腕枕は嫌いだと言う人と、たぶん私は分かり合えない。筋肉を纏った二の腕に頭を少し乗せ、脇の辺りに顔を寄せる。薄い体臭は私を落ち着かせるし、手足を絡ませた男の肉体は固くて温かくて心強くて確かだ。
私は目を閉じ、口角が上がっていることを自覚しながら深く息を吸って、吐く。頬に感じる人肌、両足で捕まえた足の逞しさや腕を乗せた腹部の凹凸に、さらにうっとりした。
このまま寝てしまいたいけれど、まだまだ堪能していたい気もする。
なんとも、もどかしい。頬擦りした肌の心地良さに薄目を開けたら、弥鱈さんの間延びした声が丁度よく降りてきた。
「…暑いんですけど」
「私、体温高めなんです」
「添い寝だけならこんなに密着する必要なくないですか」
「はあ? こんなに密着するから添い寝なんじゃないですか」
堪能してるんだから黙っててくださいと、面倒くさそうな声色で続ける。身動ぎをして体の角度を変えた。
別に、付き合っているわけではない。ただの同僚、よりは好意を抱いていたことは認める。男として、アリかナシかで言うとアリだった。そして、彼も私にそれなりには親切だったからだ。
寂しくて寂しくて仕方なくなって、我慢できなくなって、誰なら断られないかを思案した結果、弥鱈さんに電話してみた。
もぞりと足の位置を変える。スエットを無理矢理脱がせた弥鱈さんの足は薄めの体毛で、チクチクもしないしガサガサもしない。一切の湿り気がないさらさらした皮膚に、私の皮膚を重ね合わせて馴染ませる。
気持ちいい。癒される。どうしてだろう? とても眠たくなる。
「ねー、みだらさん」
「…なんですか」
「ぎゅーしてー」
「はあ?」
「ぎゅー!」
片腕を伸ばして、弥鱈さんの右腕を取る。強引に引っ張って、体を横向きにさせて広い胸板に擦り寄った。温かい。すべすべ。いい匂い。気持ちいい。うとうとする。肌のありとあらゆる部分で温もりを感じる。
諦めたように、黙って右腕を私の背中に回した弥鱈さんは小さく溜息をひとつ吐いた。
「いつもこんなことしてるんですか」
「してない」
私がどれだけ勇気を出したか、彼は知らないだろう。でも私も、ズルいことは、認める。きっと断らないだろうと思ったのだ。だって、弥鱈さんは私には少しだけ優しかった。いつも上座に立たせてくれるし、座らせてくれた。好きな飲み物を知っていた。疲れているときや、残業しているときに差し入れをくれた。弥鱈さんがそういうことをしない人なのは知っている。だから。
「寂しくて寂しくて耐えられなかったんです。弥鱈さんなら断らないだろうと思って、」
胸板に当てていた左腕を腰に回した。細くもないし、薄くもない。頼り甲斐のありそうな弥鱈さんの体を、ぎゅうと私のそれへ押し付けるように力を込める。
抱き締められるというのは、いつだって私に安心を齎す。それが、母で満足できなくなったのはいつからだっただろうか?
男の肉体が恋しくなったのは、いつからだっただろうか?
寂しくて堪らないのは、私にたくさん穴が開いてしまったからだ。そこから風がひゅうひゅう吹き込んで、私の心をどんどん冷やしていくのだ。私は凍えて、でもひとりじゃたくさんの穴を塞ぐことができなかった。
私に空いたたくさんの穴を埋めて欲しい。穴だらけの私の心を埋めて欲しい。それができるのは弥鱈さんだけだと、たぶん、私は心のどこかで分かっていた。分かって、彼の番号を探していた。
「ふーん…」
「嫌じゃないなら、こうしてて欲しいんです」
「…それはつまり、」
「…つまり?」
「ヤリたいってことですか?」
「ちが! い、ます!」
弥鱈さんの腕に乗せた頭を滑らせながら体を離して、その顔を見た。弥鱈さんはいつも通りの、読めない無表情、意味があるのか分からない眉間のシワ。
私は、自分でこんなことをしておいてなんだけども、いま傷ついた。
寂しさに耐えることに大部分を費やしていた私の心は、それに耐えるだけの容量がなくて、傷ついたついでに涙目になる。いっぱいいっぱいの、仕事中のように。それは引き鉄になっただけ。コップはすでに並々になっていた。表面張力でぎりぎり溢れていなかっただけなのだ。そこに、たった一滴、泣くほどのことでもない、よくある、ありきたりな、けれど私の心に引っ掻き傷を残す出来事が、ぽたりと注がれて、わあっと溢れ出てしまうのだ。それだけのことなのに。それだけの、ことなのに。
じわりと涙が目を覆って、私はそれが溢れないように、目を見開いて思考を停止させようと努力するのだ。いつも、いつも。
「何泣いてるんですか」
「泣いてません!」
少しでも瞼同士を近づけてしまうと、表面張力で凌げる量が減ってしまう。瞼をできるだけ離しながら、視線を逸らす。
悲しいけど、寂しいのは確かだから、私は体を離すことができず已む無く背中を当てようと寝返りを打つために体を浮かせた。けれどすかさず弥鱈さんの右腕が私の左肩を掴んでそれを阻止する。
その手の力強さがまたひとつ、私の穴を塞いで、まったく本当に、嫌になった。
その手の有無を言わせぬ優しさがまたひとつ、私の穴を塞いで、まったく本当に、嫌になった。ほんとうに。
「あー、泣いちゃった」
「うるさいうるさい、ちょっと疲れてるだけなんです」
「はいはい、よしよし」
「やめて、」
「ごめん、ごめんて、」
先程まで、私にされるがままだった弥鱈さんが、下着だけを身に付けた私の体を自主的に抱き締める。皮膚に与えられる幸福感と、心を侵す虚無感で私の頭は混乱しながら、蒸発する前に落ちてしまった涙を自覚する。
弥鱈さんの、肩口のくぼみにすっぽり顔を収める。
頭を撫でられるなんていつぶりだろう。きちんと覚えてる。ちゃんと覚えてる。信じていた人に裏切られてから、されなくなったこと。してくれる人がいなくなったこと。
私とは、全く質の異なる肉体を感じる。私のすべてを包み込めるだけの大きさで、私のすべてを受け止めるだけの固さで。
溢れたコップに溜まっていたものは、もうどんな引っ掻き傷だったかすら分からなくなっている。ただ、そのときの、悲しいやら苦しいやら辛いやら、そういう気持ちだけがいつまでもコップの中にわだかまり続ける。
何かがすごく悲しいのに、辛くて堪らないのに、弥鱈さんの肌がそれを鎮めていく。宥めていく。悲しくなりながら、拒まない体に強く触れる。
「正直、選ばれたのが俺で良かったと思ってます」
弥鱈さんのくちびるが、私の頭頂部に触れる。涙は止まらない。嗚咽を漏らすようなものではないのだ。コップから溢れ出たそれのように、ただぱしゃりと、つうと、無機質に流れ出ていくだけ。
私は静かに弥鱈さんの胸を濡らしている。抵抗もしないほどなのだと、弥鱈さんに思われながら。ただ、与えられる温度を、私は黙々と肌に染み込ませている。優しさで心を膨らませている。ただ黙って。
「弥鱈さん…」
「なんですか」
「…勃ってる…」
「あなたいま、自分がどういう格好で、どういう状況か分かってます?」
少しの嘲りを含んだ声が、優しく降ってくる。分かっている。キャミソールとショーツのみだ。下心があったわけではなくて、いやあるにはあるけれど、そうじゃなくて、ただなるべく広い面積で肌を触れ合わせたかっただけだった。
それで、弥鱈さんが我慢できなければ、それはそれで良かったのだけれど。
「添い寝して欲しいんでしょう」
「…うん」
「今日はもう寝なさい」
「…えー、」
少し顔を上げて、渋い表情の弥鱈さんと目を合わせた。小声で、しないの?と聞いたけど、額を軽く叩かれただけだった。
肉体の穴を埋めることだって、心の穴を埋めることに役立つ。心と体が幸福感で満ちるということは、脳もそうなるのだ。男の肉体にはそういう能力もあると私は知っている。体中をまさぐる手によって、脳は満たされる。割り開いてくる熱によって、空腹は満たされるのだ。
そう分かっていてもなんだか嬉しくて、私はまた厚い胸板に頬を寄せた。目を閉じれば、柔らかな温もりに包まれていることがよく分かる。
朝、元気に目覚めたら食われるパターン。