私は部下だが、まともに口を利いたのは数えるほどしかない。仕事を教えてくれたのは上司よりひとつ位の低い掃除人だった。掃除人として配属されたその日、失礼のないように気をつけながら挨拶をしたが目すら合わせてもらえなかった。そのとき既に、苦手意識は持っていたのだろう。もともと個人で動くことが多いから、そのまま時間が経ってしまったのが良くなかったのではあろうが。
「…すみません、お待たせしました」
帰宅後、深夜。ひとりで酒を嚥下していた私の携帯電話が鳴ったときに嫌な感じはした。案の定、早急に掃除を願いたいという旨の連絡である。可能だが飲酒したので念のため他の掃除人の確保もお願いしたい、と言えば、もともと複数人の要請だと聞いた。電話を切ってからペットボトルのミネラルウォーターを半分ほど流し込み、風呂に入って緩んでいた身体と精神に鞭打ち、急いで着替え簡単に化粧をした。西洋人並みの肝臓のおかげでアルコールの影響は感じられないが失敗は許されない。鞄にキーケースと財布と携帯電話を入れ、念のためにと思い立ち半分減ったミネラルウォーターのペットボトルを詰め、冴えた頭で施錠し、確かな足取りでエレベーターに乗る。少し冷たい夜風に晒されてみれば、すでに黒塗りの高級車はマンション前に横付けにされていた。立って待っていた運転手の黒服に遅くなったことを謝罪すれば、後部座席の奥に、この世で最も苦手な上司の姿を発見し腹部が痛んだ。柔らかい革張りの座席に座り、緊張しながら謝ると、上司は返事をしなかった。何も言わないくらい怒らせたのかと思い、恐る恐る頭を上げる。髪の色に近い睫毛が縁取る目は珍しく、私を真っ直ぐ見ていて更に腹が痛んだ。
「使い物にはなりそうだな」
ふい、と上司は前を見た。黒服が一声寄越し、タイヤが滑るように動き出す。
「どんな状態であれ、任務は全う致します」
滑らかに舌は動く。私が信じているのは自らの暴より自らの肝臓の強靱さだ。まさか、深夜の要請であったとは言え、飲酒していた為に任務をしくじりましたとはいかない。倶楽部賭郎に関わるようになって以来、自らの暴への自信は消え失せた。そんなものを持っていたことが恥ずかしいくらいに、皆、強力な暴を保持していた。特に、幾度か見学した上司の行う掃除には畏怖さえ覚えた。だからこそ苦手意識は深まったようだが。私にできるのは、日々暴を磨き高め、任務を確実にこなすことくらいだ。それ以降、想像の範囲内だが、会話が続くこともなくただ低く鈍いエンジン音だけが響いた。アルコールを摂取しない時間が長くなればなるほど、僅かな酔いはさめていく。考えていたのは、明日起きれるかな、ということだけ。
「みょーじ」
「はい」
不意に呼ばれ、反射的に返事をした。びっくりしたせいで、威勢が良くなってしまい、恥ずかしくなった。ちら、と上司を見たら、目が合って更に気まずくなる。しかし、上司は意に介さなかったように続けた。
「明日、というよりは今日だが、午前休だ」
「え」
「文句でもあるか?」
「いえ、ないです」
やっぱり上司の威圧感に押され、私は首を振った。明日、というよりは今日は、寝坊ができることになった。しかし、ここである問題が浮上してしまった。
「…眠い」
よく考えれば今日、というより昨日もいつも通り出社し、兼任している取立人としての任務をこなし、報告書を作成し、鍛錬に励んでいた為に睡魔もいつも通りやってきたのだ。その日のうちに就寝している習慣が祟ったのか、日付の変わったいま、眠くて仕方ない。それも問題だが、気が抜けていたのか、最も問題なのは、それを呟いてしまったことだ。やばい、と年相応の焦りを覚えるも、微動だにせずどうしたものかとぐるぐる考えているときに口を開いたのは、恐ろしく苦手な上司だった。
「…おい、あとどれくらいで着く」
「二十分ほどと思われます」
しかし、それは私に向けられはしなかった。なんでもないように、上司と黒服は会話をし、私は視線を彷徨わせている。
「みょーじ」
「はいっ」
いちいち驚いてしまう自分への舌打ちを抑える。先ほどの失言も含めて、どうも私は口を縫い付けた方がいいようだ。変わらず上司は私を一瞥し、続けた。
「少し寝ろ」
言葉に詰まる。注意されなかった失言はしっかりと聞かれていたし、まさか気遣うような言葉をかけられるとは思っていなかった。え、とか私が戸惑っていたら、上司がまた口を開く。
「着いたら起こす。掃除し損なったら始末書だ」
どうやらしくじっても、私は死なないようだ。上司を盗み見たら、視線はぶつからなかった。
「え、えと、あの…すみません、お言葉に甘えさせて頂きます…」
腰を浮かして姿勢を崩し、しかしなんだか恥ずかしかったので、上司に見えないよう顔を背けて、私は重い瞼を下ろした。
黒服「なんなんこいつら」