別に、気配を消して息をひそめる必要もなかったのだ。
ただなんだか、彼らの声がした瞬間に私はそうしないといけないような気がして、そうした。
立ち止まって、角の影に身を寄せて、その声を聞きながら立ち去るのを待ってしまった。
誰かの声が、する。
「そーいや弥鱈、オマエの好みのーーーー、新しいの出てたぞ」
気を抜いている彼らの足音に紛れて、名前のせいか、いやにそれだけがはっきり聞こえた。
なんて返事をしていたかも分からなかったけど、好みのソレ、が女の子の名前のようだったから、私はその影からしばらく出られなかった。
もう喧騒が遥か彼方に行ってしまってから、私は辺りを憚りながらそろりと角を曲がる。
ドキドキしながらお手洗い目指して、早歩き。誰もいないそこで個室に入って、ドアに背を預けた。
女の子の名前。新しいのに、出てた。アイドルか何かだろうか。
ポケットの携帯電話を出して、漢字は分からなかったから、ひらがなのまま、さっきの名前らしきものを検索。
すぐに表示されたのは。
(せ、せくしー女優!)
名前とともに出てきた画像で分かる。
画像検索なんてしようものなら。
なんとか肌色ばかりの画面を戻して、着衣の画像を凝視。
それでも下着だけで、あらゆるところから溢れ出ている肉が否応なく視界に入ってしまう。
(弥鱈さんてデブ専だったのか!?)
胸もお尻も大きいけれど、その他もそれなりにふとましい。
うっかり見下ろした自分の身体の、貧相さが際立って、画面に視線を戻した。
(弥鱈さん、こういうのが好きなんだ…ていうかこういうの見るんだ…)
彼女を見ながらひとりで致す、のをなんとなく想像してしまい、振り払おうと頭を振った。そして、あまりにも正反対な自分の体つきを思い出す。
携帯電話を消して、終始誰もいないお手洗いの個室を出て、鏡に写った自分と目が合う。
(弥鱈さんは私のこと、本当に好きなんだろうか?)
疑う愚かさを、よく分かっているはずなのに、自信のない自分はそれを知りたがる。
言葉も態度も繕えるものばかりなんだから、真実が分かることなんて一生無い。分かっているのに。
傷つきたくないだけなのか、なんなのか。
彼のくれる言葉だけじゃ、私はうまく、洗脳されない。
…
週末会う連絡は、いつも彼女からだった。
金曜の夜に、泊まりに行っても良いか連絡が来る。任せます、と返すと、彼女はやってくる。
ただ今日は、それがないまま土曜になった。
彼女に用があることも、あるだろう。そんなときだって必ず連絡は来たが。
ため息を、ひとつ。
仕方ないな、と彼女に電話をした。
「…もしもし?」
「…弥鱈ですけど」
「うん、」
「あなたが見たがっていた映画、明日が返却期限なんですけど」
「え、あ、うん、えっと」
「…来ないなら来ないで、構いませんが」
「いや、えっと、い、行きます」
「そうですか」
「あ、あと一時間くらいで、たぶん、着きます」
「分かりました、お気をつけて」
「はい」
電話を切って、またため息。
何かしただろうかと考えてみるも、特に何も浮かばない。
自信のない彼女の、さらに自信のない声色。
少々腹立たしくも、ある。
…
電話を切って、まだ手が震えていた。
さっき、シャワーを浴びていて良かった。
髪を乾かして、化粧をして、着替えて荷物をまとめるだけで、行ける。
まさか、彼から連絡が来るなんて思いもしなくて、心臓がうるさい。
やっぱり少しだけ、嬉しかった。
長い髪を急いで乾かして、化粧をして、なんとなく、少しだけ髪の先を巻いて、いつもより少しだけ短いスカートを履いて、家を出た。
途中で、手みやげにビールとつまみを買って、また例の彼女のことを思い出していた。
けれど、電話をしてくれたことを励みに、彼のマンションを目指す。
実際にセックスをしたのは、彼女じゃなくて私だ。
そう、言い聞かせる。
エントランスで開けてもらい、荷物をガサガサさせていたら、彼が自ら大きくドアを開けてくれた。
なんとか、お邪魔します、と笑う。
でも弥鱈さんはいつも通りで、ちょっと口角が引きつった。
手土産を渡して、引っ込んだ背中を目だけで追う。急いで靴を脱いで、私も中に入った。
「弥鱈さん、その映画見ました?」
「…見てません」
「ほんと? ごめん、ギリギリになっちゃって」
沈黙が耐えられなくて、当たり障りのない会話をどうにか喋り続ける。
あまり動かない彼の、勝手知ったるリビングで映画鑑賞の準備。
ダメだ、なんか、顔見れないかも。
時間が経てば慣れるかと、まだ昼過ぎなのにビールを出して、さっさと部屋を暗くする。
隣に座って、少しだけ腕をくっつけたら、泣きたくなった。
好きなんだ。結局。くっつくだけで、そう思うくらいに。
好きなアクション俳優の出てる、B級映画はツッコミ所が満載で、気を逸らしたい私があーだこーだ言うのを弥鱈さんが聞いてくれて、一緒にアレコレ言って、笑う。
少しだけ、わだかまりを忘れられて、でもふと顔を見たときにそれを思い出す。
案の定の微妙なオチに、うーんと感想を口走りつつ、何気なく顔を向ける。
珍しく私を凝視する弥鱈さんと、目が合った。
「なんか今日、変ですね」
「え、いや、そんなことないよ」
ぐにっ、と人差し指と親指で頬を思いっきりつままれる。範囲が広すぎて、口が閉まらないくらい。
とんでもないブサイクになっていること間違いなしだし、化粧が、と手を叩く。
「なまえさんが多少ブサイクになったくらいでどうともしません」
そこで、嫌いにならない、と言ってくれれば良いのに。どうともしないって、私はどう捉えれば良いのか?
ていうか多少ブサイクになっているのなら離して欲しい。
好きな人の前なんだから、少しでもなるべく可愛くいたいのに。
きっと、そんなことなんて汲んでもくれない。分かってても、知らんぷり。無視して、私に浅い傷をつける。つけても、気にすることもない。
ねえなんで私なの?
「白状するなら離します」
くい、と頬を引っ張られる。もうこれ以上は伸びない。
白状して良いのか、分からずに視線を落とした。
盗み聞きではあるけど、社内で、声を潜めていたわけでもなかったから、そこは良いとして。なんて言われるんだろう。
それがまた私を傷つける気がすると、躊躇う。私はどれくらいの傷まで耐えられるのだろう。
「あぉさ」
の、がうまく言えなかったけど、まあ伝わるだろうとそのままにしておいた。
私が喋り始めたからか、弥鱈さんの手が少しだけ緩んで、口が閉じられるくらいに頬が解放された。
「えーと、うーんと、えっと、弥鱈さんて、ーーーー、て子好きなの?」
頑張って、すごく頑張ってその名を口にした。
彼女の名前を口に出すのは、私を否定している気分になる。
弥鱈さんが、一時停止したように見えたけど瞬きを一度したら、やっぱりそんなことはないように見えた。
ドキドキ、鳴る心臓が、耳のすぐ近くにあるみたい。この数秒が、何分にも感じられる。
弥鱈さんの、眉間のシワが数本増えた。
「…それか…」
「…あの、たまたま近くにいて…」
「別に、特別好きなわけでもないですけど」
「…けど…、はい、うん、ワカリマシタ」
弥鱈さんの語尾に、深い意味はないのだ。特別好きなわけでもない、なら、それで良いんだ。
弥鱈さんの、何も言わなさに、私は勝手に気まずくなって余計なことを口走る。
「えっと、いや、弥鱈さん結構、ふくよかなのがタイプなのかなって、ちょっとびっくりしたっていうか」
私こんなだし、と言ったら、弥鱈さんがため息を吐いて、ギクリとした。
余計なことを言った。そう、すぐ分かった。おとなになっても、どうして慎めないのだろう。
ふくよか? びっくりした? また自分を卑下したから? どれがダメだったのか、避けていた視線をこわごわ彼に戻す。
「…鑑賞用でしょう。あんなのとやるのは無理です」
「え、あ、うん、ソウデスヨネ」
「…どれが良いかしつこく聞かれたから、一番あなたに似てないのを選んだだけです」
私に、似てないの。
そりゃ、似てない。キツネとタヌキ並みに、似てない。
いやもっと、魚と虫くらい似てない。
「な、うう、なんで?」
聞きたくて、でも聞いて良いのか分からず、一瞬躊躇うも、踏み込む。
さっきから、視線を横にやるせいで、真っ黒なテレビ画面に写る、微妙な距離の私たちばかりが目に入る。
小さくなっている私と、猫背の彼。
彼の意外としっかりした肩幅や首の太さに、私の細い二の腕や薄い胴体は頼りなく見えた。
「…あなたを想像されたくなかったので」
「…え?」
「聞こえたでしょう」
もう言いません、と彼は口を閉じる。
私は、たぶんぽかんと口を開けている。
そっぽを向いた弥鱈さんの言葉を反芻。
なんだか、私が傷つく展開にはならなさそうだけども。
「それは、似た感じの人を選んだら、ああいうコトしてんのかなーて思われるかもしれないから、ってことですか」
「…言いませんて言ったでしょう」
「ていうか、みんなでああいうの見るんですか?」
一瞬面食らった弥鱈さんは、苦虫を噛み潰すように、さらに視線をそらしながら口を開く。
「慰安旅行で…」
なるほど、と頷いた私を嫌そうに見た彼は、こほん、とひとつ咳払い。
なんとなく笑えて、付き合わされたんですね、と聞けば、そうです、と返ってくる。
私たちのこと、バレてるんですか、と聞けば、知ってる人は知ってます、と素っ気ない返事。
別に、隠しているわけでもなかったし、社内でもこういう感じで話すこともあった。
でも、それについて、弥鱈さんがどうやら否定していないことがまた、嬉しかった。
「そっかそっか」
「なに、楽しそうなんですか」
「ここのところ私を悩ませていたことがなくなったので」
「またあなたは」
弥鱈さんのため息。
すりすり、と嫌がられるのを覚悟ですり寄ると、弥鱈さんが肩を抱いてくれる。
鎖骨の端から二の腕までを何度も何度も撫でる手に、私はもっと嬉しくなる。
「弥鱈さん、私のこと好きですか」
目を閉じて、体重を預ける。ひとりではバランスの取れない体勢で、彼を信じる。
こうなると、すべてが好意的、肯定的に捉えられるから不思議だ。
「前から思ってましたが…なまえさんは自分に自信がなさすぎますよ」
「弥鱈さんが優しくないからだと思うな」
「私がそうそう優しくすると思いますか」
「思わなーい!」
うん、分かってる。
私の求める優しさと、彼が与えるやさしさは、違うんだ。
欲しいものが貰えなくて、落ち込んでいるだけの私に、弥鱈さんは分かってて欲しいものをくれない。
そういう、ひとなんだ。
私のことをそれなりに好きでも、自分を曲げることはない。私の望むことが、彼にとってやりたくないことなら、やらないのだ。
そういうひとを好きになったからには、切なくなっても、悲しくなっても、寂しくなっても、離れちゃダメなんだ。
イヌみたいに、シッポ振って、些細なことにでも喜ばなくちゃいけない。
たまに与えられるアメを、しっかり認識しなきゃいけない。
分かりづらいひとを、好きになったんだから。
寄っかかって、嬉しいけど、ほんの少し切ないまま、彼を見た。
好きだよ、と気持ちを込める。
好きだよ。
好きだよ。
好きだよ。
この人を選ばなければ、もっと幸せな恋愛ができたのかもしれない。
いま以上に幸せな恋愛ができたのかもしれない。
そういう考えを、自分の中の奥へ奥へ追いやって、蓋をする。
そして、弥鱈さんが好きという気持ちにピントを合わせる。
それしか、見えないように。
「そういうとこ、好きですよ」
どういうとこ、なのかはさっぱり分からないんだけど。うん、と返す。
そして、きっと、聞いても教えてはくれないんだ。言いたくないから、言わないんだ。
考えれば考えるほど、胸が、張り裂けそうなくらい、切ないんだけど。
好きだから、良いんだ。
頭に唇が触れる。やさしい、それに、また少しだけ傷ついて、でも嬉しくて幸せで、私はもっと彼にすり寄った。
彼が、私だけに許してくれているたくさんのことを噛み締めながら。
もしも私が唯一じゃなくなったとき、きっとこの恋は終わる。
彼が私に重大な嘘を吐いたとき、この恋は終わる。
私は、弥鱈さんがそうしないのを、願って、願って、それしかできない。
痛いほど切ない、好き、を、私はただ噛み締めていた。