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2話



とんでもない誤解を受けてしまった名無子は必死に首を横に振った。

「う、嘘はついてないです! ほんとうに、家に帰りたくて……!」
「まだそんなことを言って……」
「本当です!何も変なことは考えてないです、信じてください……!」

名無子が訴えかけるが、村岡は依然として聞く耳を持たない。むしろ、余計に疑いを深めた様子で目を細めた。

「何をどう信じろと?こうなった時の言い訳くらいもっと上手く考えておくべきざんす」

冷たく吐き捨てるように言い放つ村岡に、名無子はごくりと唾を飲み込んだ。

(この人に信用してもらうにどうすれば……)

どうやら、この疑い深い男に身の潔白をきちんと証明しなければここから出ることは叶わないようだ。

「最近多いざんすよ。ろくな金も持たずにふらふらやってきたかと思えば、ウチの顧客や金の回り具合を探ろうとする輩が。まったく、迷惑な話ざんす」
「私はそんな事するつもりで来たわけじゃないし、そういう人達とも何の関係もありません!」

事実をありのままに答えることだけが名無子のできる唯一の行動だった。

「私がそんな重要なことを任されるような人間に見えますか?それに、情報を盗むつもりで来たのなら、支配人だなんてすごい人に顔を合わせないようにもっと隠れて動くと……思います……?」

腹をくくって言葉を続けていくうちに、名無子の言葉から次第に勢いが失われていった。「私がそんな重要なことを……」のあたりから、村岡が名無子の頭のてっぺんからつま先までを値踏みするように眺め回しはじめたからだ。

「あ、あの……」

先程までの毅然とした態度を完全に失った名無子は、不安そうに村岡に声をかける。その時、カジノフロアへ続く扉が遠慮がちに開かれた。

「あ、あれ?社長、先程までこちらにいらっしゃったのに……。何かあったんですか?」

現れたのは名無子をカジノまで案内した黒服の男性だった。

「お客様が具合を悪くされたとか?それとももうショートしたんですか?」

心配そうにこちらを窺ってくる黒服に、村岡は苛立たしげに言葉を返した。

「こいつを連れてきたのはお前か?」
「はい、そうです。裏口からいらっしゃった方なんですが、わざわざ表に回ってもらうのもと思って、この部屋からご案内したんですが……」
「こんな金の匂いのしない女を連れてきてどうするつもりざんす?ただでさえ同業の連中がコソコソしてる時に面倒を増やすな!」
「す、すみませんっ……!」

怒鳴り声をあげる村岡に、黒服がわたわたと頭を下げる。

「ったく……」

イライラを隠そうともしない村岡は、近くのデスクから椅子を引っ張ってくるとどっかりと腰掛けた。背広のポケットに手を突っ込むとタバコを取り出し、口にくわえる。ペコペコと頭を下げていた黒服は反射的にライターの火を差し出した。村岡が一息つくと、途端に紫煙が部屋を充満する。ただでさえ埃っぽい部屋に満ちる煙たさに咳込みそうになるのを我慢して、名無子はちらりと村岡の様子を伺った。

(こ、怖い……)

改めて村岡の様相を見ると、座っていても分かる長身に痩せた体つきをしており、不機嫌な目元には濃いクマが浮かんでいる。うねうねとした長髪が顔の陰影を際立たせていて、恐ろしげな風体に拍車がかかっている。名無子は子どものころに読んだある童話の一編を思い出していた。人の生き血を啜る、ドラキュラ伯爵の物語――。そんな人物が眉間に皺を寄せてこちらをジロリと見据えてくるのだから、名無子は石のように固まってしまう。
しばらくタバコの煙を味わっていた村岡だったが、再び口を開いた。

「まあ、最初に見かけた時からおかしいとは思ってたざんす。大金を持ってる風でもないし、貧乏人が一攫千金を狙ってるにしては間抜け面だし、よその連中のスパイにしてももう少し上手いこと隠れるだろうし」

デスクに置いてある灰皿へ乱暴にタバコを押し付けると村岡は続けた。

「つまり、このどれにも当てはまりそうにないとなると、本当に偶然迷い込んだだけってことになるか……?」

ブツブツ呟きながらと顎に手を当てる村岡を見て、ようやく理解してくれたのかと名無子は安堵した。

「そ、そうなんです!だから、ここがどこか教えてもらいたいんですが……」

村岡はすっかり冷めきった目で黒服を見上げた。

「後はお前に任せるざんす。ああ、余計な時間を使った……」

村岡はそれだけ言うと、2本目のタバコを口にくわえた。再び黒服が傍によって火をつけると、そのまま今度はそそくさと名無子の元にやってきた。

「ここはちょっと入り組んだ路地奥にありますから……表口から出た方が分かりやすいと思いますよ。お住まいはどのあたりですか?」
「あ、ありがとうございます。えっと、12番通りの……」

名無子が答えると、黒服は困ったように眉尻を下げた。

「だいぶ離れてますね……。こんな夜中だし、バスやタクシーを拾ったほうがいいですよ。この辺で夜の一人歩きなんかする人いないですから……」

言外にこの一帯の治安の悪さをほのめかす発言に名無子はやや顔色を悪くしてしまう。が、すぐに気を取り直した。

「大丈夫です、ここに来た時もフラフラ歩いてたんですが何ともなかったですから」

そう答えながら、黒服が書いてくれた簡単な地図の載ったメモを受け取る。すると、今まで沈黙を貫いていた村岡が口を挟んだ。

「随分警戒心の無い……。さてはよその国の人間か?ここじゃ夜一人で出歩く奴なんて良いカモざんすよ。大人しくバスにでも乗って帰ったほうが身のためざんす。」
「で、でも……」

言い淀む名無子に村岡は面倒そうにため息をつく。

「店を出てすぐに良からぬ輩に狙われて、次の日に死体が見つかった……なんて事になったらウチの評判に関わるざんす。下手したら警察も押しかけてくるだろうし……。いい迷惑だからそいつのお節介を聞いておけ」
「…………」

黙り込む名無子に対して、村岡が訝しげな視線を向ける。その視線に耐えきれなくなった名無子はたどたどしく言葉を紡いだ。

「訳あって手持ちがなくて……」
「銀行なら目の前にあるざんす。もうじき閉まるだろうからさっさと出ていくざんすよ」
「貯蓄も、無くて……」

自分の懐事情を話しながら名無子は顔を真っ赤にして俯いた。しかしこれ以上ない事実である。元々良い労働環境に恵まれなかった名無子に蓄えは無く、おまけにこの国でも未だに職は見つからず、バスやタクシーを使おうものなら、今月の暮らしはかなり厳しいものになるだろう。

「……ふーん。見たところ、職探しにこの国に来たはいいが、どこも門前払いをくらって少ない蓄えでその日暮らし……ってところざんすかね」

自身の身の上をピタリと当てられた名無子はさらに身を小さく縮めた。

「そういうわけですから、歩いて帰ります。長々と失礼しました……」

名無子はぺこりと頭を下げると元来た道へ続く扉に手をかけた。だが、そんな名無子に村岡がさらに声をかける。

「お前、この後帰ってもどうせ暇ざんすよね」

唐突な質問に振り向くと、早く答えろと言わんばかりに村岡がジトッと名無子を見つめていた。

「……はい。特にやることはないですが」
「なら丁度良いざんす」

村岡がパン、と両手を叩いた。

「良かったな、今夜は残業無しで帰れそうざんすね」

村岡はにこやかに傍らの黒服に囁いた。村岡のやろうとしている事が分かったらしい黒服はぎこちない笑みを浮かべた。どことなく心から嬉しそうに見える……。

(どうしよう、状況が全然分からない……)

村岡の意図が全く掴めない名無子は困惑した顔で二人を見つめた。名無子のほうを振り返った村岡は、先程の不機嫌そうな様子とは打って変わってニコニコと話をはじめた。

「いやいや……、わしが心優しい人間で良かったざんすね。金が無くて困っているお前のために、一晩だけここで仕事を与えてやるざんす」
「えっ!?」

村岡の思いもよらない言葉に名無子は目を大きくした。

「朝になって野垂れ死にでもされてたらこっちとしても目覚めが悪いざんすからね。バス代くらいは稼がせてやるざんすよ。」
「……!」

村岡の提案に名無子は目を泳がせた。正直、かなり魅力的な話である。村岡と黒服の話では、この辺りは夜中に一人で出歩くにはかなり危険なエリアのようだし、名無子としても安全に自宅へ帰れるのならそれに越したことは無い。――しかし。村岡の黒服に対する態度を思い返し、名無子は尻込みした。村岡という男はどうも他者に対し厳しい態度を取るようだし、一晩とはいえそんな男の元で上手く仕事をこなせるのだろうか?学も経験も無いと自覚がある名無子は、自分がこの男の満足する働きができるとは到底思えなかった。
あれこれと考えている名無子に、村岡はさらに付け加えた。

「大丈夫、誰にでもできる仕事ざんす、そう難しくないざんすよ」

名無子を後押しするような村岡の言葉に、名無子はこわごわと口を開く。

「ちなみにお仕事の内容は……」
「やるのか、やらないのか?」

村岡の鋭い眼光に射抜かれ、名無子はビクリと肩を震わせた。

(ここから無事に帰るためにはやるしかないっ……!)

名無子は覚悟を決めて顔を上げた。

「や、やります。働かせてくださいっ……!」

名無子の返事を聞くと、村岡はニヤリと口元を歪めた。

「決まりざんすね。じゃあ早速だけどこっちに……」

手招きする村岡に、名無子は疲れきった顔でしずしずとついていった。村岡は奥の一番大きなデスクの椅子に座るとさて、と話を切り出した。

__簡単にいうと、名無子に与えられた仕事はこの散らかった室内の掃除だった。
村岡は雑巾が突っ込まれたバケツを名無子に差し出しながら、デスクに散乱しているファイルや書類を見回して話を始めた。

「忙しかったからだいぶ散らかってるが……。整理整頓くらい無能でもできるざんすからね、簡単ざんすよね」
「そ、そうですね」

量こそ膨大ではあるが自分でもこなせそうな仕事だ、と名無子はホッとした顔を浮かべるが、村岡はジロリと厳しい顔を向ける。

「ただし、ひとつでもヘマをしたらバス代は出ないと思うことざんすね」
「は、はい!頑張ります……!」
「ならいいざんす。じゃあさっさと始めるざんすよ」

「わしは忙しいからもう行くが、サボろうと思わないことざんす。まあ、それでお前が一夜をここで明かそうが、わしにはなんの関係もない話だが」

そう言って名無子に釘を刺すと「忙しい忙しい……」と呟きながらメインフロアへ続く扉の向こうへ消えてしまった。
その様子を呆然と見ていた名無子は、ハッと我に帰ると慌てて作業に取り掛かった。いつの間にかあの黒服もいなくなっており、名無子一人だけがこの空間に取り残されていた。

(早く終わらせないと……!)

まずはこの散らばった書類をどうにかしなければ。名無子は手近な紙をひっ掴んだ。ふとそこに書かれていた内容が目に入り、名無子は感嘆の声をあげた。

「すごい……」

その書類には 名無子が手にしたことの無い金額の数字がズラリと並んでいた、どうやらカジノの収支表になっているらしい。これだけの金があの扉の向こうで動き回っているのか、と名無子は途方もない数字に一瞬気が遠のく。

「そうじゃない!せめて朝が来る前に終わらせなきゃ!」

名無子はすぐに気を取り直すと、服が汚れないように腕まくりをして仕事に取り掛かった。


「お、終わった……」
散乱していた最後の書類を片付け終えた名無子は床にへたりこむとぐったりした様子で天を仰いだ。

(これで帰れる……!)

自分の後ろにある窓から明るい日差しが漏れているのはきっと気のせいだろう。そう思い込むことにして名無子は自身がピカピカに磨き上げた床を見つめた。

(ちゃんと綺麗にできたよね?後はあの人にチェックしてもらえれば……)

名無子は部屋の中をキョロキョロ見渡した。そういえば村岡は名無子に仕事を任せたっきり一度もこちらに姿を見せていない。

(まだカジノのほうにいるのかな?)

自分から声をかけに行ったほうがいいだろうか?しかし邪魔をしてしまったら怒られるかもしれない。そんなことを考えていると突然背後に人の気配を感じた。名無子は反射的にビクリと体を震わせる。

「進み具合はどうざんすか?」
「わっ!?」

名無子が驚いて振り向くと、そこには村岡がいた。名無子が気付かぬ間に背後に立っていたらしい。驚きで固まっている名無子をよそに、村岡は室内に目をやった。恐る恐る村岡の様子を伺った#name2だが、彼は満足げに笑みを浮かべていた。

「なんだ、もう仕上がってるじゃないか。意外と早かったざんすね」
「あっ、ありがとうございます……」

名無子は慌てて立ち上がるとペコリと頭を下げた。そんな名無子をよそに、村岡は背広のポケットから硬貨をいくつか取り出すと、名無子に向けて差し出した。

「じゃあ、約束通り報酬ざんす。落とすなよ。ほら、さっさと帰った、帰った」

礼を告げる暇も与えず、村岡は 名無子の背中をぐいぐい押して裏口へと繋がる扉に押し出した。その勢いに負けないと名無子はなんとか村岡のほうを振り返った。

「あの、ありがとうございました。勝手に入ったのに、お金までいただいて……」
「働きに見合った金を出すのは当然ざんす」

村岡はそれだけ言うと踵を返してデスクの椅子に身を預けた。

(……働いてお金を貰うのなんて、久しぶりだな)

村岡から受け取った金を握りしめ、その感触に名無子は一人考える。思えばこの国に来てからろくに働いたことがなかった。日雇いの仕事もあるにはあったが、名無子の他にも職を求める人々は大勢いるため、それに有りつくことができる機会は少なかった。今自分が手にしているこの金が自分の労働の対価だと思うと、名無子は不思議な気持ちになった。

「最近はずっと忙しいし、またすぐ散らかりそうざんすね……。またアイツらに任せるのもいいが残業代がどうとかうるさいざんすし……」

村岡はデスクに頬杖をついて、何事かをブツブツ呟いている。

「……」

名無子はもう一度手の中の硬貨をギュっと握りしめると、村岡に向かって緊張気味に話しはじめた。

「すみません……!もしよかったら私、明日もここに来ていいでしょうか?」

村岡は驚いた顔で名無子を見た。

「あ……?」
「私、この国に来てからずっと仕事を探してて………もしここで働かせてもらえるなら、精一杯頑張ります……!」

名無子の必死の訴えに、村岡はしばらく目を丸くしていたが、やがて口元に笑みを浮かべると――まるで名無子がそう言い出すのを待っていたかのように、ニコニコと矢継ぎ早に言葉を繰り出した。

「それはいいざんすね!いやあ〜〜人手が足りなくて困っていたところだったんざんす!まあ、これくらいならお前みたいなやつに任せても問題ないざんしょ」

村岡の予想外に明るい反応に面食らった名無子だったが、仕事を得られた喜びに思わず胸が熱くなった。

「良いんですか?自分で言うのも何ですが、良い学校を出たわけじゃないし、大きな会社で働いたこともないし……」
「そういう連中はここじゃウジャウジャいるざんす、結果さえ出してくれれば問題ないざんすよ」
(まさかこんなところで仕事が見つかるなんて……!)

村岡の色良い返事にすっかり安堵した名無子は、ホッとため息をついて胸を撫で下ろす。

「そうと決まったらちょっと書いてもらわないといけないものがあるざんす。ほれ、こっちに来い……」

村岡は名無子を自分の傍に呼び寄せると、1枚の用紙を手渡した。

「労働契約書ってやつざんす。今色々と厳しいからな……。ここに名前と住所を書いて……」

名無子にペンを握らすと急かすように書類の空欄を指でトントンと叩く。名無子は言われるままにペンを走らせた。

「あとはここにサインして終わりざんす。……はいはい、名無氏名無子さんね」

名無子が書いた名前を眺めながら村岡はふんふん頷いた。

(……あっ!)

職を得られた喜びで若干ぼうっとしていた名無子は、大切な事を聞きそびれていたことに気がついて村岡に向き直った。

「そういえば、その……お給料とかって……」

しどろもどろに切り出すと、村岡は笑って言った。

「なんだ、そんなことざんすか。もちろん働きに見合った金はちゃーんと出すつもりざんすよ」

そう言うなり名無子の手から労働契約書をひったくると素早く引き出しにしまい込む。

「まあ、最近は差っ引くことのほうが多いが……」

村岡の不穏な一言に、名無子は思わず冷や汗を流した。

「えっと……出来高制ってことですか?」
「そう考えてもらっていいざんす。期待してるざんすよ、名無氏さん」

村岡は上機嫌な様子で名無氏に片手を差し出した。

「よ、よろしくお願いします。社長……?」

差し出された手を名無子は恐る恐る握り返す。

(私、何かとんでもない間違いを犯している気が……)

今更そんなことを思っても後の祭りである。
こうして新たな職を手にした名無子の多忙な毎日がはじまった。

「あ、お前の疑いは綺麗さっぱり晴れたわけじゃないざんすから、くれぐれも変な真似は慎むことざんす」
「……はい」






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