その胸に顔を寄せたとき、また私はひとつ壊れる。知らない、匂い。私を抱えて眠るだけのこのひとに、少しでも、私を残せたら。朝が来なければいいと、私は願う。

「腹減った」
「…う、」
「なあ、朝飯」

朝は勝手にやって来るし、私は肩を揺すられて目が覚めた。まだ、頭がぼんやりする。半分ほどしか目が開いていない持田さんは、寝起きのかさついた声で朝食を催促した。これも、いつものことだ。自分が、食べ物に気を使わねばならない立場だと知っているのか甚だ疑問だ。

「おはよう」
「…はよ」
「できたら呼ぶから」

まだ寝てていーよ、と私はベッドから出た。いつも、いつだって名残惜しく思う。これで最後にしよう、これが最後かもしれない。そう思うと、離れることが怖い。私は持田さんの顔を見れないまま、顔を洗い、冷蔵庫を開ける。新鮮な野菜と、無添加の食品。私の冷蔵庫はそれらに陣取られている。彼の、せいで。栄養学の本やスポーツ選手向きのレシピ本を、私が持っていることを知ったら、持田さんはどう思うだろう。手は放っておいても動く。暇さえあれば読んでいるレシピの通りに。

「持田さん、朝ご飯できたよ」
「んー」
「起きて」

素直に、けれどのそのそと持田さんは起き上がりベッドに座る。目を擦って、緩慢な動きで床に足をついた。欠伸をしながら寝室を出る背中を見送って、私はベッドを整える。枕に鼻を寄せたら、誰でもない持田さんの匂いがした。

「いっただっきまーす」
「召し上がれ」

自分ひとりであれば、こんなに手の込んだ料理などしない。持田さんだけが使う箸を、コップを、何も言わずに使ってくれさえすればそれでいい。持田さんが置いていった着替えを、私と同じ柔軟剤で洗うことを許してもらえてるだけでいい。なんの約束もない私とあなたの、今日が最後でも、耐えられるように。

「ごちそーさん」
「お粗末様でした」
「うまかった」
「ありがとう」

そうやって、食器を流しに持って行ってくれるだけで、私が用意した歯ブラシを使ってくれるだけで、自宅のようにソファに座ってテレビを見ているだけで、私は修復される。見知らぬ匂いに破壊された私を。あなたが直してくれる。

「なあ」
「なに?」

テレビの中ではうるさい女子アナが喋っている。異空間、というか異次元だ。持田さんは、何を思っているのだろう。私は何を諦めているのだろう。こんなに。近くに、いるはずなのに。

「引っ越さね」
「…は?」
「だから、同棲しよっつってんの」

ばら、と箸が手から滑り落ちた。持田さんの、怖い目が私に向けられる。

「でも、持田さん、彼女とか」
「いねえし、つーか」
「香水…」

殆ど無意識に出た言葉に持田さんは気付いたようで黙った。やっぱり、私も、その匂いを纏っている人と同じですか。私は、あなたにとって、どんな意味があるのですか。

「…ヤりたいだけって思われたくなかったから」

持田さんはそっぽを向いている。どうして私は、持田さんが好きなんだろう。どうして、一緒にいるだけで悲しくなったり苦しくなったり、幸せだと思ったり、するのだろう。

「つーか」

持田さんが私を見た。目をそらせない。悔しいくらい、好きだ、と思う。魔法にでもかけられたみたいに。私の世界にはあなただけ。

「お前の予定だし」
「…なにが?」
「…彼女」

泣き出した私に、少し慌てたように立ち上がる持田さんは、やっぱり私に魔法をかけたのだ。その呪文を私に聞かせてくれていたなら、こんな風に泣くこともなかったのかもしれない。それでも、持田さんの着ている服から、持田さんの匂いと、私の衣類の匂いが、した。



手つかずの世界/椿屋四重奏をイメージ