とくとくと刻む鼓動は嫌になるほど規則的だった。
 冷えた体をどれだけ抱きしめても、残り香が胸をぎゅうと締め付けて息苦しさが抜けない。そこにいない巳虎の温もりが恋しく、私はただ祈り続けることしか出来ないままでいた。枕元に放り投げた携帯は未だに振動1つ無い。しかし、待ち続けるこの時は拷問のように心を蝕んでいく。
 ふと思い立って体を起こす。時間はまだ15時前だ。巳虎が部屋を出てからまだ1時間ほどしか経っていない。携帯を手に取って電話帳を開く。船の航路を思い出しながら時差を計算し、まだ常識的な時間だろうと思って通話ボタンを押した。
 
「……みょうじです」
『そのうちかかってくるだろうと思っていた』
「ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」
 
 電話の向こう側、判事は普段よりも更に落ち着いた声色だった。
 反対に私は緊張したまま言葉を続ける。
 
「この度の事態は私の失態が原因です。会員をコントロールできないのは私の落ち度です」
『何を言っている?』
「ですから、能輪立会人が代理で立会っている件です」
『……そうか。能輪は何も言っていないのだな』
「何のお話ですか?」
 
 少しだけ、語気が強くなった。判事は何か私に隠し事をしている。
 その言葉の真意を問おうとしたところで、耳元ではガサガサと雑音を拾う。それから聞き慣れた声が私の耳にずんと響いた。
 
『みょうじ』
 
 声の主はお屋形様だった。透き通るような声が脳をゆっくりと支配していく。それはまるで透明な鉱石のように冷たい。
 突然のことに驚き何も言えなくなる。電話越しに伝わる圧に思わずごくりと生唾を飲んだ。
 
『君には何も言っていなかったね』
「お屋形様、能輪立会人は裏カジノのことを聞いていたと仰っていました。お屋形様は今日このようになることを予期していらっしゃったのですか?」
『落ち着くんだ、みょうじ。……君の質問に1つずつ答えていこう。まず、今日の賭郎勝負については私は”予期していた”』
「何故この船で私を立合わせたのですか」
『専属立会人としての”職務を果たすため”だ』
「では、何故今私は立合うことが許されないのですか」
『裏カジノでの勝負は”能輪立会人に立合うよう私が指示していた”から』
「なぜですか!」
 
 支配から逃れるように、私は大声を上げる。お屋形様に対してこんな狼藉を働くことは決して許されることではない。そんなこと十分すぎるほど理解しているのに、心が追いつかなかった。
 お屋形様はしばらく何も言わず、私は荒くなりそうな呼吸を必死に抑えながら次の言葉を待った。まるでお預けを食らった犬のように落ち着き無く、携帯を握る手に力が入る。
 
『能輪立会人には、君に同行して然るべき時に勝負に立会い、そのすべてを報告するよう私が指示していた。それが全てだよ、みょうじ』
「なぜ、ですか。答えになっておりません……お屋形様……」
『彼が志願した。これでは答えにならないかい?』
「巳虎が?」
『健気なものだよ。切間撻器が立会人を愛しく思っていた気持ちがよくわかるね。ねぇ、判事』
 
 うって変わってクスクスと声を潜めて笑う様はまるで子供のようだ。
 私は混乱した頭でお屋形様の言葉を数度反芻したけれど、結局その真意を図りかねていた。巳虎が何故自らこんな勝負に志願したのか。この船に乗り合わせたことだって、まるで偶然ではないような口ぶりだ。そういえば、巳虎と出会ったバーで彼は乗船理由を「子守みたいなもの」と言っていた。もしかしてそれは自分の担当する会員ではなく、私のこと?
 私が混乱していることが伝わっているのか、お屋形様は絶えず笑い声を上げている。遠くで判事がそれを諌める声が聞こえた。
 
『君たちは愛しくて堪らないね、本当に。……みょうじ、君は些か答えを急ぎすぎるようだ』
「答えが無くては、手のうちようがありません」
『慌てて引き出したものが良いものとは限らない。たまには待つのことも大事だろう』
「黙って待っていろと言うのですか」
『能輪の立会いを不安に思うことはあるかい? それとも何かあれば彼が死ぬとも?』
「そんなこと!」
 
 ……そんなこと、考えたこともない。
 ぽた、と手に雫が垂れた。何も出来ない自分が情けなく、こうやって黙っていることしか出来ない時間がもどかしい。今すぐにこの部屋から出て巳虎の元に行って、少しでも彼の助けになりたかった。
 私は弱い。こんな大事な局面では立会いを許されないほど、弱い。
 
『みょうじ、君にしか出来ない役目を与えよう』
「こんな私に、出来ることがあるというのですか」
 
 お屋形様には嗚咽を聞かせまいと、震える声で返事をした。それでも雫は止まらない。
 窓の外の海をじっと見つめ、微かに聞こえたお屋形様の溜息の音で脳幹を落ち着かせる。泣いてはいけない。立会人としての矜持が折れそうになる気持ちをぎりぎりのところで踏みとどまらせてくれる。
 それでも、すべてを悟ったような声色でお屋形様は言う。
 
『私の代わりにおかえりと言っておいてくれ』
「それだけ、ですか」
『そうだ。……さて、そろそろ用意するんだ。良い報告を待っているよ』
 
 返事も待たずに電話は切れた。
 1つ息を吐いてから立ち上がり、バッグを掴んでシャワールームへと向かう。勢いよく蛇口から溢れる水はどんどん私を冷静にさせた。
 ポーチを出してかかっていたタオルを引っ掴むと乱暴にバシャバシャと顔を洗った。鏡に映る目は死んでない。これから、私は今よりも強くならなければならない。
 タオルで顔を拭って、ポーチからメイク道具を取り出す。普段から一式持ち歩いていて良かった。小分けにしていたそれらで完璧にメイクをし直して、最後にお気に入りのリップを塗った。
 巳虎と初めてデートした日、私がわがままを言って困らせて、半ば無理やりプレゼントさせたリップ。今思うと本当に嫌な女だったな。
 もうほとんど残っていないそれを、リップブラシで取って唇に走らせる。どこにでも持っていくからケースは擦り傷だらけだし、ブラシを使ってもギリギリ足りるかどうかだ。それでも捨てられないのは私の大切で愛しい思い出が詰まった、勇気をくれるものだから。
 
「……よし」
 
 顔を上げれば、そこには強くて美しい、どこにいても誇れる自分がいた。
 シャワールームを出てドアスコープをちらりと覗く。廊下には誰もいない。携帯にも未だコールは無かった。ベッドまで戻り脱ぎっぱなしにしていたハイヒールのパンプスを履いて、気崩れていた服を直す。もう死角はない。
 不意に携帯が振動した。反射的に開いたそこには会員の男の名前が表示されている。思わず舌打ちをしたが、それからこの電話に出るべきか否かを瞬間的に判断した。
 そしてボタンを、押す。
 
「……みょうじです」
『あぁ、良かった。どこにいた? 君に会いたい』
「ミスター、お会いすることは出来ません。居場所をお教えすることもです」
『つれないなぁ。……わかった、彼といくよ』
 
 それだけ言って、男は電話を切った。奴から電話が来たということはもう勝負はついたということだ。巳虎はコールをしたらドアを開けろと言っていたから、部屋の前に戻るまでは連絡してこないつもりだろう。まさかとは思うけど、あの男と一緒なのだろうか? ……いや、そんなはずはない。男の目的は私だ。
 呼吸を潜めて、廊下の様子を伺う。足音を立てないように再びドアまで向かいスコープを覗いたけれど、先ほどと変わらない無人の廊下が見えた。
 壁に背中を付けて、携帯を握る。裏カジノの場所があのラウンジだとしたら、部屋に着くまでは早くても10分はかかるだろう。セキュリティを考えればもう少しかかるかもしれない。また落ち着きを失いそうになるのを深呼吸で堪えた。
 どれくらいの時が経ったか、手の中の携帯が再び震えた。視線だけで名前を確認し、切れるとほぼ同時に鍵とドアを開ける。その向こうには出ていったときと変わりない姿の巳虎がいた。
 
「待たせた」
 
 部屋に入り、後ろ手にドアを締める。鍵まですべて施錠したのを確認してから私は止めっぱなしにしていた息を吐いた。緊張か安堵か、理由はわからないけれど足が震えそうになる。
 
「おかえり」
 
 それでも今自分ができる限りの笑顔で、改めて巳虎を迎えた。
 今の私は上手く笑えている? 引きつった顔じゃない? 声は震えてない?
 何も言わない巳虎を見て、少しだけ不安になった。お屋形様に命じられたことすら出来ないとなったら、殺されるのを覚悟で辞表を出すしかない。
 
「巳虎?」
 
 返事はない。手を伸ばすと、ぐいと強く腕を引かれた。そのまま抱きしめられて驚きで目を見開く。しばらく動けないままその体温と、いつもより少し早い鼓動を感じていた。
 
「みと」
 
 名前を呼ぼうとした唇は乱暴に塞がれた。そのままぬるりと舌を差し込まれ、思わず身を捩った。性急すぎるそれに少しだけ抵抗したけれど、大きな体はびくともしない。
 僅かにアルコールの味がした。巳虎の好きなウイスキーのような深く重いキスで膝が崩れそうになる。負傷することへの覚悟はしていたけど、こうなることは予想もしていない。どんどんと胸を叩いて、ようやく解放された。
 眉根を寄せた巳虎の表情は険しく、呼吸が荒い。明らかに様子がおかしい。
 
「何されたの?」
「……おい、許すから俺のこと殴れ。本気で」
「何言って「早くしろ」
 
 抱きしめる腕が緩められる。仕方なく数歩距離を取って、ぐっと踏み込み鳩尾に正拳食らわせた。急所をつかれ一瞬呻き声が聞こえたが、私も流石に本気では殴れなくてそこまでのダメージには至っていないようだった。
 心配で顔を見る。巳虎の眼差しの鋭さは少しも変わっていない。それでも呼吸を整える姿はやはり普段とは違うように思えた。
 
「なまえ」
「何? もう一発?」
「うるせぇ話聞け。……盛られた」
「は?」
「あいつの持ってた薬、盛られた。ただ最後の1つだと言っていた。お屋形様にも伝えてある。会員権は剥奪だ。停泊地で殺すか二度と戻れんようにして放すかを決めると言っていた」
「ちょっと待って、話が見えない。ドラッグは本当に持ってたってこと?」
 
 鳩尾を押さえたまま巳虎は頷く。一瞬経ってから私はようやく事態を飲み込み、巳虎に再び近付く。暑いのかジャケットを脱いで乱雑に放り投げて、ネクタイを緩めた。それを見て水を持ってこようと横を通り抜けようとするのを、腕でぐっと引き止められた。
 
「お水持ってくるだけだから」
「……あぁ」
 
 上手く加減ができないのか少し痛い。何とか抜け出して備え付けの冷蔵庫の中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し手渡す。段々と荒くなる呼吸に私も少し焦りを覚えてきた。
 喉を鳴らして一気に半分ほど飲んでも落ち着く様子は見えない。何か見えているのかもわからないけれど、酷く高揚していることは確かだった。
 
「部屋、出られるか」
「そりゃ出ることは出来るけど、あんたは大丈夫なの?」
「うるせぇ」
 
 巳虎の額から汗が伝う。まだ暑いのかシャツのボタンを縺れるような動きの指先がいくつか外した。その下に覗く胸筋も薄っすらと汗をかいている。
 チッ、と舌打ちが聞こえて思わず顔を見上げる。ぐん、と体が持ち上がり、気付いた時には私は天井と、私に影を落とす巳虎の顔を見つめていた。
 
「あの」
「抱かせろ。……収まらねぇ」
 
 何か言うよりも前に、また唇を奪われる。噛み付くようなキスは逃げ出すことを許さない。
 服の隙間から侵入してきた大きな手まで熱い。触れられた箇所が少しずつ熱を帯びていくのがわかった。散々繋がってきた体は、この行為の行く末を嫌というほど理解している。
 ドラッグのせいか、ちらりと伺い見た巳虎の目はぎらついているのにどこか虚ろだ。必死に逃げる舌を強く吸われて、思わず鼻にかかったような声が漏れる。
 
「クソ、煽るな」
「煽ってないっ」
「喋んな。頭、ぐらぐらする」
「そりゃそうだよ」
 
 そう言って頭を押さえたまま私の上に倒れ込んだ。はっはっと犬のように荒い呼吸の巳虎を見るのは初めてだし、どんなドラッグかわからない以上どう行動をするのが正解かわからない。そもそも、ドラッグの対処なんかほぼしたことはない。それでもあの男の性格からなんとなく効果は読めた。
 所謂、合成麻薬の類いだろう。経口摂取が可能で、酒に混ぜられる粉末状のものを使っているはずだ。混入された経緯まではわからないけど、効果は気分の高揚やそれに伴って性的興奮を覚えるタイプ。ターゲットの女性に飲ませてセックスに誘い込むためのものだろう。
 精神力の強い巳虎がこんなになるなんて、よっぽど効果が強いものを使っているか弱くてもそれなりの量を飲ませている。この手のタイプは持続時間が短くとも爆発力が強い。つまり、今の巳虎は手負いの獣よろしくとてつもなく飢えた状態……のはず。
 
「……一回すれば、収まる?」
「……かもな」
「じゃあ、しよう。巳虎が苦しそうなのは嫌だから」
「馬鹿言え」
 
 抱かせろと言ってみたり、拒んでみたりと言っていることが目茶苦茶だ。さっき部屋から出るように言ったのは私を傷付けないためだろうか? 不器用な癖に優しいところが、心をじわりと熱くする。
 呼吸を落ち着かせようと必死な巳虎を抱きしめて、頭を起こして髪の毛に口付けた。
 私の体1つで巳虎を救うことが出来るのなら、それに越したことはない。例えどんな理由でも巳虎に求めらることが嬉しい。
 
「巳虎を助けたいの」
 
 僅かに顔を上げて、巳虎がこちらを向いた。安心させるように抱きしめる腕に力を込める。
 求める言葉を与えられなくても、体の関係だけだとしても、私は巳虎を愛している。初めて会った日から今日まで、ずっと。
 
「好きだから、助けたいの」
 
 虚ろな瞳が私を見た。
 ずるずると身を引きずるようにしながら、巳虎の顔が近付いてくる。ゆっくりと重ねられた唇は、まだ少しアルコールの味がした。
 
 
 ***
 
 
 裸のまま抱きしめた体は熱い。部屋に響く二人分の荒い呼吸が情事の激しさを物語っていた。
 ヒューヒューと情けない息が漏れて、縋るように巳虎の胸板に額を擦りつけた。髪の毛が張り付いて鬱陶しいけれど直す気力すら無い。代わりに太い指先がそれを払う。
 シーツも体もぐちゃぐちゃだった。昨日抱かれた時よりも遥かに強く穿たれたせいであちこちがジンジンと痛む。抑えの効かなくなった男性との力の差を感じて少しだけ震えたけど、それでも恐ろしさはなかった。ドラッグがあろうとなかろうと、巳虎は巳虎に変わりない。 
 呼吸も段々落ち着いてきて、部屋に響くのが船が波をかき分ける音くらいになっても互いを抱きしめたまま動くことはない。泥の中にいるように体が重くて、幸せだ。……ここまで酷い状態なのに、呑気にこんなことを考えている私の方がドラッグよりよっぽどまずいのかもしれない。
 
「……おい」
 
 返事の代わりにまた額を押し付けた。喉が掠れて声を出すほうがつらい。
 それを手で抑えて巳虎は起き上がり熱が離れていく。夕日ももう遠くに消えてしまって、灯りはほんの僅かしかない。隠れるようにもぞもぞとシーツに包まろうとすると、パチリと音を立てて部屋が明るくなる。
 眩しさにぎゅっと目を瞑る。しばらくすると、奥の方から水の音がした。どうやらシャワーを浴びに行ったようだ。その音が妙に心地よく、肉体の疲労も相まってどんどんと瞼が重くなる。これでは今朝と同じだ。目が覚めた時、きっとまた巳虎はいないんだろう。
 ぼんやりとしてきた脳の片隅で、自分の体が冷えていくのを感じた。
 
「……おやすみ」
 
 呟かれた言葉も聞こえないまま。
 
 
 
 
 
04


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