※リストカット及び生傷描写有り
夜シリーズいち
夜行掃除人に、数日留守にするから時間のあるときに様子を見に行ってくれと頼まれるのはそう珍しいことでない。真っ白い廊下が続き、関係者以外立ち入り禁止区域の一番奥、突き当たりの扉。ノックする。反応はない。今日は外出していない筈。もう一度ノックをするも、やはり反応がない。仕方なしに指紋認証とパスワード入力を経て、重い扉を押した。
「なまえさん」
遅かったか、と思った。部屋には僅かに血の匂いがする。彼女特有の、少しだけ甘い血液の匂い。気のせいなのだろうが。黒いレースの衝立の向こう、うっすら浮かぶ彼女の姿。上がりそうな口角を、どうにか留める。
「…あ、弥鱈さん?」
「ノックしたのですが」
「気づかなかった」
彼女は少し笑った。なんでもないように。扉を背に立ち止まる。許可があるまであちら側には行けない。というか、行かない。随分と年下ではあるが、女の部屋だから仕方ない。
「今日は夜行さんじゃないんだ」
「数日留守にすると伺いましたが」
「ああ、言ってたかも」
まばらに透けるあちら側で、彼女は腕を動かしている。窓を開け放しているらしく、彼女よりさらに向こうで黒いレースのカーテンが踊っていた。握られた鈍色が太陽光をちらちら反射する。
「あ、こっち、おいでよ」
「…失礼します」
衝立の脇に立つ。予想していた通り、彼女は自傷行為に勤しんでいた。黒いシーツのベッドに腰掛け、無造作に足元でわだかまった黒いタオルの上に、血の滴る腕を伸ばしている。愛おしそうに傷を見つめる彼女を見つめる。最初は、これがSランクの掃除人だとは信じられなかったが、いまならなんとなく、分かる。
「なんか飲む?」
「いえ、お構いなく」
開いた傷口から、絶え間なく赤黒い血液が垂れる。新しく彼女が作った傷は、数秒肌色に開いた後、赤い珠に侵食されていく。やがて、ぱたっと落ちてタオルに染みた。
「なまえさん」
「なんでしょう」
「…失礼でしたら申し訳ありません」
「いいよ、弥鱈さん好きだから」
「…はあ。なぜ、そのようなことを」
また新しい傷が生み出される。手首から肘まで、ほぼ平行な赤い軌跡が無数に疾る左腕。彼女は剃刀をベッドに置いて、指を浸した。固まり始めた血液と、さらさら流れる血液が、指先を汚す。彼女は躊躇いなくそれを口に含んだ。
「分かんない」
飽きたのか、彼女は右手をベッドにつき、背を反らして白い天井を見た。それからゆっくり腕に視線を戻す。ぶんぶん振れば、タオルめがけてまた数滴垂れた。
「分かんないけど、切りたくて切りたくて我慢できなくなる」
「…そう、ですか」
自分から聞いたくせに。
「なんでだろうね」
彼女は眉尻を下げて笑った。俺には困っているように見えた。
「…もう気は済みましたか」
「うん、もういい」
「では、手当てをしてもよろしいですか」
「…ありがと」
手当てなら何度でもした。夜行掃除人は多忙だから、彼女が勢い余って死んだりしないか、いつも見ている訳にもいかない。救急箱には彼女の為の医療器具が一揃いある。使う度に補充しているのだろう。前に見たときから減っていない。彼女の前に跪き、水で濡らしたガーゼで優しく腕を拭う。彼女がひとりのときは、いつも直接流水を当てるそうだ。切っても水で当てても痛みを感じないらしい。彼女は立てた片膝に額を当て、腕の成り行きを見守っている。こびりついた血液はなかなか取れない。適当なところでガーゼを放って、深い傷の縫合をする。
「縫わなくても、治るのに」
「縫った方が早く治りますから」
彼女は返事をする代わりに俺の髪に触れた。よくされるから気にしない。自分で自分の体に傷をつけようという気持ちなど、全く理解できない。けれど彼女は息をするように、食べ物を摂るように、睡眠を摂るように、傷をつける。
「…痛い」
「切っているときは痛くないんですか?」
「痛くないよ。私が切ってるから」
「…少し我慢して下さい」
彼女を傷つけるのは彼女でなくてはならない。らしい。やはり理解し難い。等間隔に針を刺し、糸を引き、留める。数度繰り返し、深い傷がその口を閉じる。合わさった、その僅かな隙間から、涙のように一粒血が垂れた。
「…もう終わります」
傷口につかないガーゼをテープで留め、包帯を巻く。痛々しい。終わりました、と言おうとしたら彼女が先に口を開いた。
「もっと、ゆっくりでもいいのに」
聞こえなかったふりをして、終わりました、と言った。彼女も、ありがとう、とだけ言った。