※言葉遣いが非常に悪いです
それでね、急なんだけど、離婚することになったの、でね、すぐに再婚するから、あっでも大丈夫、円満離婚だから、ダンナも、もうダンナじゃなくなるんだった、まあダンナも納得してくれたし、すっごいびっくりしてたけどね、あ、新しいダンナはね、ダンナも知ってるんだけど、あーなんかややこしいー、息子の養護関係の人でね、持病にも理解ある人だし、全然大丈夫なの、いやー、なまえちゃんには一番に知らせたくって、
頭の中に直接ラジオを受信しているのかもしれない。この不愉快な音声が右耳から途切れることなく脳内に滑り込んでくる。ラジオを聴いているとき、映像があると良いのになと思う瞬間がごく稀にあるがこの音声には映像がなくて本当に良かったと思う。もしあったら、私はハイヒールを履いてテレビ画面に蹴りを入れただろう。
「は? それほんとにダンナは納得してんの? ていうかあり得ねえな、とんだクソビッチじゃねえか。慰謝料ちゃんと払えよクソビッチ」
私は無意識のうちにそのラジオに話しかけた。ラジオに話しかけるとか、頭がおかしい。テレビに話しかけるのは寂しい奴だと言われるけれど、私は別に寂しくない。ただラジオから流れてくる女の言い分が、たまらなく不愉快だっただけだ。これはただの反射だ。
汚い言葉で正気を取り戻した私は、これが脳内で受信しているラジオではないことを思い出す。携帯電話を持っている右手を右耳から離した。受信できる電波が遠退いて、それはもうガサガサした雑音になる。そして、親指で画面の終話マークを押した。ブツっと、電波は遮断される。
「あー」
私は天井を見上げる。白い。口を開けて半ば放心したまま、シミひとつない天井を見上げている。別に、何かを見ているわけではない。
嫌な気分だ。とびきり嫌な気分だ。これはもう、死ぬか殺すしかない。私が死ねばもう嫌なものは何も見なくて良い。それか、嫌なものたちすべてを私が殲滅するしかない。本気でそう思う。死ぬか、殺すか。
「なまえさん」
後ろから、悠助くんが私を呼んだ。私はハッとしてすぐさま振り向く。悠助くんだ。私の目が、仕事を始めた。悠助くんは私の世界になくてはならない。悠助くんがいなくなったら、間違いなく世界は崩壊する。私は自制を失って、気に入らない奴らを皆殺しにするだろう。しないと思うけど。
けどそんなことはどうでもいい。重要なのは、悠助くんに呼ばれたということだ。
「悠助くん!」
「大丈夫ですか、電話」
「ああ、」
私は視線をそらして、舌打ちを堪えた。それから、電話の内容を簡潔にまとめて悠助くんに教える。ほう、と言った悠助くんに、ありえないよね!?と詰め寄った。悠助くんは、基本的に私に肯定する。だから、悠助くんはありえないと言ってくれる。分かりきったことだ。私たちには。
「まあ、詳しい状況が分からないので何とも言えませんが」
「ええ、」
「浮気か不倫を疑われても仕方がないですね」
「でしょ!? しかも、円満だとか言うんだよ。絶対そんなことなくない?」
「まあ、ないかもしれませんね」
「はあ、マジで無理」
私は潔癖なのかもしれない。許せないことやものや人が多すぎる。女の半分はキチガイだと思っているが、私もそうなのかもしれない。私はこういう案件で、度々友人を喪う。おかげで、悠助くん以外に遊べる人も飲みに行ける人も片手ほどしかいない。女どもは、ふとした瞬間に私を裏切る。あの、感情的で我儘で、どうしようもない性質はなぜなのか。
「こうやって、友達が減ってくよ」
「良いんじゃないですか、嫌いな人と友人でいる必要はありませんよ」
「悠助くんはずっと傍にいてくれる?」
「いますよ」
そこで思い立った。もしかしたら、私が孤立していくのは悠助くんのせいかもしれない。悠助くんが私を甘やかすせいで私は我慢ができなくなっているのかもしれない。この世はキチガイで溢れているのだ。それを許容できなければ私が死んでしまう。やっぱり死ぬか殺すかしかないのだ。悠助くんならどっちを選ぶのだろう。
でも私はそれを聞かない。答えは分かりきっているからだ。殺すだ。悠助くんは私の死を望まない。私は悠助くんに促されるままにソファーに座る。背中も腰もお尻も足も、ふかふかが包んでくれる。そして、隣には愛しい悠助くん。悠助くんさえいれば、他には何も要らない。
「なまえさんの悪い癖ですね」
「どのへんが?」
「見えない誰かへの感情移入」
「…感情移入、」
「それから、他人に多くを求めるところ」
「…求めすぎなのかあ」
「なまえさんが清く正しく美しいからといって、皆がそうではないですから」
隣に座っていたけれど、悠助くんの太ももを跨いで向き合って座る。ぎゅう、と抱きつけば気持ち良さにため息が漏れた。ちょうど良い。温度も質感もサイズも何もかもが私を満たす形をしている。悠助くんも私を抱き締めてくれて、私はもっとくっついた。隙間なんて許せない。空気の入る隙間もないくらいにぴったりくっついていたい。大きく息を吸う。体臭と煙草の匂い。安心する。この世は私をイライラさせるために存在しているといっても過言ではない。そこにいる、悠助くん。神が遣わした、私への褒美としか思えない。
私は発狂しそうなとき、悠助くんのことを考える。髪の跳ね具合、鼻筋と小鼻の形、手の硬さと温さ、爪の形、スーツの後姿、足の開き具合、革靴の爪先、声の低さ、セックスの仕方。それらをひとつずつ思い浮かべる。上から、下から、前から、後ろから。丁寧に詳細に思い出す。そうすると、私を狂わそうとしているものから離れられる。それらが、私を正気に引き戻す。だからこうやって、悠助くんを補給しておかないといけない。
「悠助くんと、ふたりきりの世界なら良いのにな」
「全部自分たちでやることになるんですよ」
「それはめんどくさいかも〜」
「いまのままで良いじゃないですか」
気に入らない奴らは、殺せば良いんです。悠助くんは私の頭を絶えず撫でながら淀みなくそう言う。やっぱり。私の思った通りだ。私が死ぬくらいなら、私たちが死ぬくらいなら、要らないものを殺せば良い。やっぱり、そうだよね。私たちは私たち以上に大切なものを持たない。清く正しく美しい私たちが、キチガイのために死ぬなんてナンセンスだ。生き残るべきは私たちなのだ。
「悠助くん、好き」
「はい」
「悠助くん、大好き」
「はい」
「悠助くんだけは、私から離れていかないで」
「離れませんよ」
「絶対そうして」
悠助くんの手が頭を撫でる。悠助くんが私を見限るなら、それはもうとっくの昔に行われていただろう。私は昔から、ずっと前から、いや生まれたときから、この考え方を貫いている。むしろ、これしかできない。だから、子どもの頃からこんなにも生きづらさを感じていた。だからこそ、それを分かち合い共感し許してくれる悠助くんに出会ったときに、運命だと思った。そして、私は正しかったと直感した。もし私が間違っていたならば、悠助くんの出現はありえなかったはずだ。悠助くんの存在が、私の潔癖ぶりと正しさの追求に拍車をかけた。
ずっとこの手に甘えていたい。私をイライラさせる世界など切り捨てたい。ずっと抱き合って、いつの日かどろどろに混ざり合って果てたい。
「悠助くんのせいで、私、わがままになってく」
「…なまえさん、もとからわがままじゃないですか」
「えっ…バレてた?」
「バレバレです」
「でも私、外では我慢していられるよ」
「そうですね。だからストレス溜まるんですよ」
「悠助くんしかわがまま許してくれないから」
「そういう素直なところ、好きですよ」
悠助くんの手が私の頬に触れる。それだけで私はぽーっとなる。多分この後、キスをしてセックスをする。私たちはふたりきりの世界に埋もれて、没頭していく。私たちさえいれば、あとには誰も要らない。
私たちはふたりきりで孤立していくのかもしれない。すべてを殲滅して、私たちと無害なその他大勢になるのだろうと考えて、気付く。いや、もしかしたら、私たちがアダムとイヴになるのかもしれない。