夜シリーズに
車に背を預けて飾り気のない無機質な扉を見た。音はしない。防音に特化しているというよりは壁自体が厚いのだろう。彼女は些か、凡人の理解の範疇を超えている。だからわざわざ、掃除人やら立会人やらが出迎えをする。ただの黒服でも問題はないが、彼女は見知った人間が良いと言っているらしい。空は目が痛くなるほどに冴えた色をしていた。鈍い音がして、扉が開いた。
「あれ、弥鱈さん」
「…終わりましたか」
「うん」
扉の向こうには、血の海に沈んだ肉塊が落ちていた。彼女も、同じくらい血を浴びていた。白いワイシャツにべっとりと赤が染みている。恐らく手の甲で拭ったのだろう、頬に掠れながら流れた血の筋が大きく付着している。長い黒髪にまで血が伝う。頭から血の雨を浴びたように、ずぶ濡れだった。アスファルトの地面に、血溜まりができ始める。
「弥鱈さん」
「…なんでしょう」
「また、死ねなかったよ」
目を潰そうと躍起になっているような、青空の中でも彼女は黒かった。光を通さない血に塗れた彼女はもう、空の中で黒く塗り潰されているのかもしれない。黒い髪がざあざあと風に靡く。その度に赤がぱらぱら散る。夜行掃除人があげた黒いリボンも髪に紛れて揺れていた。白いのは、肌とワイシャツだけ。傷だらけの脚を隠すように太ももまで覆うブーツは見てるだけで暑さを感じさせる。彼女は重たそうに片手で持った二口の長刀を揺らす。刃先から柄まで真っ赤に濡れていた。
「なまえさんを殺せる人なんていないでしょう」
「多分、いるよ」
含みを持たせるように彼女は言葉を止めた。仕方なく視線を彼女に向ける。夜の海より暗い色をした瞳が、確かに俺を見ていた。そして、少しだけ笑った。綺麗に笑った。
「弥鱈さんなら、殺せるよね?」
目を伏せると随分大人びて見えた。確かまだ二十歳前後だった筈だ。
「…無理ですねぇ」
「そんなこと、ないよ」
彼女は顔を上げた。晒された首筋は、なだらかで細い。よく、切れそうだと思った。躊躇い傷に似たものが一筋あるが、夜行掃除人に首は駄目だと叱られたらしく、露出されている中では顔の次に綺麗なままだ。ぶん、と刀を一振り。弾けるように血筋がアスファルトに踊る。彼女は目を伏せてそれを見た。そして視線を上げた彼女が口を開く前に、助手席に用意してあった懐紙を取って差し出す。
「ありがとう」
粘着質の血液が拭き取られて、鈍色は太陽光を反射する。後部座席のドアを開けて、足元に無造作に置かれた鞘を取った。長いだけあって重い。振り向けば、彼女が血塗れの懐紙を畳んでポケットに入れようとしていたから、近づいてそれを取る。代わりに鞘を渡せば、いつもの声で、ありがとう、が降ってきた。彼女はよくありがとうという。思い出す彼女はいつも目を伏せて微笑みながら、ありがとう、と呟く。
「…いいえ」
慣れた手つきで刀を鞘に収め、紐で固く封をする。それも受け取って、後部座席の足元に置く。長いから置きづらい。スカートの裾を握って血液を絞っていた彼女に、頭からタオルをかけた。夜行掃除人は気が利くな、と思った。髪の隙間から覗いた目が、なんだか怖かった。
「帰りましょう」
「…うん」
そうは言っても彼女は動かなかったから、仕方なく、手をひいた。彼女は、ちが、と言ったけど気にならない。後部座席へ座らせたら、彼女の手が伸びてきて、タオルで手のひらを拭われる。そして、なんでもなかったように、ブーツのままシートに横たわった。少し捲れたスカートを直してドアを閉める。運転席へ回りながら、倉庫の後始末をするように連絡した。ミラーで盗み見た彼女は死んだように眠っている。彼女が俺を見なければ、俺はいくらでも彼女を見ていられるのに。