エアコンの効く室内から一歩、ベランダに出ようと窓を開けただけで、むっとした熱気が肌にまとわりつく。濃紺の夜空を背景にたくさんの光。そのすべてが鬱陶しかった。
柵に腕を乗せて、缶チューハイを煽る。喉を、すうっと冷やして、一瞬の涼を感じるもそれはすぐにむかつく暑さに負けてしまう。
夏。もう子どもたちは長期休暇に入り、大人たちも夜な夜な繰り出して酒を飲んでは騒いでいる。週末のたびにどこかでお祭りのニュースが流れ、そこに映る露店の数々に気分が害される。
昔、私もよく行った。浴衣を着せてもらい髪を上げて、かき氷を食べたり、焼きそばやフランクフルトを食べたり、お面を付けたり、打ち上げ花火を見たり。そういう、懐かしい記憶が思い出されて、つまるところ寂しいような切ないような、そんな気持ちになる。
思えば、お祭りで食べるものなんて、特別おいしいわけじゃない。夜、人の溢れる非日常空間の中で、普段着ないものを着て、食べる。だから、記憶に残る。おいしいから忘れないわけじゃない。その瞬間が特別だったから忘れないだけだということ。
かき氷も、焼きそばも、フランクフルトも、もう何でも、あの頃よりおいしいものを、どこでだって、いつだって、食べられるようになった。私が大人になったからだ。
あの頃、それらが特別だった頃。そして、いまでもそれにはしゃいでいるであろう、大人たち。
私だけが置いてけぼりになったような、そんな何とも形容しがたい気持ちが、この膨らみきらなかった胸に充満している。
この夜景の、たぶんあの辺りやこの辺りに、いまでもそういう空気が漂っているのだ。

「あーおぞ、ら、にー、の、こ、さ、れたー、わたしの、こころは、」

夏模様なんかじゃない。
一に仕事、二に仕事、三四も仕事、五も仕事。独身組は、とりあえず仕事。もちろん、休みを取る社員もいるが、私は別に、用もない。休みにドライブでも、と思ったが今時期はどこもかしこも渋滞し、人で溢れているであろうことを思うと、それすら億劫でならない。
そもそも、外に出るなんて、暑すぎる。
彼氏がいても、夏、とか、お祭り、とか、とりあえずそういったものには一切の興味を示さない、もしくは嫌悪感すら抱くような人だから、こんな気持ちだって分かってくれないだろう。
ため息を吐いていたら、カラカラと後ろの窓が開いた。

「あつ…」

心底嫌そうな声がする。でも、振り向かない。
サンダルのペタペタという音がして、僅かに空気が揺れた。

「なに、たそがれてんですか」
「…別に」
「貴女、そういうとこありますよね」

その涼しげな声は、ことも無げにつまらなさそうに続ける。

「その気分の振れ幅、なんなんですか」

そんなの、私が知りたい。
どうしてこんなに、急降下するときがあるのか。

「分かんない…」
「今度はなんですか」
「…夏って、切ないよね」
「はぁ?」
「なんか、ひとりぼっちで、死んでくみたいじゃない?」

暫しの間をもって、弥鱈さんは、意味が分かりません、と言う。そうか、分からないか。
寂しくて、切なくて、悲しくて、ひとりだけ置いていかれる、あのカンジ。
たぶん、死ぬときも、同じように感じる気がするのだけど。
汗をかく缶に口をつけて、少量を少しずつ流し込む。さっきより温い。

「そこで終わるから建設的でないんですよ」
「そうかもしれないですね」
「で、なまえさんは夏に何をしたら、何をしなければ、満たされるんですか」

ああ、そうか、とすんなり思った。弥鱈さんはすごいなあ、私はそんなことまったく考えなかった。
何をしたら、何をしなければ、私はこんな気持ちにならずに済むのだろう。
たぶん、それは、すでに答えが出ている。

「お祭り行きたい。浴衣着て、髪まとめて、可愛いカッコで、いろいろ食べたり、花火見たりしたーい」
「そうですか」
「…誰か、いまから捕まるかなあ。みんな予定ありそう。ていうか、浴衣…どうせなら新しいの欲しいな」
「そうですか」
「うん、無理そう」
「なんでそうなるんですか」
「なんでって…女友達はみんな夏忙しいだろうし、新しい浴衣、わざわざ買いに行ってまで、お祭り行きたいわけじゃないし…」

来年にする、と言えば、弥鱈さんがため息を吐く。
なんとなく、欲求と、それが叶わないであろうと認めてしまうと心が軽くなって隣を見た。

「貴女はどうして、こういうときにわがまを言わないのか、理解に苦しみます」
「…え、っと、」

弥鱈さんと少しだけ見つめ合って、理解する。その頃にはもう、その目は夜景を映していた。

「…そういえば、今月、わりと休みかぶってるよね」
「どこかの誰かが、気でも遣ったのでしょう」

柵に、腕を組んで乗せる。顎を乗せて、その表情を伺う。

「…弥鱈さんは、なんか予定あったりするの?」
「あるわけないでしょう」
「…えっと、お祭り行きたい」
「付き合わないこともないですけど」
「…待って、花火やってるお祭り調べる。あ、弥鱈さんも浴衣着よう、一緒に」
「好きにしてください」

小さくガッツポーズをする。弥鱈さんがまた、ため息をひとつ。
それを聞きながら、夜景に目をやった。その瞬間に、夜でも下がらない温度と湿度を感じる。むわ、とそれは私の気管までをも支配しようとするようで、私は、さっさと室内に戻ろうとする弥鱈さんの背中を追いかけた。