「んで、何すんだよ」
私の横を歩く巳虎は少々不機嫌そうな顔で問う。それを尻目に階段を登り、すぐ先にあるカフェでブランチにしようと顎で指し示す。
「ワッフル、美味しいんだって」
「飯にならねぇだろ」
「なるよ。あんたが食べ過ぎじゃない?」
「うるせぇよ」
巳虎の言葉は無視してカツカツとヒールの音を響かせながらデッキを歩く。数歩後ろを歩く巳虎の気配を感じながら躊躇いなくカフェに入った。ウェイターは私と巳虎を確認してすぐにテーブルへと案内する。11時過ぎの店内は既に沢山の旅行客で溢れていた。
「何にしよっか」
「腹に溜まるやつ」
「お肉のあるよ」
私がメニューを指差すと、少々面倒くさそうにしながら「じゃあそれ」と返事をする。本当に嫌だったら着いてこないから、何だかんだ言ってお腹は空いているんだろう。ご飯となると意外と素直な反応を見せるのは巳虎の良いところだと思う。
ページを捲って見比べて、結局甘いやつにすることにした。休みの時くらい、自分の欲求には素直にいかないとね。
注文をしてしばらくすると目の前にお皿が2つ並ぶ。クリームとアイスに彩られたそれを見て巳虎の眉間に皺が寄る。
「すげぇな」
「そ? 普通だよ」
アイスコーヒーと一緒に食べ進めれば甘さはそこまで気にならなかった。向かいに座る巳虎はパストラミやレタスの乗ったワッフルを少々食べづらそうにしならがらも上品な手付きで切って口に運ぶ。無骨な大きな手とは正反対の丁寧な所作が好きだった。
開けられた窓から入る爽やかな潮風を感じながら、会話の1つもせずに食事を終えた。何も話さなくても心地よい時間で、キラキラ輝く波をぼんやりと見つめながら残りのコーヒーを飲みきる。12時半を少し過ぎて、店はより混雑してきた。
「出よう」
そう言えば巳虎も無言で席を立った。先導して歩く私をどんな表情で見ているのだろうか? 昨日も今日も、隣を歩くことはほとんどない。いつも先を行くのは私だ。
「ね」
立ち止まって振り向く。緩く捲られたシャツの袖から覗く腕にそっと手を伸ばす。私服と言っても普段とほとんど変わらないはずなのに、それが見えるだけでも随分新鮮に感じた。
指先で触れた肌は思ったより冷たい。滑り込ませるようにして腕を絡めると、ぴくと眉が寄る。
「だめ?」
答えはなかった。代わりに何も言わずに歩き出すのを肯定の意で捉えて逞しい腕をぎゅっと握る。触れたところから少しずつ熱を感じて、心の内がぶわっと熱くなった。
こいつ、照れている。百戦錬磨の八號立会人が、数多の女を泣かせてきた能輪巳虎が、私の行動1つで心乱されて何も言えなくなっている。
ちらりと覗き見た巳虎の表情は変わらない。わざと体を密着させれば、視線がかち合った。
「わざとだろ」
「そうだよ」
少しくらい困らせてもバチは当たらないじゃない?
巳虎の歩幅に合わせて歩くのは嫌じゃなかった。腕を組んだまま黙ってついていけばエレベーターに乗り込んで下へと降りていく。どこに行くのか聞いても良かったけど、それは何だか勿体ないような気がした。
エレベーターのドアが開くとバーやラウンジが並ぶデッキで、まだ陽も高いのに飲むのかと思えばそれを尻目にずんずんと歩を進める。しばらく歩いて、それからふと立ち止まる。目の前のジュエリーショップを見つめる巳虎に少しだけぎょっとした。
「あの……巳虎さん?」
「お袋がうるせぇんだよ」
「……あぁ」
一瞬私へのプレゼントかと期待してしまった自分が憎い。それからすぐに美玲立会人が巳虎からのプレゼントを喜ぶ様がありありと浮かんできた。普段はなんだかんだと文句を言ってるけど(主に紫音立会人の)家族仲はすこぶる良いから、今回もきっと美玲立会人から頼まれたのだろうと予想がついた。
店員さんに勘違いされると困るかな、と腕を離す。小さな舌打ちが聞こえた気がしたけど、きっと気のせいだろう。
「何を贈るの?」
「適当なモン」
適当で片付けられる金額のものは置いてないけど、天下の能輪家からすればそうでもないのかもしれない。私はわざと巳虎から離れて店内を見て歩いて回る。その中で1つの指輪が目について、ぼんやりとそれを見つめた。
「そちらにはタイガーアイがあしらわております。当店ではあまり入荷しませんが、人気のデザインですよ」
「タイガーアイ、ですか」
金運や仕事運を高めてくれるイメージがあるけど、パワーストーンとかの類いにはあまり興味がなくてそれ以上のことはよくわからない。ただ、ケースの中のそれに引き込まれるようにじっと見ていた。
「お出ししましょうか?」
「……いえ、結構です。すみません」
手に取ったらそのまま欲しくなってしまいそうで、静かに申し出を断った。デザインも私の好みかと問われれば少し違う。それでも強く心惹かれてしまって、無理矢理に顔を目を逸らして巳虎の元に戻る。既に会計まで済ませていたのか、隣に立つ私をつまらなさそうな顔で見た。
「終わった?」
「あぁ」
「何にしたの?」
「適当なピアス」
巳虎の適当はあまり信じられないから、それこそ適当に聞き流した。彼のことだからきっときちんと選んできちんとラッピングもお願いしているんだろう。
先にお店から出て、少し離れた場所でぼんやりと海を見つめる。脳裏にあの褐色が少しだけよぎったのを、頭を振って打ち消した。
頬を撫でる風はぬるく優しい。午後になっても波は変わらず穏やかだ。今後の天気を確認したけれど、幸いなことに就航中はずっと晴天の予報だった。
「ここにいたのか」
声をかけられて振り向く。声の主は巳虎ではなかった。それでもよく見知った顔……あの会員の男だった。
背筋を伸ばして向き直る。
「探したんだよ。船内にはいると思っていたから」
「何か御用ですか、ミスター。立会いなら至急用意して参りますが」
「いや、そうじゃないんだ。……面白いことに君を誘いたくてね」
「何度も申し上げておりますが、私はあくまでも立会人であり個人的なお付き合いは出来かねます」
私の言葉を聞いて、男はわかっているとでも言いたげに小さく数度頷く。その仕草に少し苛ついたが表情には出さず彼を見つめていた。
男は無言で私に拳を差し出す。何かを隠しているのか、私は伸ばしたまま指先に少しだけ力を入れた。やがて開かれた掌の中からはカジノチップが1枚現れる。少し掠れた字で10000ドルと描かれたそれを見て思わず顔を顰めた。
「高額チップを持ち出すのはマナー違反ですよ、ミスター」
「知っているとも。だから君に来てほしいんだ。返却しなければならないからね」
「それではお一人でどうぞ」
「いや、来てもらう。後で話そうと思ったがまぁいい……俺はそこで勝負を挑むつもりだ」
「……一体どなたに?」
「勿論カジノのディーラーだよ。なに、変なことはしないさ。持ち出したチップが有効か無効か、賭郎勝負で決めたいだけだよ」
「ディーラーがそのような面倒な勝負を受けるとは思いませんが」
「受けるさ。……なんせ、これは裏でしか使われてないチップだからね」
思わず生唾を飲んだ。この船のことは事前に調べているし、先に忍び込ませていた搦手からの報告も受けている。この船の裏カジノ……VIPルームに入れる人間の、更に限られた者だけが参加を許されたそこでは、特殊なチップでギャンブルを楽しむことが出来る。そのチップの対価は金ではなく、時間。各国の資産家や政治家たちが己の”時間”をかけて遊興する狂ったシステム。
「オハイオにお住まいになるのはそれほどお嫌でしたか?」
「あぁ。嫌だね」
時間を賭け、マイナスになった分は文字通り定められた……すなわち”生きている時”を奪われる。時には偽装工作に、時には軍事利用されるそのシステムは、賭郎が過去に取り立てた”アリバイ”よりも遥かに大きい。そしてお屋形様と嘘喰いが行った臨死ゲームとは違い、世界中を巻き込んで徹底的に秘匿されるその時間は、上手く扱えば何よりも都合が良いのだ。
そんな裏カジノの高額チップを持っているということは、逆に言えば”絶対に奪われない時間”を彼が持っていることになる。表のカジノでは使えない掠れ字のチップは、別の場所では絶大な効力を発揮する。そんな恐ろしいものを持ち出されたとなれば、ディーラーは勝負を受ける他ない。
「おおよそ、415日ですか」
「あぁ、そうさ。さすがに彼女から逃げるのにこんな時間奪われたら堪らないからね、うまーく調整して負けたいんだよ」
「随分とまぁ、末恐ろしいことをいたしますね」
「女に追われすぎたんだ」
自業自得だろう。あれからハーレムが決壊したのか何が起きたのかは知らないけれど私の頭はどんどんと冷えていく。さっきまでの楽しい時間を台無しにされたことに正直腹が立っていた。
しかし、目の前の男が賭郎勝負を挑むとなれば断ることは出来ない。悲しいかな、それが立会人という生き方だ。会員の求めに応じ、迅速かつ公平にゲームを執り行う。それが賭郎立会人である私の使命なのだから。
「わかりま「そのお話、私にも聞かせていただきましょう」
低い声が、私の言葉を遮った。
男の向こう、冷たい目をした巳虎が私のことを見つめている。捲られていた袖は下ろされ、どこからか取り出したネクタイを締めている。ジャケットとハンカチが無いことを除けば、どこからどう見ても立会人の姿だ。
「失礼だけど、君は?」
「申し遅れました。八號立会人、能輪巳虎と申します。以後、お見知りおきを」
深々と礼をする。男は巳虎を見て、顎を指先で撫でた。
それもそうだろう。賭郎会員で能輪の家を知らない者はほとんどいない。賭郎会員でいる期間が長ければ長いほど能輪家と関わることは多くなる。お屋形様の”切間”と同じくらい”能輪”の名は広く知られているのだ。
「能輪、知っているよ。壱號立会人にも会ったこともあるし」
「そうでしたか。それでは話が早い。彼女より私の號数のが上です。このような大きな勝負では彼女では荷が重いでしょう。ここは、私に同行させていただけませんか?」
巳虎の提案に男は少しだけ唸った。
私としては裏カジノに非常に興味はあったが、男の目的はチップを返却する以外にあることが目に見えている。それは恐らく、何かしらの方法で私を手篭めにすることだろう。それくらい予想はできている。これは自惚れでも何でも無く、この男は私を手にするために強硬手段に出るはずだ。
巳虎の発する圧に負けたのか、男は仕方ないと言うかのように息を吐く。それから挑戦的な視線で私と巳虎を交互に見た。
「じゃあ能輪立会人、仕方がないから君を連れていくことにするよ。……その前に1ついいかな?」
「何でしょう」
「君にとって、彼女はなんなの? 見たところ、仲良くクルーズ船デートとは思えないんだけど」
「ミスター! それは立会いと関係ないでしょう」
「いいや、なまえちゃん。こういうのははっきりさせておこう。そうじゃないと面白くない。……どうなんだい?」
意地の悪い笑みを湛える男の横っ面をぶん殴りたくて仕方がなかった。それでもぐっと堪えたのは、私もその答えを求めていたからに他ならない。私は巳虎からその言葉を引き出すために明日までの休暇を過ごそうとしていたのだから、腹の底で湧き立つ怒りと次の言葉を待ってしまう愚かな自分が静かにせめぎ合う。
巳虎の目は、変わらず冷たいままだ。じっと私を見つめたまま、ゆっくりと口を開く。
「彼女は、同じ立会人というだけで何の関わりもありません。ここで会ったのは偶然私も立会いがあった帰りだからです」
「……そうか、わかった。OK! 行こうじゃないか」
「用意がありますのでお部屋でお待ち下さい。30分後にお迎えに上がります。部屋は彼女に聞けばわかりますね?」
「あぁ、それでいい。待ってるよ」
男が立ち去っても、私は指先1つ動かすことが出来なかった。視線はぶつかったままなのに何も言えないまま立ち尽くす私を尻目に巳虎は踵を返す。そのまま立ち去るのかと思ったら、小さな袋片手にまた戻ってきた。
「おい、行くぞ」
「え?」
ぐい、と腕を引かれて歩き出す。半ば引っ張られるようにしながらその大きな歩幅になんとか合わせて歩いた。どこに向かうかもわからないままエレベーターに乗り込み、巳虎は躊躇いなくボタンを押した。私の部屋がある階でも、カジノのある階でもない。
「ちょっと、どこ行くのよ」
「俺の部屋」
「は?」
「ジャケット取りに行くんだよ」
巳虎はそう言ってポケットから携帯を取り出す。口調からして相手はお屋形様か判事だろう。先程の話を手短に伝える声だけが聞こえる。
エレベーターが目的階に着くと、電話しながら巳虎はまた私の腕を引く。少しバランスを崩しながらも懸命についていき、部屋の前にたどり着く。カードキーを取り出した巳虎からそれを受け取り、代わりに解除してドアを開けた。おかげで会話はこれっぽっちも耳に入ってこなかった。
追いやられるように部屋の奥に進む。ドアが閉まる音と同時にピッと短い電子音がして思わず振り向いた。何も言わずネクタイを締め直す姿を見て私は眉を寄せる。
「本当に行くの?」
「当たり前だ。時間を賭けるカジノについては過去にお屋形様から聞いてたしな」
「私も行く」
「馬鹿言うな。……ジャケット」
つい反射的にかけられたジャケットを取って手渡してしまう。それを受け取った巳虎は裾を翻しながらジャケットを羽織る。その姿にうっかり見惚れそうになりながら、私は手を掴んだ。
「あいつは私が付いてる会員なの。行く権利はある」
「無い。俺が行くことで話はまとまった。お前はここにいろ」
「どうして」
「弱いくせに着いてこられても邪魔なんだよ」
はっきりとした拒絶に、頭を殴られたような衝撃が走る。さっきの言葉といい今の言葉といい、決着は着いているじゃないか。巳虎は私のことなど、1人の女としても立会人としても認めてはいない。
「あいつの部屋番号は?」
「……Aの105」
絞り出すような声で伝えたそれを巳虎は聞き逃すわけもなく頷いた。すっかり立会人としての能輪巳虎に戻った目の前の男は、私を一瞥して部屋から出ていこうとする。
何か言わなくちゃと思ったのに、喉につかえて言葉が出てこない。ドアの前まで行って、その足はぴたりと止まった。
「なまえ」
振り返った巳虎の唇が私の名を紡ぐ。思わずびくりと肩が跳ねた。
「おい、なまえ」
ハッとして巳虎の元に駆け寄った。ドアノブに手をかけたまま、巳虎は私のことをじっと見つめる。少しの間沈黙が続き、私は呼吸を忘れたかと錯覚するほど息苦しかった。
「俺が戻るまで絶対に部屋から出るな。いいな?」
「どうして」
「アイツ、薬の臭いがした。お前が立会いで行ったラウンジはドラッグ出してるな?」
「出して、た」
あの時の光景を思い出す。カーテンの向こう、酒と女に囲まれた中、隠すように微かに漂ったのはドラッグのそれかと息を呑む。
どんな時もあの男は酒と女のいる場所にいて、そして負けたことはなかった。もしそれがドラッグありきだとしたら、絶対に奴に惚れ込む女の存在や、勝ち続ける男のおかしいまでの勝率にも合点がいく。
「アイツに犯されたくないなら俺が合図するまでドアも開けるな」
「合図って……どうするつもり?」
「携帯、戻ったら1コールだけ鳴らす」
ガチャ、とドアノブが下ろされる。巳虎は前を向いて、それからもう一度私の方を見た。
精悍な顔つきの、今まで何度も見つめ続けた瞳がまっすぐ私を捉えて離さない。私の憧れ、八號立会人の能輪巳虎がそこにいる。強く、気高く、どんな時も私の心を鷲掴みにし続ける男だ。
ふと大きな手が私の頬に添えられた。少しだけカサついた指先が数度頬を撫でる。そのままゆっくりと重ねられた唇を、私は静かに目を閉じて受け入れた。今までのどんな時よりも、優しいキスだった。
「……いってらっしゃい、能輪立会人」
「あぁ」
見上げた先の表情は険しい。場所を考えても恐らく殺し合いにはならないだろう。それでもあの男がしようとしていることが良くない方向に進むことは嫌ってくらいに予想できた。
頬から巳虎の手が離れて、ドアが開けられる。部屋を出るその背を動けないまま静かに見送った。
ドアに施錠をして、再び部屋の奥へと戻る。ハイヒールを脱いで寝転んだベッドからはほんの少しだけ巳虎の香りがする。今朝とは違う切なさが胸を締め付けて、思わずぎゅうとシーツを握りしめた。
どうか、どうか無事でありますように。
己の無力さを嘆きながら、私は目を瞑って祈ることしか出来なかった。
私のことを何にも認めてくれないのに、あんなキスをする巳虎の気持ちがわからないまま時間はどんどん過ぎていく。
決戦まで残り一日。そんなことを考える余裕は、私にはもう残されていなかった。
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