※誰も傷つけないけど嫉妬





いいなあ、と思うことすらおこがましい。というか、仕事に私情を挟んではならない。

「達海さん、起きてください」
「んんー」
「達海さん、ってば」
「…うっさい、有里」

ああ、ぎしりと。肩を掴む手に力を込めた。がんがん揺すってやる。

「有里ちゃんじゃありません」
「えぇー、…みょーじか」
「はあ、申し訳ないですがみょーじです」

掛け布団にくるまって達海さんは欠伸をした。だるそうに上体を起こす。達海さんは、私を名字で呼ぶ。

「起きましたか、起きましたね。では私はもう行きます。十分で準備してくださいね」

それでは、と私は部屋を出た。悪かったな、私で。悪かったな、有里ちゃんでなくて。苛々した私はがつがつ踵を鳴らしながら歩いていて、数歩経って停まった。醜い。そう思った。

「あっ、なまえちゃん、達海さん起きた?」
「ああ、はい、多分。十分で準備するようにお願いしました」
「そっか、ありがとう」
「いいえ」

段ボールを抱えた有里ちゃんとすれ違う。鉢合わせるかな、と思っていたら案の定後ろから有里ちゃんの大きな声と達海さんの面倒臭そうな声が聞こえた。私は歩く足を速めた。どんどん私は醜くなっていく。

「あ、なまえちゃん」

顔を上げたら後藤さんがいた。何も考えられなくなるくらい働けば、気をそらせるだろうか。意識の外から醜い感情を追い出して、後藤さんの持っている資料を目で追った。




「…昼飯食わねえの」

ひょっこり顔を覗かせた達海さんは怪訝そうな顔で私を見た、気がする。私は顔を上げなかった。液晶画面に釘付けの目が疲労を訴えている。

「お腹空いてないので」
「…食わないと具合悪くなんぞ」
「お腹空いてないので」

指先は私の思いのままに動く。調子がいい。液晶画面から目を離さずに冷めたコーヒーを喉に流した。味や温度は関係がない。喉が潤えばいい。

「…みょーじ、そんなんだからがりがりなんだよ」
「気にしたことありませんでした」

ずるい、とか思ってない。嫌われたら楽なのに。整えた爪が、キーボードにかちかち当たる。早く、出て行って欲しい。有里ちゃんが帰ってくる前に。

「お、有里」

廊下を見た達海さんが何気なく呟いたその言葉で私にひびが入る。素知らぬふりでキーボードを叩く。白い画面に増えていく黒い文字。酔いそうだ。

「何してるんですか? 達海さん」
「みょーじって昼飯食わねえのかなーって」
「…ああ、なまえちゃん大丈夫?」

ぼんやりと意識の外で会話を聞いていた私は急に引き戻された。有里ちゃんまでもひょっこり顔を覗かす。

「いつも通り、大丈夫です」
「でもなんだか、顔色が良くない気がして。食堂のおばちゃんにお願いしてお粥、作ってもらったんだけど…」

断れるものか。調子は変わらない。顔色が悪く見えるならそれは苛々のせいだ。余計な迷惑を、心配を、とでも叱られるだろうか。

「…じゃあ、折角なんで頂きます」
「そう? 良かった」

席を立つ。有里ちゃんの持っているお盆を受け取る。気が利くなあ、と思った。だからか、と思った。

「じゃあ私、後藤さんに用があるから」

有里ちゃんがいなくなると、またなんだか気まずくなった。席に戻りノートパソコンを押しやる。土鍋の蓋を開ければ、もくもく湯気が立ち上がった。監督はまだそこにいた。

「ちゃんと食えよ、大事な身体なんだから」
「そのまま達海さんに返します」

意外な言葉だったけれど、私はレンゲが持てなかった。卵粥を眺める。

「うん…ていうかさあ、」
「はい」
「なまえ」
「…はい?」
「て、呼んでいい?」

私は酷くゆっくり顔を上げたので動揺は悟られなかったと思う。達海さんはいつも通り難しい顔をしていた。

「いやあ、有里はガキの頃から知ってっから良いかと思ったんだけど、…馴れ馴れしいかと思って」
「はあ、お好きにどうぞ」
「そ、じゃあなまえて呼ぶ。なまえなまえなまえなまえなまえ」
「ちょっと黙ってください」
「えー」

少し、ほんの少しだけ笑ってしまった。達海さんは唇を突き出して子供のように拗ねる。湯気の少なくなった卵粥が、なんだか美味しそうに見えて私はレンゲを取った。