怒っている方がまだましだと思う。無表情の持田さんは痛いくらいに力を込めた左手で、私の右手を掴んで離さない。コンパスの差すら考えてくれずに彼はずんずんと歩道を闊歩する。すれ違う人は好奇の目で私たちを見たり、中には彼が誰かを気づく人だっていた。

「も、持田さんっ」

小声で話しかけるも、聞こえていないのか無視しているのか、持田さんは何も言わない。いたたまれなくて、私は下ばかり見ていた。黒くて格好よくて高そうな靴を無造作に履きこなして、こんな風に歩くことなんて予想もしていなかった私は爪先が痛いのに。

「持田さんっ、どこ行くんですか」

辺りを憚り小声で尋ねたって、持田さんはいつだって周りを気にしない。

「帰る」

横断歩道の信号に遮られた持田さんは急に足を止めて、私は勢い余って転びそうになる。けれど、持田さんが腕を引っ張ってくれたからどうにか立ち止まれた。かける言葉も見つからない。見上げた横顔は、多分怒ってるのだろうけど無表情で、私はただうなだれた。雑踏に混じって、誰にもぶつかることなく駐車場に辿り着く。車の近くに来てからやっと手が離された。鍵を差し込む持田さんは不機嫌になってから初めて私を見て言う。

「早く乗れ」

躊躇っていた私は背を思いっきり押されて、助手席に乗り込んだ。エンジンをかけると、青い果物の匂いが僅かに漂う車内に洋楽が流れる。ノリの良い曲が流れていても、私たちの間には重苦しい沈黙ばかりが沈殿している。私は、じんじん痛む爪先を気にしていた。するすると車は立体駐車場を下っていく。

「そこに小銭入ってるから、払って」

左ハンドルの車には些か使い勝手の悪い支払機に着いて、持田さんが無愛想に言った。そこ、が灰皿であることは知っていたけど、こんな空気で払ってもらうのは気がひけて、鞄の中から財布を取り出そうとすると、持田さんはさらに不機嫌そうに口を開く。

「いいから」

とんとんと指先がハンドルを叩く。こうやって急かされるのは苦手で、券を通した画面を見ながら、小銭を片手で取り出した。急いで支払いをし、吐き出されるレシートを取ると同時に、車は走り出す。わ、と驚いた声も無視された。

「…レシート、」
「いらない」

どうしていいか分からず、とりあえず鞄の中に収めた。足が痛くて、可愛い靴の中で爪先をもぞもぞ動かす。

「腹立つ」

持田さんが不意に口を開いた。足先に向けていた視線を彼に向けるも、合うことはない。ちゃんと前を見て運転してもらえるのは願ってもないけど。腹立つ、のは私に対してなんだろう。何か、したかな。うねうね動く爪先に視線を戻した。緩やかに車が停まったのは信号が赤だったからで、目だけを信号に向けた私の頭に衝撃が走る。

「いたっ」

べしんと叩かれた頭を反射的に押さえて、持田さんを見た。相変わらず冷たい視線を受けて私は怯む。

「な、何するんですか」
「腹立ったから」
「…すみません」
「なんで謝んの」
「私…、なんかしたんですよね」

歩道の信号が赤に変わる。もう一度、ぺしんと手のひらが頭に当たった。

「…叩いて気がすむならそれでいいです」

流れるように車は走り出したから、多分持田さんはもう前を見てるんだろう。そうじゃなきゃ困るけど。何か、したのかな。

「腹立つ」
「…何がですか」
「お前を好きなのが」
「…ん?」
「なんで、」

持田さんはそこで言葉を切った。頭を押さえたまま首を回して見たら、眉間に皺が寄っている。なんで?

「…持田さん?」
「なんで」

もうちっとも怖くなくて、頭はちょっと痛かったけど平気で、持田さんは明らかに不機嫌で。

「なんで、お前みたいなの、こんな好きなんだろ」

小さく舌打ちをした持田さんに見んじゃねーよと言われて、なんとなく笑えた。笑っていたら、今度は笑うんじゃねーよと持田さんは指先でハンドルを叩く。

「私は持田さん、大好きですけどね」
「当たり前だろ」

靴から踵を外して、指先を動かしていたら持田さんの手のひらがまた私の頭を叩いて、ちょっとだけ撫でるように動いた。