不摂生を続けた私のお腹に、いる。落ちてしまわないように、必死でしがみついている。大好きな、大好きだった弥鱈さんとの、子どもであることは間違いがない。
考えて、泣いた。考え続けて、泣いた。もう、嗚咽することもなかった。ただ涙だけが、静かに静かに、髪に紛れて落ちていく。
次の日私は、看護師に、堕胎したいと告げた。同意書は、私だけのサインで提出した。
…
「…みょーじ、具合はもう良いのか」
夜行掃除人の、意外にも回りくどい言葉に、少しだけ笑えた。ひとりで平気だったのに、病院を出たら夜行掃除人が待っていたのだ。
私の持っている荷物を持とうと手を出してくれたけど、首を振って遠慮をした。
「堕ろしました」
私のお腹には、もう何もない。具合も、悪くない。身も心も、いやにさっぱりしていた。
泣いたのは、麻酔が解けてからだ。そのときだけ、私は泣いた。それから今日まではもう一度も泣いていない。
「…そうか」
「たくさん休んじゃって、申し訳ありません」
「…休んでた分、挽回しろよ」
「はい、すみません」
タクシーで帰るつもりだったのだが、夜行掃除人の歩くのに合わせていたら、向こうに黒塗りの高級車が見えた。まさか送りの車両を用意していたなんて。ちらりと夜行掃除人を見たけれど、当の本人は真正面だけを見て、私のことなんて眼中にすらなかった。
スモークでよく見えないが、運転席に誰かいるらしい。夜行掃除人は後部座席のドアを開けて、乗るように促した。
「乗らないんですか」
「お前は明後日から出勤だ。俺は社に戻る」
視線をやった、後ろにはもう一台車が停まっている。
そうですか、と車に乗り込んだ。夜行掃除人に会釈したところでドアが閉められて、私は前を向いた。
「…」
運転席には、弥鱈さんがいた。
なんて言って良いか分からず、黙っていたけど、弥鱈さんも黙っていた。
妊娠していたことは、伝わっているのだろうか。堕胎したことは、伝わっていないだろう。
鞄を隣に置いて、シートベルトを締めた。無言のまま、緩やかに発車する。
弥鱈さんの運転する車、後ろに座るのは初めてだった。弥鱈さんは私を送迎する立場ではないし、付き合っていた頃は当然助手席だった。
いまでは、そこにあの子が座っているのだろう。そう考えたら苦しくて、涙が滲んだ。外を眺めるふりをして、飲み込む。私の愚かな嫉妬心で、大事なものを手放すことになってしまった。好きだったなら、我慢しなくてはならなかったのかもしれない。でもきっと、何度繰り返しても、我慢なんてできなかっただろう。ずたずたに切り裂かれた私の裡は、痛いと泣き叫んで、彼に矛先を向けるのだ。だから、どう足掻いても、この結末からは逃れられなかったのだと思う。
そう考えると、私は少しずつ穏やかな心を取り戻していく。大切なものなんて、無い方が良いのかもしれない。そんなものがあるから、私の心はこんなにも傷つき、私のもとにやってきてくれた罪も無い命を、奪うことになった。
「…体調は、」
弥鱈さんは、続く言葉を選ぶように、そこで言葉を切った。たぶん、やはり、知っているのだ。
私は、至って穏やかに、平静に、誰かを責めるつもりなんて欠片もなく、なんともないように、言った。
「万全です」
「…そうですか」
「堕ろしましたから」
なんともない。車は、滑らかに道路を進んでいく。緩やかに、なだらかに。
弥鱈さんは、運転がとても上手で、隣に座っているのは本当に楽しかった。無駄がなくするりと動く手が、指が、ウィンカーを上げるだけで、良い気分になった。
斜め後ろから、見る弥鱈さんは初めてで、ミラーに写っていないのを良いことに、久しぶりにその首筋や手や、髪先を眺める。
「夜行さんしか、知らないですから、大丈夫ですよ」
「…」
「ご迷惑はおかけしません」
こんなにも、体がすっきりして軽いなんて、久しぶりだ。心も軽いのは、体につられたのだろう。そうして、すべてに、吹っ切れたからなのだろう。
病院のベッドでおとなしくしている間、ずっと、私は考え事ばかりしていたのだから。たくさん、一生分と言っても過言でないくらい、泣いたのだから。
ひとりで生きる、決心がついた。大好きだった人を、心から手放す決心がついた。
「…なまえさん、」
「…なんですか、弥鱈さん」
牽制の、意を込めた。私はもう、彼を悠助くんとは呼べない。そして、彼ももう、私を名で呼んではならないのだ。あの子と決めた以上は、私たちはもう節度を持たねばならない。
信号で、車が停まる。ビルに反射する光が、キラキラしている。眩しくて、目を細めた。
「…ほんの、遊びのつもりでした」
「…何がですか?」
「…あの人とのことです」
「随分と可哀想なことをするんですね」
「それであなたが、泣いて嫌がって、くれれば良いと、思っていました」
「最低ですね」
私にも、あの子にも。心臓が、うるさくなってくる。丁寧な言葉を選んだけれど、たぶんそれは彼を酷く責めただろう。そして彼は、手酷く責められるだけのことをしたのだろう。
いまとなっては、もうどうとも思わない。あのとき、耳から侵入した冷気は、私の体内をくまなく冷やしていったのだ。私の、彼が好きだという気持ちは、そこで熱を失った。残っていたのは、もう過去形のそれだ。
「返す言葉もありません」
「一生、反省して、彼女を愛したら良いんじゃないですか」
「彼女は愛せません」
「わがまま過ぎません?」
「その通りですね」
「私に、どうこう言える立場にないのでは?」
弥鱈さんの、氷のように冷たく鋭い言葉を思い出す。恥を知りなさい、と彼は言った。私は彼と別れてから、周囲の視線に耐え忍んできた。それがどれほどの屈辱であったか、彼には分からないだろう。
その通りですね、と弥鱈さんは感情のない声で続けた。
越えてはならない一線が、あるということ。彼は私を見誤っていた。愛していても、愛しているからこそ、許せないことがある。彼は平気でも、私には許せないことがある。彼には、私を心の底から愛するという義務があった。私をたったひとり、特別扱いするという義務があった。けれど彼は、それを反故にした。そうなっては、私はもう彼を愛することはできない。私を大事にできない彼を誰より何より愛することはできない。
「もう…許してもらうことはできませんか」
「できませんよ」
そうですか、と弥鱈さんは静かに言う。
静かな車内。車の走る音、クラクション、喧騒、外はこんなにも騒がしい。私たちの乗る車は、その中を沈黙して進んでいく。もう、私たちは何の言葉も持たない。どんな感情も、どんな言葉も、もう私たちを繋ぐことはできない。彼は私を完膚なきまでに傷つけ、私は人をひとり殺した。その事実はもう変えられない。そこにどんな確かな感情を与えようとも、どんな美しい言葉を飾ろうとも、死んだ心と命はもう、よみがえりはしないのだ。
彼のすべてを連ねて責めたとしても、もうそれはどうにもならない。私には何も与えない代わりに、彼の罪を軽くしてしまう。そんなことは絶対に許せない。取り返しのつかない罪を、けれど罰せられないという罰を、私は彼に与えたい。
ふたりはもう何も語らない。私たちの間にわだかまる、冷えた空気。それを、もう何も誰も温めることはできない。私の爪先はあのときから、冷えたまま。
お腹の中の子を殺したときに、たぶん私も、どこか何かが死んでしまった。
…フィクションですからね!