眠ってしまえば、もうあなたはいない。広いベッドに、私はひとり。首を回してサイドテーブルを見る。私の飲んでいたワインと、半分ほど残ったアブサンとラウンドグラスと、口の開いていないミネラルウォーター。弥鱈さんはボヘミアンスタイルやクラシックスタイルでなく、ストレートで飲む。私も酒に強い方ではあるがアブサンは飲めないから、あれは彼しか飲まない。あと半分、いや、買い溜めたボトルは無駄にならないだろうか。弥鱈さんがいたはずのシーツの隙間に手を入れる。ひんやり、冷たい。携帯電話で時間を確認する。まだ早朝と呼べる時間だった。弥鱈さんがくれたこのマンションは、ひとりで暮らすには広すぎる。広すぎると、私と壁との間に寂しさが充満していく気がした。目が冴えてきてしまった。無理に閉じた瞼の裏には弥鱈さんが映る。視線が交わることはない。気持ちが届くこともない。届けられることもない。体だけが交わって、過ぎ去っていく。弥鱈さんは私の体どころか心まで食んでいく。私はいつも飢えている。美味しそうな食事に手を伸ばしても、指先は硝子の壁に突き当たる。寂しくなって、ベッドから起き上がった。キャミソールの肩紐が片方落ちる。ラウンドグラスに一口ほどアブサンを注いだ。グラスを傾ける。鼻を突く匂いに顔をしかめた。舌で少し舐めたらやっぱり美味しくない。けれどたった一口だからと、一気に喉の奥に流し込んだ。震える手でグラスを戻す。やっぱり好きじゃない。そう思った。度数が高いだけあって、酔いはすぐ回る。ベッドに潜り込んで、目を閉じた。携帯電話を握り締めて。シーツはあくまでも無臭でひんやり冷たい。
*
ジッポに火が灯る音がした。そんなわけはない。弥鱈さんにプレゼントしたけれど、いつもバルコニーで吸うせいか、使っているのは見たことがない。そんなものだというのは分かっている。少しだけ目を開ける。目の前がぼやけて見えたから目を擦る。握り締めたままの携帯電話で時間を確認する。昼に近い。眩しくて目を閉じた。私、いつカーテン開けたっけ。はっとしてバルコニーを見た。遮光カーテンは脇に寄せられ、レースのカーテンの向こうに人影が見えた。見慣れた、重力に従わない黒髪と真っ白なワイシャツの背。青い空と連なるビルを背景に、白い煙がゆらゆら伸びていく。私は浮かせた上体を両腕で支えたまま、その背中に見入った。キャミソールの肩紐はしっかりと肩にかかっている。瞬きを繰り返す。見間違いじゃない。舌を噛んでみた。痛い。夢じゃない。振り返って見たサイドテーブルには硝子の灰皿が無かった。腕に力を入れて起き上がる。常温のミネラルウォーターを一口飲んだ。腰やら足やらにシーツが纏わりつく。下着のままなのを思い出して、クローゼットからパフスリーブのワンピースを出して着た。鏡台で身なりを軽く整えて、バルコニーへ向かった。からからと硝子戸を開ける。スリッパ代わりの踵の低いミュールに足を差し込み、弥鱈さんの隣に立った。
「おはようございます」
「…おはようございます」
弥鱈さんは柵に載せ、落ちないように左手をかけた硝子の灰皿にまだ長い煙草を押し付けた。私は目を伏せて柵に両手を載せた。
「あんな時間からお仕事だったんですか?」
「…ああ」
「お疲れ様です」
弥鱈さんが普段、どういう人なのか私は知らない。賭郎という、表には到底出てこれないような組織に所属しているのは知っている。だからこそ、私のような立場の女にもマンションを買い与えたり、生活費を寄越したりできるのだ。それを使うのは申し訳ない気がして、勤務時間が昼で融通の利く仕事を少しだけしているが、弥鱈さんはあまりよく思っていないのを知っている。私はどういうポジションなんだろう。性処理かとも思ったが、見た目通り淡白な方で、体を重ねるのはそう多くない。けれど、好かれていると思うには、彼は寡黙過ぎた。聞きたくても聞けない。下手に踏み込んだら、弥鱈さんは離れていってしまうかもしれない。確かめたいくせに捨てられることを恐れて、私はこの曖昧な関係性を保ったまま。
「…吸ってもいいよ」
「…いや」
弥鱈さんは右手に持っていたそれを、青い煙草の入った胸ポケットに収めた。
「あ」
弥鱈さんがほんの一瞬、私を見た。気がする。
「それ、私があげた」
きちんと私の給料で買った。彼の寄越す生活費には、手をつけづらいし、つけたくない。口座に貯まる一方なのを知っているだろうか。弥鱈さんを見上げたら、目が合った。弥鱈さんは黙って、収めたそれを取り出した。1941レプリカ・ハンドサテン・スターリングシルバーのジッポ。迷いに迷って、結局シンプルなものにした。
「使ってくれてたんだ」
弥鱈さんは一度それを握って、胸ポケットに戻した。
「…ああ」
弥鱈さんは灰皿をバルコニーに置いた。それから硝子戸を開ける。名前を呼ばれて振り向けば、弥鱈さんが戸に手をかけたまま私を見ていた。ミュールを揃えて脱ぎ、部屋に入る。弥鱈さんも黒いスリッパを脱ぎ後ろ手で戸を閉めた。
「弥鱈さん」
一瞬視線を寄越すのが返事代わりなのはよく分かっている。私はベッドに座って足を伸ばした。弥鱈さんはベッドの端に座る。
「キスしたいな」
いや? と聞いたら、額に唇が触れた。なんだか悲しくって、ネクタイを掴んでかさついた唇に唇を寄せた。煙草の匂いがした。苦い。そういえば、煙草味のキスはあまりしない。
「欲しいものは?」
「…ないよ」
「ウィンドウショッピングとやらはいいのか?」
「うん」
可愛いとか良いなとか言うと弥鱈さんが買ってくれてしまうから、もはやそれはただのショッピングになる。囲っている女に使うなんて勿体無いというのに。
「…欲しいもの、あった」
弥鱈さんの背に寄りかかる。顔を見たくないし、見られたくなかった。いつも私が欲しがっていたもの。金銭じゃあ買えないもの。ああ最後だ、と思ったら涙が出た。でも、もういい。あのジッポだけは、使っていて欲しいと思った。背中はいつだって遠いのだから。
「こころが」
声が震えた。意味もなく顔を覆った指先が、濡れた。
「欲しいなあ」
ずっと、好きでした。これからもずっと好きです。背から離れた。こんなに近いのに。触れるのに。遠いなあと思ったら、また一粒涙がシーツに染みた。
「そんなもの」
聞きたくない。このままそっとしておいてくれたらいいのに。傷を抉らないで。できればそこに何も無かったかのように。もう痛まないように。耳を塞ごうとした手は呆気なく掴まれた。聞きたくないと首を振る。
「もうなまえのものだ」
背中にまわった手のひらが、私を肩口に押し付けた。肩に弥鱈さんの重さを感じながら、涙はワイシャツに次々染みていく。
瞳の奥をのぞかせて/ポルノグラフィ