静かな空間に僅か紛れたその音を、耳が拾った次の瞬間にはビールの空き缶を潰してゴミ箱に捨て、玄関へ向かっていた。

「ただいま〜」
「お帰りなさい」

ぱちん、と明かりをつけたら驚いたなまえと目が合う。華奢なデザインのミュールから抜いた足は少し頼りない。アルコールに浮かされた赤い頬で、楽しそうに笑っている。

「起きててくれたの? ありがとう」
「いいえ。…大丈夫ですか?」
「うん、ありがとう」

差し出した手に彼女の手が重なって、ふわりと甘い匂いが鼻を掠める。綺麗に色づいた爪、少しだけ手をかけた濃い茶髪。同僚の送別会に行くことに抵抗はないつもりだった。自分がそうなように、彼女には彼女の付き合いがある。自分には、干渉や制限をする権利なんてない。そんなこと、よく分かっているつもりだけど。なんだか少し、寂しいような気になる。それでも、寄りかかるように触れる熱と油断は、優越感を与えてくれた。

「悠助さん」
「はい?」
「呼んだだけ!」

弾むように歩く彼女は驚くほど上機嫌で、幾度も一緒に飲んだが初めて見る姿だった。ハンドバッグをソファに置いたなまえは、指を絡めて繋いだ手を揺らす。

「なんか、いいですよね」

水を取りに行くために手を離そうとするも、ソファに座らせた彼女は首を振り、手に力を込めてそれを阻む。ぐいぐい引っ張る彼女に従って隣に座った。もともと体温の高い彼女の手は、さらに温かい。含んだ言葉の続きを促すように顔を覗き込んだら、不意に視線を上げたなまえと目が合う。

「悠助さんが待っててくれるお家に帰れるの」

それは、自分にだって言えることだ。ドアを開けたら、お帰りなさいと微笑む彼女がいる。帰る家がある。待っている人がいる。それがどんなに幸せなことか、彼女よりよく分かってる。今日もこの家に、彼女の待つ場所に、帰ってこれるようにと願っているのだから。

「…なまえさん、」
「んー?」
「俺も、そう思っていますよ」

握った手は、柔らかく握り返してくる。何か言いたげに開いた唇に食いついた。舌先に触れた甘みは酔いを連れてきたようで頭が痺れる。小さく息を吐いたなまえは目を伏せたまま、肩に頭を預けた。

「…悠助さん」
「はい?」
「大好き」

寝言のように譫言のように零れた言葉を理解しようとしている内に、肩にかかる重さが増した。くるくると波打ちながら流れる彼女の髪を耳にかけて顔を覗き込む。長い睫毛は完全に伏せらていて、少し開いた唇の間からは小さく息が漏れている。なんだか救われたような、拍子抜けしたような気になるも、やっぱりこれで良かった、そう思って彼女を抱える。無意識でも寄り添ってくれる、柔らかく香る熱を手放したくなくて、もう一度だけ唇を重ねた。




弥鱈さんの待ってる家に帰りたい