電車の窓ガラスに映った自分をさりげなく確認。巻いた髪を整えて、服の裾を気にして、化粧の加減を見る。ちかちかと点滅する文字を眺めながら、目的地までをもどかしく感じた。例えば少し前を歩くスーツを着た人が猫背だったとき、ふと弥鱈さんが恋しくなる。ちょいちょいと袖口をひくと、黙って繋いでくれる筋の浮いた手のひら。雑踏の中に、外股気味の似た革靴を見かけたときに思い出す。私に合わせてゆっくり歩いてくれること。日常の中に、非日常的な彼を思い出しては、早く会いたいなあと日付を確認してしまう。着信履歴に並ぶ彼の名前を見てはにやけているであろう口元を押さえる。同僚にからかわれながらもどうにか定時に上がり、急いで着替えて化粧を直して髪を巻いて、少しヒールの高いパンプスに履き替えて、会社を出たら、逸る心を抑えて待ち合わせ場所へ向かう。早く会いたいなあと思いながら、ショップのウィンドウに映る自分を何度も見た。なかなか変わらない信号にやきもきしたり、電車を待ちながら時間を確認したり。早く会いたいなあ。服も髪も変じゃないかなあ。目的地を示す文字がちかちか光る。揺れに耐えて人波に流されるように降りる。早く会いたいと思えば足早になる。
弥鱈さんも、会いたいって思ってくれてるのかなあ。途端に足が重たくなって、階段を上るパンプスのつま先を眺めた。少しだけ、私だけ舞い上がっている気がして、気持ちが萎む。電話越しの弥鱈さんはいつも通りだった、と思う。私ばかり、はしゃいでいた気もしなくない。いい歳して恥ずかしい。もっと飄々とした弥鱈さんに似合うように、つりあうようになりたい。ゆっくり階段を上りきり、改札を出る。携帯電話を取り出して時間を確認すれば、まだ三十分ほど余裕がある。駅のトイレに入って鏡の前に立った。前髪を整えたって、化粧を直したって、鏡の中の自分は浮かない顔をしている。それでも約束の時間が迫っていて、トイレを出た。見上げた駅の時計は待ち合わせの二十分前を指している。
「…あ、」
駅の出入り口近く、壁にもたれた人影。途端に心臓が逸る。動揺から無意識に髪に指を絡ませながら、足早に弥鱈さんに近づく。その姿が大きくなればなるほど、さっきまで考えていたことは心の中から追い出されていく。早く、早く。揺れる髪を緩く掴む。少しずつ上がっていく息。弥鱈さん。早く、会いたいよ。目が合う。一瞬だけ。その背を壁から浮かせて、ポケットに手をいれたまま歩き出す弥鱈さんに、一瞬立ち止まってしまった。けれどすぐに走るように歩き出す。
「弥鱈さんっ」
深く息を吸って呼吸を整える。出した声は必死さが浮き彫りになっていて、また髪に手をやってしまった。慌てて直す。
「ごめんなさい、私、時間間違えました?」
弥鱈さんの指先が伸びてきて、前髪を直した。恥ずかしい。少し俯いて、でもちらりと顔色を窺うように上目遣いに見やる。弥鱈さんが真っ直ぐ私を見ていて、やっぱり恥ずかしくなった。
「いえ、恥ずかしながら、早く会いたいと思っていたら早く着いてしまいまして」
弥鱈さんは少しも表情を変えない。恥ずかしいなんて微塵も感じさせない。なのに。
「それより、どうかしましたか?」
「え? いいえ、なんにも…」
「…そうですか。先ほどなまえさんが立ち止まったとき、泣きそうだったので」
思わず顔の下半分に手をやった。弥鱈さんはどうしてこんなによく見ているんだろう。私を、喜ばせることばかり言うのだろう。
「早く、会いたくって、でも、弥鱈さんは」
声が震えた。服の裾を掴んでいた手に、弥鱈さんの手が触れる。
「なまえさん」
「…はい」
「行きましょう」
「…はい!」
繋いだ手に力を込めたら、同じように強く手が握られる。その歩幅はやっぱり狭くなっていて。いつもより近い横顔を盗み見る。今日は私がしたがる前に、初めて手を繋いでくれたね。緩んだ頬を見られる前に、視線を前に向けた。