私の方が先に仕事が終わって、弥鱈さんを待つのにカフェバーにひとりで入った。
サングリアを飲みながらローストビーフを食べて、壁にかけてあるテレビで野球を見る。
チャンテを歌いたいのを我慢しながら食い入るように見ていたら、隣に男が座ったのだ。
点差は二点。打席は四番、ワンナウト一、三塁。
そんな緊迫の最中に、男は空気も読まずに話しかけてきた。ひとり? 待ち合わせ? 何してるの? 店を変えない?
すべからく無視をして、口ずさみそうになる口に最後のローストビーフをつっこみ、四番のバットがボールを強く打ち返したのに拳を握る。取るな、落ちろ、と飛んでくライナーに願いを込めたら、それは壁に直撃した。
「ぃよしっ」
思わず小さくガッツポーズを決めたら、男が野球好きなの? と話しかけてくる。
無視して、一塁走者が本塁に突撃するのをハラハラしながら見守る。刺すか、セーフか。走れ、走れ、と願っていたら。
バッと手が視界を塞いだ。
びっくりして隣を見たら、男が手をヒラヒラさせながら笑っていた。
やっとこっち見た、を無視してテレビに視線を戻したら、逆転に沸く選手たち。良いところを見逃したことに、腕をへし折ったろうかとフォークを握り締める。
この男のメンタルの強さにイライラがピークを迎えようとしていたとき、カウンターに置いていたケータイが震えた。
弥鱈さんだ。急いで内容を確認する。いま会社を出た、という内容に、サングリアを一気飲みして席を立つ。トレーを棚に戻して店を出たら、あろうことか男がついてきやがった。
会社と同じ並びのカフェバーだから、歩道をまっすぐ歩けば弥鱈さんに遭遇するはず。
馴れ馴れしく話しかけながら隣を歩いてくる男を、大股早歩きで突き放しつつ、ラインを返した。
うざいと思いつつ向かってくる人波に、あの顔を探す。
「あっ」
ゆうくーんと言いながら、顔の横で小さく手を振る。少し後ろで男が舌打ちをした。
少し立ち止まって向きを変え、面倒くさそうな顔の弥鱈さんと並んで歩く。
「なんなんですか、その呼び方」
「さっきそこで、飲みながら野球見てたんですよ。そしたら変なやつに付きまとわれて。なんで、彼氏と待ち合わせアピールです」
「…そうですか」
手も繋がないし、腕も組まない。さっさとタクシーを捕まえて、弥鱈さんの家に向かう。
しかし、良い場面を邪魔されたことがあまりにも腹立たしく、車内で弥鱈さんに愚痴をこぼした。
弥鱈さんは反応薄めで、でもいつも通りカードで支払ってくれて、降りる。
「…弥鱈さん、機嫌悪い? なんかあった?」
「…べつに」
エレベーターを待ちながら伺うも、弥鱈さんはしれっとつれないまま。
つまらない、と思いつつ、これ以上機嫌を損ねるのは良くないと思い黙った。
エレベーターに乗る。ふたりきりのまま降りて、ドアの前、弥鱈さんが鍵を出すのを見守る。
やっぱり、一緒に住むのが楽だよなあ。そう、思っているけど、まだ、言えない。
弥鱈さんも私も、最低限の1DK、ふたりで住むなら二部屋いるのかな?
「…なに、ボサッとしてんですか」
「へっ、ああ、ごめん」
中に入って、施錠。弥鱈さんは多分、他人の家は落ち着かないタイプなんだろう。殆どが弥鱈さんの家でお泊まりデートだから、もうそこら中に私の私物が置いてある。メイク落としにオールインワンのジェルとボディクリーム、着替えに部屋着、などなど。
帰るときに洗濯しておけば、きちんと畳んでいつもの場所にしまっておいてあるのは、私の機嫌を良くする。
人の家には行きたがらないけど、私が弥鱈さんのスペースを侵食しても許されているのは、やっぱり嬉しい。
勝手知ったる弥鱈さんちで、いつも通りスーツを脱いで着替えた。
ビールとチューハイを冷蔵庫から出してソファーへ。
隣に座った弥鱈さんにビールを開けて渡す。
「…弥鱈さん、」
「なんですか」
「…見過ぎじゃないですか?」
なんかついてます? とチューハイをテーブルに戻して、顔に手をやる。
「…なまえさんて」
「はい」
「…やっぱり、なんでもないです」
「え、なにそれ、気になる」
「忘れてください」
弥鱈さんが視線を外してビールを煽る。
気になりすぎるけど、あまり追及しても、良くなりかけた機嫌をまた悪くする可能性がある。
私ってなんなのか。気になるところだけど。
弥鱈さんが缶に口をつけたまま、左手を私の頭に乗せた。
珍しく、さすさすと撫でられる。
下手に反応して、止められるのも嫌だし、手の感触を記憶しようと意識を集中する。
気持ち良い。頭を撫でられるのは、結構気分が良くなる。
「私、頭撫でられるの、好きかも」
そう言ってみても、手の動きは止まない。よっしゃ!と自ら手のひらに頭を寄せる。
チューハイを飲みながら、夜のニュース番組を眺めた。
「…なまえさんて、変わり者って言われませんか」
「? 言われたことないよ」
それがさっき言いたかったことなのか? と顔を向けた。
目が合って、黙る弥鱈さんと少し見つめ合う。
目を細めて見下ろすの、かっこいいな、と呑気に考えていた。
「…別に、他に行っても良いんですよ」
「? どういうこと?」
「他の男が良くなったら、ということです」
手が、するりとおりて頬を撫でる。私は、とりあえず口の中にあったチューハイを飲み込む。
見下ろす目が、何を考えているのかさっぱり分からないのはいつものことだけど。
頬を撫でる手の感触、とても好きなはずなのに、怖くて、次の言葉が浮かばない。
頭の中に、なんにも無くなって、私は空っぽのまま、弥鱈さんが口を開くのを待った。
「俺みたいなのより…その方が幸せじゃないですか」
その一人称を、私はまだ数度しか聞いたことがない。
こっちが素なんだろうけど、繕いすぎて染みついてしまったのかもしれない。
でも途中で弥鱈さんはいつもの風に戻ってしまう。
頬にいた手が離れていったのも相まって、私は放り出されたような不安に襲われて、思わず弥鱈さんのスエットのポケットの辺りを掴んだ。
「いままで怖くて、ちゃんと聞いたことなかったんですけど」
「はい」
「私たち、付き合ってる、で良いんですよね」
「…良い、と思いますけど」
そう、考えたこともあった。
冷たくあしらわれる度、切ない気持ちになる度、寂しい気持ちになる度、そう思った。
他の人なら、こんなこともないのかもしれない、と。
でも、弥鱈さんにそう言われるといままでのどんな言葉や態度より、辛くて、苦しくて、悲しくて、どうしようもなかった。
「なまえさん、」
「…はい」
「すみません、あなたがそうしたいと思ったらそうしても良いですよ、というだけで、他意はありません」
「…はい」
ビールをテーブルに置いて、私が持ったままだったチューハイの缶を、弥鱈さんがそっと手から取り上げてまたテーブルに置く。
迷子になった私の手を弥鱈さんは足の上に下ろして、その上に手を重ねる。
そして、もう一度、すみません、とだけ言った。
そんなに私は傷ついた顔をしているのだろうか。
何を言って良いのか分からず、何も考えられず、ただ好きな造りの顔を眺めていた。
「なまえさん」
弥鱈さんの手が、私の目を塞ぐように視界を奪う。
あやすようなキスをされて、少しだけ私は私を取り戻す。
「弥鱈さん」
「はい」
「弥鱈さんは、そう思ったことあるんですか。私以外に、」
「ありません」
喋り切っていなかった私の言葉を遮って弥鱈さんの強い声。
目を塞いでいた手が、頭に乗る。さっき好きだと言った、頭を撫でる行為。
さすさすさすさす、大きな手が私をあやしてなだめたから私はやっと傷ついたことを自覚して、弥鱈さんの胸に飛び込んだ。
「すみません、余計なことを言いました」
抱き締めてくれる手が好きで、どうしようもなくて、いまさら溢れてきた涙を弥鱈さんのTシャツに染み込ませる。
他の人を好きになったらもっと幸せだったのかもしれない。
けれど、私は弥鱈さんを好きになってしまった。そうしたらもう、弥鱈さんの傍にいること以外に幸せになる方法はないのだ。
弥鱈さんを愛して、できることなら弥鱈さんに愛されて、もう私の幸せはそれしかなくなってしまったのだ。
いま、それに気づいた。理解した。
隣の芝生は青く見えたって、私は弥鱈さんを、好きで選んだのだ。
「なまえさんは可愛いから、ナンパも少なくないでしょう」
でも、少し妬きました、と弥鱈さんが言う。
それで、どうしてこの流れになったのかが分かった。
それから、弥鱈さんが私を可愛いと言ったと気づいて、心の中だけで舞い上がる。
出しきった涙を指で拭って、額を胸板に当てたまま息を吐く。泣くのも、体力が要る。
「私、弥鱈さんのこと、大好きです。あ、愛してますから!」
「私も、愛してますよ」
まさかそんな言葉を貰えると思っていなかったから、それは私にまたとない打撃を与えて、押し黙る。
せっかく引っ込んでくれた涙が、またじわりと下瞼のふちにせり上がってきた。
「そういうところ、好きです」
また、弥鱈さんはそう言う。
私はTシャツの布を凝視して、涙がこれ以上出てこないように意識しながら、ついでに目を少し見開く。
表面張力で頑張っている間に、頼むから蒸発しろ。
「いつも思ってましたけど、そういうところってどういうところですか」
視線をそのまま上にやる。なんでかって、涙がぽろっといきそうだからだ。
震える声が、バカみたいで、それでも、弥鱈さんが優しくしてくれるのはいまを逃せば次は遠いと分かっている。
「俺を好きで、傷つくところ」
堪えきれずに、多分黒目の下辺りから涙が落ちた。耐えられなかったら、もう良い。私は目を閉じて、少しだけ嗚咽を漏らす。
いままで言われたシチュエーションを思い出して、ああ、と納得した。
そんなときも、あったな。
そんなことも、あったな。
やっぱり、私の好き、は、バレバレなんだ。
「可愛い」
顔を、見られていなくて、良かった。
恥ずかしくてたまらない。
弥鱈さんは相変わらずいつもの調子だけど、良い。
私の頭に顔をつけるようにしてさらに私を抱き締めてくれたから、私はまた、静かに泣いた。
弥鱈さんは最初、これを言おうとした。