少し固いソファの座り心地に、いつまで経っても慣れないままだった。多分、殆どの家具は機能を重視して用意したものじゃない。この部屋を、この家を、ひとの住む場所に見えるようにする為に設えたものなんだろう。もともと、あのひとはあんまり帰ってこない。だから、いいんだろう。それでも。この家に、私の荷物はあまりに似合わない。生活感がありすぎるから。部屋と同調しないクローゼットから衣類を取り出しては薄用紙を内に巡らせたダンボールに詰める。作業は一日で終わらなかったけど、あのひとは帰ってこないから問題はない。重いダンボール数箱をリビングに出してから、ペットボトルの紅茶を冷蔵庫から取り出し固いソファに座った。そういえば、初めてこの家に来たとき、冷蔵庫に入っていたのはミネラルウォーターとビールだけだったことを思い出す。すぐさま買い出しに出かけたけど、あのひとにスーパーのカゴは似合わなくて少し笑ってしまった。足元に置いた鞄。これを持って、私は今日、この家を出る。最後に、荷物の集荷を依頼することを忘れてはならない。いつ、気づくかな。寂しいって、少しだけでも、思ってくれるかな。飲みかけのペットボトルの口をきつく回して、鞄に詰める。飛行機のチケットを確認した。もう、行こう。重たい鞄を持って、玄関に立つ。履き慣れたミュールに爪先を差し込む。振り返る。冷えたノブを掴んだ。回して、押す。違和感は確かにあった。私がドアを開ける力より遥かに強い力にドアは引かれている。下を向いていた私の視界には、皺ひとつないスーツのスラックスと黒く光る革靴。顔を上げるのが、怖かった。
「…間に合った」
「…どうして」
その足が一歩踏み出すのが見えて、私は一歩引いた。どうして。弥鱈さんの手が、鞄を持つ左手を掴んだ。重たかった鞄が、途端に軽くなる。気づいたんだろう。帰ってきたんだろう。まだ外は明るいのに。
「どうして」
聞きたいことはいっぱいあった。聞けないのはどうしてだったんだろう。見上げた弥鱈さんと目が合って、私は目を反らした。直視できなかった。言葉はなんにも用意していなかった。
「…なまえさんのことなら」
何でも分かります、と取られた鞄はフローリングの上に置かれる。
「なまえさん」
顔を上げずにいたら、弥鱈さんの手のひらが頬に触れた。その手になされるがまま、顔を上げた。降ってくる口付け。首を竦めた私の、腰にまわる手のひら。このひとからさよならするって決めたのに。
「ゆ、うすけ、さん」
嫌って言ったら、離してくれるんでしょう。来るもの拒まず、去るもの追わず、なんでしょう。全部、めんどうなだけなんでしょう。
「はなして…」
離してだったのか、話してだったのか、言った私も分からないけど。押した胸は、ほら、簡単に遠ざかっていくじゃない。
「離しません。ここに繋いででも」
柔らかいラグの上に押し倒される。縦に短いせいで背中が冷たい。衝動に耐えようと閉じていた目を開けた。顔の横に弥鱈さんは手をついていた。段差のふちに膝を置いて、弥鱈さんは首筋にその顔を埋めた。抵抗のためにばたついた片足はふくらはぎを取られてしまう。爪先に引っかかっているだけのミュールがふらりと揺れた。
「嫌、どうして」
さっきから、会話は噛み合っているようでいなくて、大人になればなるほど曖昧な物言いしかできなくなって、臆病になって。隠したり誤魔化したりするから、自分の気持ちすら分からなくなって。好きも帰ってきても、ずっと言えないままで、いつのまにか迷子になっていた。
「どうしてこんなことするの?」
思ったより弱々しい声だった。これからはひとりで生きていこうと決めたばかりなのに。その手を離さないといけないのに。押した肩は、びくともしなかった。指先だけが、スーツを滑る。
「なまえさんを離さない為に」
「離したくないの?」
「離したくありません」
手のひらが、服の下に潜り込む。這い上がるそれに、顔を反らした。
「背中、つめたい」
弥鱈さんは黙って上体を起こした。脱いだスーツを、私と床の間に敷く。そのまま服を脱がされる。黙ったまま、事は進んでいく。突き放す気も削がれた私は、どうするか考えあぐねて、せめてと顔を反らした。今度は、敷いたそれから弥鱈さんの匂いがした。
…つづく…かもしれない…いやどうかな