※バレンタイン




フェンスの向こうに立つのは、当たり前だが女が多い。なぜなら今日は二月十四日だからだ。そろそろ練習が終わる。俺に女のサポーターはいないから、居心地の悪いことこの上ない。ジーノなんか、鼻を折ってやりたいくらいくらいの面をしてやがる。サインをねだる子供の声に、チョコレートを渡す女の声が交ざる。さっさとサインを済ませて、早く捌けよう。

「あ、ああああの、」

色紙を返した子供が避けた後ろには、スカートが見えた。ついつい子供の背丈に合わせて目線を下げていたせいだ。スカート、ということは立っているのは女で、伸びる首から油の差していない機械のような音が聞こえる気がした。

「え、っと、お疲れさまです」
「お、おう」

なんとなく見覚えがある。女が伏し目がちなのが幸いして、俺はその顔を凝視した。しかし、思い出せない。

「すみません、いつもすぐ帰るんで、こういうの、初めてで」

思い出した。よく、ひとりで練習を見に来てた女だ。ガミさんやタンさんが、誰見に来てんだろうね、と話していたのを聞いたことがある。どうして話題になるかって、この女が並みより容姿が良いからだ。確かに、可愛い、と思う。この距離だと睫毛が長いのがよく分かる。てっきり、ジーノ辺りのファンかと思っていた。

「あの、これ、捨てても良いんで、受け取って、もらえますか?」
「あ?」

ずいっと持ち手の両側を持って、女がピンクと茶色の小さな紙袋を差し出した。なんだ、やっぱり、これはあれか。チョコレートだったり、するのか。

「あ、ああ、悪いな」
「ありがとうございますっ」

ずっと下を向いていた女が顔を上げた。練習を見ていたときも、さっきまでも見せなかった表情をしていた。控えめに光る唇は緩やかに口角が上がり、たれ目がちな目は僅かに細められている。後ろから冷やかす声がしたから素早く振り返って睨みつけ、やっぱり素早く向き直った。そのせいか、女の頬はさっきより赤い。つられて俺も恥ずかしくなる。

「あー、あのよ、名前、聞いても良いか」
「あ、はいっ、みょーじなまえです」
「なまえ、でいいか、その、なんだ、ありがとな」
「いっ、いいえ! とんでもないです」

両の手のひらをわたわたと振った後、なまえは、引き留めてすみません失礼します、と言って踵を返して走り去る。揺れる長い髪を見ながら俺は暫くそこで立ち尽くしていたが、スギに肩を叩かれて我に返った。

「クロも隅におけないなあ」
「…るせー」

指にかけた紙袋は軽い。中を覗き見ると小さな箱と畳まれた紙が入っている。すれ違う奴らからのからかいの声に苛々しながら、紙を取り出して見た。スギも気になるようだが覗いては来ない。うんうん、スギはそういうやつだ。

「…なんだこれ」

しかし、それは予想外のことが書かれていた。スギが覗いてきたから、見易いように紙を傾ける。そこには、クーベルチュールチョコレート、生クリーム、水あめ、などといったチョコレートの材料と思われるものとそのグラム数が書かれていた。

「…材料だよな」
「なんでこんなもん…」
「あ、下になんか書いてある」

教科書みたいな綺麗な字で、生チョコの材料です、避けているものがあれば捨てて下さい、と書かれていた。

「クロ…愛されてるなあ」
「あ!? ち、げぇだろ」

ラーメンだって平気で食べるのだから、積極的に摂らないものはあるが、羅列されているものに抵抗はない。着替えもそこそこに、今度来たときに礼を言うべきか、来月にお返しを用意すべきか悩みながら、四角く切られたチョコレートを口に入れる。甘いそれは体温でするりと溶けて、なぜかなまえの照れながら笑った顔が浮かんだ。