※誰か分からない



車を降りる。閉めたドアにもたれるように体重を預ける。腕時計を見た。さっきより、長針が五歩ほど進んだだけだ。騒がしいくらいで丁度良かった。濁っているくらいで丁度良かった。汚いくらいで丁度良かった。けれど、最後に静かなここで君を想うことを許してくれないか。今日くらい、今日だけ、今日で最後にするから。どうせならこの空に星すらなければ良かったんだ。真っ暗の中でなら、もっと弱い自分を隠せただろうに。景品のライターでくしゃくしゃのソフトパックから取り出した煙草に火を点けた。悲しいことに、夜はまだ始まったばかりだ。どうせ君は、今夜出て行くんだろう。夜はまだ始まったばかりだから。

「お仕事、頑張ってね。私のことは気にしなくていいよ」

やっぱり遅くなる、と電話したときの声色くらい読み取れる。毎日のように、聞いていたら。思い出すのは寝顔ばかりだ。目を閉じているなまえばかりだ。いつだって上手に感情を隠すから、なんて、弱虫だから君のせいにしたりする。本当は、甘えてただけだ。優しく笑うなまえに。まだ大丈夫だって、勝手に思っていただけだ。だから、君は出て行くんだろう。多分それで君は幸せになれるから。多分それでいい。それでいいんだ。あまり遅くならないうちに、さあもう行っていい。もう手を離してやるから。さあもう行っていい。

「あんまり吸ってたら体に悪いよ」

濃紺に埋め尽くされた中の一筋の白。それすら君を思い出させる。君はそれくらい俺を蝕んでいるのに。君は知っていたかい。俺は君の中のどれくらいを埋めていられたかなんて、聞くだけ空しいか。フィルターぎりぎりまで吸い尽くした煙草を地面に落とし爪先で踏みにじった。ああまたひとつ、君との何かが潰えた。ソフトパックから煙草を取り出す。叩く必要もない。あとたった二本。いや、あと二本も、俺はなまえを思い出せる。この火種が燻っている間は、君を思っていられる。寒さを凌ぐ為に売り物で暖を取ったという童話の中の少女に自分を重ねて。またその声で鼓膜を揺らして欲しいなんて、過ぎた願いだ。その証拠に、この肺はもうこれ以上ないくらい汚れているだろう。少し、控えようかと思ったのは、君を忘れたくないからだ。君の言葉を思い出せば、それだけで喫煙衝動も収まるだろう。本当に欲しいのは、ニコチンなんかでなくて、君だったんだから。何もかも遅かった。いまさら間に合わないだろう。君は悪くない。悪いのは俺だ。だから俺が罰を受けるのは仕方ない。だから君が罰を下すのは仕方ない。その優しい笑い顔も、小さな手のひらも、靡く度香る髪も、安心を寄越す声も、柔らかい肌の感触も奪わずに、君だけがすっかりいなくなってしまう。それが一番堪えるのを知っているんだろう。それでも何でもない顔をして、生きていくのを知っているんだろう。気付いた頃には遅かったって。後悔したって取り戻せない。掴めない。引き留められない。だって君は、今夜出て行くんだろう。この手を解いて、出て行くんだろう。この手をすり抜けて、出て行くんだろう。こんな俺を分かって、許して、愛してくれた君は。

「愛してる、」

自らの欲のなさのせいで、極端に少ない情事の最中になまえが漏らす声すら一言一句違えずに覚えている俺を笑うかい。いますぐ君のもとへ飛んでいけばその手を掴める気がしたのは、俺が脆弱で、なまえなしじゃあ生きていけないからだ。君は、俺がいなくても平気かい。生きていけるかい。聞かなくたって分かることを思う、俺を笑ってくれ。詰ってくれ。なまえの傷を、少しでも分けてくれたら、いい。眩しいくらい星が生きている空に流れ星が流れたって、なんて願っていいか分からない。それに死にかけの星だって、俺よりは君に味方するだろう。だから、もし燃え尽きながら落ちてしまったなら、最期の力を振り絞って、なまえの願いを叶えてくれ。夜のくせに眩しくて空なんて見れないけど。短くなった煙草を踏みつけて火種を潰す。こうやって、俺はこの手で、君との繋がりを断っているんだ。いつだって、君は待っていてくれたのに。いつだって、俺が手を伸ばせば、その手は掴めたのに。最後の煙草に火を点ける前に腕時計を見た。長針は大幅に進み、それでもやっと九時を過ぎたところだ。車の中に買い置きの煙草はなかったかとぼんやり考えながら、最後の煙草に火を点けた。ああ、これで、これが、最後の夢だ。感慨深く、深く吸い、少しも残さず吐き出した。これでなまえともさよならか。
だったらどうか、せめて最後は笑顔で。




見えない海/doaを聴いて!!!!!!ハピエンから曖昧エンドにしちゃった私は自分に対してどえすでした(^q^)