「…もしもし。私だけど、いま大丈夫?」

いつもより低い、少し嗄れたような声が耳を滑り落ちた。遠慮がちな声音に何かあったのかと携帯を耳により押し当てる。

「三十分くらいなら。何かあったのか?」
「…ううん。…最近、暑くなってきたね」
「そうだな」
「悠助さんのとこでも、クールビズするの?」
「…ああ、そこまで緩くなるわけじゃあないが」
「なんか想像できない」

電話の向こうに異常は認められそうもない。ただ、いつもより元気がないのは分かった。少しだけ笑った彼女はいつもと同じようで、でも違う。鼻をすする音が僅かばかりして、泣いてるなと思った。隠そうとしてるなら、わざわざ指摘しない方が良いのかもしれないと思い、それについては黙っていた。

「私のとこなんて、サマータイムまで導入するんだって」
「朝苦手じゃなかったか?」
「すっごく苦手だよ」
「起こしてやろうか」
「あ、それ幸せかも」

彼女が電話をしてくるなんて珍しい。しかも、こんな性急さの欠片もないような話題は、メールでだってしてこない。いつも、素っ気ないほどに干渉しようとしない彼女からは、それこそ想像もできないようなことだった。

「…どうかしたのか?」
「…なんにもないよ」
「それにしては、珍しいな。電話を寄越すなんて」
「そうかな?」
「ああ」

電話の向こうで彼女は押し黙る。腕時計を見た。まだ時間はある。喫煙所にいる立会人の視線が多少気になるが、まあいい。

「…なんていうか、声が聞きたくなったの。なんか喋ってって言っても、困るかと思って」

そこで切った彼女は、小さく鼻をすする。寂しくて泣くなんて、普段の彼女からはあまり想像できなくて、少し口元が緩んだ。

「…今日は、」
「…うん?」
「二十時には帰れそうです。鯵のチーズ焼きか秋刀魚の煮付けが食べたい。明日の朝はゆっくりだから、なまえさんの好きなワインでも買って帰る」
「今日は魚の気分なの? 前に作ったの、気に入ってくれたみたいで良かった。何かつまめるものも、作っとくね」

考えは伝わったようで、彼女の声には少し涙が混じって、けれどいつものように穏やかさを孕んでいた。長々と喋るのは好きじゃないし、必要もないことなら尚更そうだった。けれど彼女が、声を聞きたいと思ったならそれも悪くはない気がした。電話の向こうで、彼女は嬉々としてつまみは何がいいか聞いてくる。声の後ろに聞こえる音からして、これから買い物に行くのだろう。そういえば、今日は土曜だった。

「つまみは、塩辛か冷や奴かキムチがいい」
「辛いの好きだよねえ」

ちらりと見た腕時計は思ったより針が進んでいた。

「期待しててね」
「ああ。なまえさんはワイン以外に何か欲しいものは?」
「んーん。今日は早く帰ってきてもらって、手、繋ぎたい気分かな」

おおよそ彼女らしくない台詞に、言葉が詰まる。言葉尻が萎んでいく声に、今頃きっと照れているのだろうと思えた。

「…じゃあ、できるだけ早く帰る」
「…うん、気をつけてね。じゃあ」

ぷつ、と静かに電波は断たれた。寂しそうなのも、手を繋ぎたいと言われるのも、初めてのことで、緩みそうな口角を誤魔化すために煙草を咥える。

「仲が宜しいんですね」

灰皿に煙草を押し付けて、少し離れた場所にいた立会人が立つ。からかうような笑い顔を向けられたけれど、あまり気にはならない。

「…おかげさまで」

頭の中では、どのワインにしようか、そんなことばかり考えている。