壁に立ったまま寄りかかって、部屋着に着替えてソファーでゲームをする弥鱈さんの横顔を、眺める。いつも通りの彫りの深さと、血色の悪さ。大体は同じものを食べているのに、不思議だ。
私、このひと、好きなんだなあ、と改めて考える。
いまだって、隣に座りたいと思うし肩に凭れたいと思う。今朝は起きたらもういなかったから、キスもしていない。キスしたいな。できれば、舌を入れて、したいな。
ぼんやり、ぼんやり。その猫背を、その意外と滑らかな髪を、大きくて角ばった手を、がに股気味の足を、ぼんやり見ていた。

「何か言いたいことがあるなら言ったらどうですか」
「…はぁ、うん」

溜め息のような、はぁ、が漏れて、奮い立たせようと、うん、と言った。
腕を組んで、少し離れた壁に寄りかかる無表情の私は、彼にどう見えているのだろう。いや、ちらりともこちらを見てはいないけれど。

「ねぇ」
「はい」
「生理がこない」
「まだ一週間ほどでしょう」

意を決して言った私は、思いがけない言葉に二の句が継げない。弥鱈さんは、顔すら上げないまま。どういうことだ、と私はソファーに近づいて隣に座った。
それでも弥鱈さんは手元から目を離さない。

「私の生理周期知ってるの?」
「だいたい、28日、前後2日といったところでしょう」
「…当たってるし」
「あなた、報告してくるでしょうに」
「でもまさか計算してるなんて…」
「するまでもない」

弥鱈さんが溜め息を吐いて、一瞬私を見た。
私はそれに、怯んでしまう。

「でもいままでこんなに遅れたことなかった」
「女性は繊細なんでしょう、そういうときもあるらしいじゃないですか」
「でもいままでこんなに遅れたことなかったもん」
「もう少し様子を見なさい」

もっとこう。
もっとこう、違う反応を期待していた、というか想像していたのだ。生理が来ない、妊娠かもとなれば、その辺どうするこうするという話にならないものか。
弥鱈さん的にはどうなのか、私はそこを、ちょっと知りたかった。
確かに一週間でガタガタ言い出すのは早いのかもしれない。けれど、ロクに顔も上げないその態度に、私は突き放された気分になったことは間違いない。
これでこの話は終わり、とばかりに冷たくすげなく言い切られた私はもうそれ以上食い下がることもできずに、少し距離を置いて座り直す。
握っていたケータイで検索画面を出し、単語を口に出しながら打ち込む。

「し、ん、ぐ、る、まざー、ひよう」
「何やってんですか」

さっきの弥鱈さんみたいに、一瞬だけ視線をやる。ひとりで産んで育てるのってどれくらいかかるのかなって、と言いながら視線を画面に戻し、気になるページを開いた。

「別に、責任取らないとは言ってないでしょう」
「認知? 認知っていくら貰えるんですか?」
「…養育費の請求、扶養の義務が生じ遺産相続もできます」
「じゃあ毎月領収書提出するから」
「なまえさん」

弥鱈さんの手が、ケータイの画面を覆う。呼ばれた声の強さに泣きそうだったけど、努めて平静を装い、もうなに、と不機嫌な声を出した。
ゲームをほっぽったらしい弥鱈さんは眉間にシワを寄せている。たぶん、私も似たような表情をしていることだろう。

「何、拗ねてんですか」
「はあ? 拗ねてないし」
「別に、責任取らないとは言ってないだろーが」
「あ、口悪い」
「言って欲しいことを言われなかったからって、ぐずらないでください」
「別にないもん、言って欲しいことなんて」

結婚してくれなくっても、良いや。
仕事柄、お金には困っていないから産休育休を取っても平気だし、死なないと辞められない会社なんだから復帰もできるだろう。あれ、賭郎って産休育休の制度あるっけ?
まあ良い。あるだろう。私はひとりでもこの子を産む。女の子だったら、きっと私に似てとびきり可愛い。父親に似るとよく言うが、弥鱈さんに似たらどうなるのか。でも、彫りが深くて、もしかしたらエキゾチックな顔立ちになるかもしれない。私のお腹から出てくるのに。
男の子だったら。男の子だったら、弥鱈さんに似るように祈るだろう。そして、弥鱈さんの面影で私を愛してくれるように、たくさん愛を与えるだろう。
男の子だったら良いなあ、と言ったら、その手が私のケータイを奪い、検索画面を消してホーム画面を戻してしまう。

「あなたに似て、怒りっぽくて拗ねやすくて扱いづらい子になるでしょうね」

またもやゲームに戻ってしまった弥鱈さんのセリフに、嫌味か?とカチンとくるものの、乗っても埒が明かないというのは学習済みだ。

「そんなことないし。弥鱈さんに似て、シャイで、優しくて、カッコ良くて、頭が良くて、運動神経抜群で、でも物静かな可愛い子になるもん!」

言って、あれ?と気づく。いまちょっと、もしかしたら私、弥鱈さんを褒めてしまったかもしれない。いや、かなり褒めてしまった。この状況で。
弥鱈さんが何も言わないのも相まって、変な空気にしてしまったことを自覚する。

「…なんで黙るの」
「別に…あなた、本当にバカなんだなと思って」

否めないから仕方なく、悪かったわね!と言いながら組んだ足を解いて、両足ともを曲げてソファーに乗せた。お腹を撫でてもぺたんこで、やっぱりまだ妊娠かは判断できなさそうで溜め息を吐いた。避妊はしているけど、それでもできるときはできるらしいし。
生理日を入力すると周期を計算してくれるアプリを開く。使い勝手良く作られていて、カレンダーには基礎体温はもちろん、体調についてや、いわゆる仲良しをしたことまでもチェックできるようになっている。仲良しの部分をチェックするとカレンダーのマスの右上にハートが付くのだけれど、排卵予定日付近にもハートはたくさん付いている。会ったら必ずしてるなあ、と考えたら少し気まずくなって、アプリを閉じた。
そうだ。なんだかんだ、こんな態度なのに、会ったら必ずしてるんだ。私が
、生理きたよ、と言ったら手を出してこないんだ。そして、それは、私がもう終わったよ、と言うまで続くんだ。
でも、と続きを考える。何かしらのきっかけ、例えば妊娠とか、が無い限り、私たちはこのままの関係でい続ける気もするのだ。結婚しよう、だなんて弥鱈さんが言ってくれるとは思えない。結婚願望なんて、これっぽっちもなさそうだ。
私が、結婚して、とせがんだらどうなるんだろう。さらっと今日の予定を暗唱するように、良いですよ、と言うだろうか。それとも面倒くさがって別れられるのだろうか。そんな感じで結婚しても、式も上げずハネムーンにも行かず、婚姻届を提出して会社に報告するだけになりそう。私の両親に会うとか、しなさそう。もしかしたら別居婚になるのかもしれない。
私はこれで良いのかな? 結婚も出産も、弥鱈さんとはできないのかな?

「何、溜め息吐いてんですか」
「別に…」
「考えすぎて、勝手にマイナス思考になって落ち込むの、ほんと得意ですね」
「うん…そーなんだよね」

最早、反論する気力もない。
どーしよ。明日、検査薬買ってこようかな。
妊娠出産、なんて、男の人には関係ないんだ。お腹も膨らまないし、具合も悪くならないし、知らんふりしていれば、それだけのことなんだ。
お腹を、さすさす。ただ遅れているだけなのか? それとも、ここに何かいるのだろうか?
弥鱈さんみたいな男の子が出てきたら、良いなあ。
都合良く、口から思考がダダ漏れになることなんて、ない。私はさっきみたいに、ただぼんやりしている。

「…そんなに子どもが欲しいんですか」
「欲しいかって言うと、なんとも…だけど、欲しくないわけじゃないよ」
「…別に急ぐことでもないでしょう」
「でも産むなら若いうちに産みたい…若いママになりたい…若くてキレイなママ…あー、でもシングルなら無理か」

ひとりで育てて、ひとりで稼がなきゃいけないんだ。まあ、稼がなくても良いくらいの貯金はあるけど。
そう考えながらぼんやりしていたら、急に頬を摘まれた痛みに飛び上がった。

「ひっは!」
「だから何であなたはシングルマザーになる確定なんですか」
「…らっへ、ううん、弥鱈さん、認知…え?」

喋り出したら解放された頬を撫でながら、弥鱈さんを二度見した。して、凝視する。

「…責任、取ってくれるんだっけ」
「そう言ってるでしょう」
「えっと…どう取ってくれるの…?」
「婚姻届書いて、あなたのご両親に挨拶に伺いますよ。婚前に孕ませたと殴られるのを承知で」
「えっ…え? うそ」
「こんな嘘はつきません」

弥鱈さんはいつも通りのしかめ面に、眉間のシワ。驚いた私は何も言えずに口を開けていた。
その瞬間。

「あっ」
「…今度は何ですか」
「きたかも」

弥鱈さんを無視して、急いでソファーから下りる。ここは弥鱈さんちだけど、私は勝手に生理用品と汚物入れを置かせてもらった。気づいているはずだが、撤去されることもない。そのトイレに向かい、下着を下ろす。付けていたおりものシートに、赤茶色のシミ。それから、腹部の嫌な違和感。
残念なような、ほっとしたような、そんな気になりながら、ナプキンを装着。急いで戻れば、弥鱈さんはまた素知らぬ顔でゲームの真っ最中。

「ねえねえ、生理きたよ」
「そうですか」
「あー、残念。来なかったら結婚できたのにぃ」
「そうですか」
「なによう」

一切こちらを見ない弥鱈さんの、頬をつつく。柔らかくはないけど、さらさら。
さっき、ついさっき、とても幸せな気分だったのに。図ったかのようなタイミングでくるなんて。いや、良いんだけど。良いのか? 分からないけど。

「また一週間、オアズケですね」
「…口でしてあげよっか?」

弥鱈さんは黙ってでこぴんを食らわしてきて、またゲームの画面に目をやってしまう。
でも否定しなかったということは、悪い気はしないんだなと判断して、私のパパに殴られる代わりに、寝る前に襲ってやろうと決めた。








こんな形で言いたくねえ、と思ってる弥鱈さん。