少し肌寒くて目が覚めた。部屋は暗く、外から入るライトの微かな灯りだけが窓際を照らしている。
ふと、背中に感じた小さな呼吸の音に気付いて寝返りをうった。そこには巳虎が眠っていて、普段の機嫌の悪そうな表情とは真逆の穏やかな寝顔に思わず微笑む。
すっかり喉が渇いてしまい、起こさないようにそっとベッドから抜け出す。冷蔵庫からミネラルウォーターを拝借してキャップを開ける。空っぽの内臓に流れ込んだ冷たさが心地よかった。
あんなにぐちゃぐちゃだった体は綺麗に拭かれていて、乱れたベッドも丁寧に整えられている。暑いのか、はだけられたままになっている布団をそっと掛け直して洗面所に向かった。
携帯を開けば夜中の11時半を過ぎている。抱き潰されたまま眠るなんて久しぶりで、思わず口角が上がった。うるさくないようサイレントマナーに変えてから、冷たい空気のシャワールームに入った。
15分ほどシャワーを浴びて、スキンケアをして気を使いながら髪を乾かしたけど巳虎は眠っていたままだった。よっぽどの深い眠りは疲れか、はたまたドラッグのせいかはわからない。それでも感じ取った雰囲気は元通りで安心する。
きゅう、と小さくお腹が鳴った。どこかに出ようかとも思ったけど、置いていくのが少し勿体なくてまた布団に潜り込んだ。巳虎の体温で温められたそこは心地よく、私を何度目かの眠りに誘おうとする。
昼過ぎには停泊地に着く予定だ。それまでに答えを聞かねばならない。いや……もう出ていたけれど。
はっきりさせよう。駄目なら駄目で、きちんと前を向こう。
これが最後の夜になるかもしれない。そう考えると少しだけ胸が痛んだ。頬にキスを落として、目を瞑る。起きたら部屋を出よう。
***
目が、覚めた。
こめかみのあたりがずきずきと痛み、思わず眉が寄る。
灯りのない部屋の中は薄暗く、窓の外を見れば水平線の遥か彼方がうっすらと明るいくらいだ。時間は今、明け方近くだろう。
ふと、隣に感じた小さな呼吸の音に気付いて視線だけで隣を見た。そこには数時間前と変わらずなまえが眠っている。いつもは化粧だなんだと彩られた瞼も唇も、今は俺にしか見せない素顔で寝息を立てている。
体の向きを変えて、細い体を片腕で抱く。僅かに身じろいだが起きることはなかった。
***
――数時間前
なまえを置いてあの男を迎えに行き、その足でカジノの奥のVIPラウンジへと向かった。カーテンで仕切られたボックスシートの向こうに更に扉が1枚。狭い階段を降りれば、辿り着いたのはほぼ船底に作られたごく小さな部屋だった。
名乗り、相手のディーラーに事の仔細を説明すれば驚いた表情を見せた。無理もないと思った。あのチップ1枚があるかどうかで裏カジノの信頼度に大きく影響が出る。ディーラーは二つ返事で了承し、勝負を受けた。
ゲームは男が指定した。神経衰弱だった。ペアを作る度に場をシャッフルし、連続で引くことは無しの変則ルール。男はチップをテーブルに置き、潜めたような、それでもよく通る声で言う。
『俺が持っているのはこのチップ1枚だ。かといってこのゲームだけですべてを賭けるのは納得できない。作ったペア数でこのチップを分割したい』
『それは、どういうことでしょうか』
ディーラーの困惑したような言葉を聞いて男は笑っていた。脳内で電卓を弾き最大ペア数から割り出す。同時に男の真意まで読み取った。
……コイツは、上手く負けるつもりでいる。
『10000ドルを最大ペア数の26で割れば……端数は切り上げましょう。つまりこのゲームでは1ペア385ドルをレートとする勝負。ということでよろしいですか?』
『そういうことだ、能輪立会人。飲み込みが早くていいね』
『……かしこまりました。足が出る分はいかがなさいますか?』
『たかだか10ドルだろ? 構わないさ』
『では、始めましょう』
そこからのゲームは驚くほどつまらないものだった。ペアが成立する度シャッフルされるという性質上、求められるのは運のはず。それなのに男はどんどんディーラーにペアを作らせていく。
1つ、1つとディーラーの前には作られたペアが並ぶ。それを時に悔しげに、時に面白げに男は見つめていた。
結局、勝負がついた時男の目の前には14枚のカードしか並んでいなかった。それを満足気に俺に見せつけ、勝負の終了を告げる。
『それでは、差額19ペア分をお支払いいただきます』
『あぁ、賭郎の立会人。申し訳ないのですが取立は私が行わなければいけません』
ディーラーは立ち上がりじっと俺の目を見つめていた。暗い部屋の中でもよくわかるくらいにカッパーの瞳がぎらついていた。
ここのことは事前に聞かされていたし、お屋形様からも向こうのやり方に手出しはしないように指示を受けている。俺は黙って引き下がり、代わりに深く礼をして提案する。
『それではお任せいたしましょう。しかし、この船から降りるまでは賭郎でも身柄をお預かりさせていただきたいのですが、いかがですか?』
『それは構いません。我々も、この船に乗っているお客様を消すのは骨が折れますので』
『ご理解いただけて何よりです。……それではミスター、戻りましょう』
俺の呼びかけに男はあっさりと了承し再び階段を上がっていく。
この船を降りてから、この男は304日間存在を消されることになるのだが、慣れているのか余裕そうな表情のままラウンジに戻った。まぁ、消されると言っても裏カジノの所有する島かどこかで悠々自適の生活をするのだろう。
『なぁ、能輪立会人。一杯付き合っていただいても?』
『お断りいたします』
『つれないねぇ。それじゃ、彼女のところにでも戻るよ』
その言葉に男の目をじっと見つめた。整った顔はふざけたように口角を上げている。
この男の狙いはわかっている。勝負をするからとなまえを呼び出す時もいつも事前に日時や場所の指定があったことも知っている。なるべく国外の、俺や賭郎の手が出せない所。……ムカつくな。
『気が変わりました、お付き合いしますよ。酒は何がお好きですか?』
『いいね。ウイスキーが好きだ。君は?』
『奇遇ですね。私もですよ』
話しながら男に着いていく。カジノ内のバーではなく、同じ階のシガーバーに向かうようだった。店のドアをくぐった男は、何の躊躇いもなく奥のテーブル席へと向かう。カウンターの奥のバーテンダーを一瞬伺い見ると、少し驚いたようにしながらも2人分の用意を始めたのが目に入った。無作法な奴の連れだと思われるのは、少々屈辱だった。
『良いものを頼もう。任せてくれよ』
『えぇ、どうぞ』
席に来たバーテンダーに男が注文する。初めて聞いた男の英語は少しだけオーストラリア訛りがあった。やがて無言のテーブルにグラスと一本のシガーが置かれて、マッチに手を伸ばす。火を差し出すと慣れた手付きで男はそれを受けた。
『君は大人の嗜みをよく理解しているね、能輪立会人』
『ありがとうございます』
『そんな嬉しく無さそうな感謝はいらないよ』
シガーを置き、乾杯もせず男はグラスをあおる。一呼吸置いてから俺も一口飲み込んだ。
『君、葉巻は?』
『いえ』
『そうか……俺はこういった物を扱う仕事でね』
シガーを指差して言う。くだらんと思いながらもう何口かウイスキーを飲み込んだ。別にこいつと話したいわけではない。なまえの所に行かせるわけにはいかないから来たまでだ。
男が吐き出した煙を受けながら、眉間に皺が寄るのをなんとか抑える。立会人として会員の行動に多少不満を持ったとしても、受け流せるような男だと自負している。それでも、酒と一緒に腹の中に堪えきれないもやもやとした感情が湧き上がった。
ふと、シガーを見た。葉のぎっしりと詰まったそれを見てこの男から感じた違和感を本能的に察知する。……こいつが扱うものは嗜好品ではない。薬物だ。
アイツも、随分と面倒くさい奴に好かれたものだと溜息をつく。
『能輪立会人』
『なんでしょう』
『1つ取引をしないか?』
『賭郎勝負に関係のあることでしたらお断りいたします』
『違うって。なまえちゃんといい君たちは話を聞かないな』
男がなまえの名前を呼ぶことは酷く不快だった。
グラスの中身を空にしたところで、男は胸元から小さなケースを取り出す。つや消しされたシルバーのそれは、ダウンライトの下で鈍く輝いていた。男が指先でそれを開くと中から透明な袋に包まれた粉末が現れた。
『これ、最後の1つだ。どうせ船を降りたら俺は300日も存在を消されるわけだし、余計なものは片付けておきたい。君が処理してくれるならなまえちゃんにも近づかないよ。どうだい?』
『我々は一応法律上そういった物は禁じられておりますが』
『でも、ここは日本じゃないだろう? 君が断るならなまえちゃんに渡しても良い』
『……私を脅すつもりですか?』
『脅す? 人聞きが悪いな。君はなまえちゃんを助けるなら何でもするだろう? その覚悟を見たいだけだよ』
しばし無言の空気が続いた。男の吸うシガーの先がジリジリと燃える赤さだけが、この世に残された色に見えた。
ソファーの背もたれに身を預けて、目を閉じる。俺がこの要求を飲めばこのクソみてぇな男はひとまずなまえにちょっかいをかけることは無くなるだろう。それがいつまでか、まぁ存在を消されている間だけかもしれないがその間に対処は打てるはずだ。もしくは、賭郎に害を為したとして粛清することもできる。
再びカウンターを見た。気付いたバーテンダーに同じものを、と告げる。
『やはり、飲み込みが早くていいね』
ウイスキーの注がれたグラスに男は躊躇いもなくその粉末を入れた。飴色に溶けて無くなったそれを飲み込む。アルコールには弱くないが、度数の高い液体は流し込んだ喉をじわりと熱くさせた。
そんなことよりも、目の前のクソ野郎をどうすれば殺せるかを考えて冷静さを保つ。
『俺は飲みましたよ、あとはアンタが約束を守る番だ』
『勿論。お別れを言えないのは悲しいが……まぁ、いいだろう』
男は立ち上がり、俺もそれに続いた。店を出て、男が部屋に戻るのを見届けてから携帯を取り出す。コールした先の声はぐらぐらと揺れはじめた頭をいくらか落ち着かせた。
『能輪です。……お屋形様、裏カジノの件ですが』
『巳虎、声が震えているね。何かあったんだろう?』
『私は大丈夫です。男は予定通り負けました。304日間です。取立は裏カジノの人間が行います。賭郎が実権を握るには、搦手を送り込む必要がありますが並の人数では足りません。ビンセント・ラロの残したデータが必要になります。武力では潰せません』
『そうか、ありがとう。君はひとまず明日まで休むんだ』
『そうします……それから、あの男を粛清する許しをいただきたいです』
体を引きずるようにしながらエレベーターに乗り込んだ。自分の部屋までが酷く遠く感じる。震えた指で何とかボタンを押した。暑い。だんだんぼんやりしてきた。
『何があったんだ。聞かなければ許可も出せない』
『薬です。合成麻薬の類、男の性格から考えるに興奮作用を高めるものです。幻覚は見えませんが……クソッ、少々ぼんやりとしてます』
『みょうじにこのことは?』
『戻ったら告げます。お屋形様、俺に殺させて下さい』
『……結論は明日の朝まで待ってくれ。まずは君が回復することが先決だ。とりあえず会員権は剥奪する』
付け足すように殺すか、死ぬ方が良いと思える形で放流すると冷たい声が言って切れた。そのタイミングでエレベーターのドアが開き、息が荒くなるのを抑えながら、廊下を歩く。
無人の廊下は敷かれたカーペットのせいで足音一つしない。代わりに呼吸の音だけがいやに響いていた。戻るまでは、なんとか意識を保たないといけない。ふわふわとした脳みそを働かせようと一度己の頬を殴った。力が入っているかも、痛みがあるかもわからない。
ようやく着いた部屋の前、なんとか背筋を伸ばして、アイツの名前を見つけて電話を掛ける。一度だけコールの音がして、すぐに切る。勢いよく開かれたドアの先のなまえは、ムカつくくらいに綺麗だった。
『待たせた』
そこから先のことは、ぼんやりとしか覚えていない。
ただ、抱きしめたあいつの体が熱くて、殴らせた鳩尾がほんのすこしだけ痛かった。
***
「ん……あ、つ」
肌の密着している箇所が暑くて目を開ける。巳虎の腕の中で抱きしめられたまま眠っていたようで、少しだけ汗をかいていた。私が起きたことに気付いたのか頭上から声がする。
「起きたか」
「なんじぃ……?」
「6時」
我ながら間抜けな声が出た。抱きしめ返して巳虎の熱を堪能する。それから段々と頭が覚醒してきて驚きでその顔を見つめた。
今まで朝こんな風にしてくれたことなんて無かった。というか朝まで一緒に寝ていたこともほとんど無いと思う。いつも私が目を覚ました頃には出て行ってるのがこの男だ。
「なんだよ」
「なんでも、ないけど」
照れとニヤけを見せまいとまた胸板に顔を埋めた。いっぱいに広がる巳虎の匂いが落ち着く。これじゃあまるで私が変態みたいだけど、事実なんだから仕方ない。
腕に少しだけ力が籠もったような気がした。負けじとぎゅっと抱きしめ返す。とくとくと鳴る鼓動は落ち着いている。これでようやく、本当に元通りの巳虎になったのだと安心した。
何も言わないまましばらく抱き合っていた。僅かに聞こえる波を割く音が心地よい。この休暇は色々あったけれど、きっと一生忘れられない思い出になる気がしていた。
船を降りる前に、話をしよう。今結論を聞く勇気は私には無かった。それまではせめてこの温もりを離したくなくて、擦り寄せた体全てでその熱を感じる。セックスで感じるものとは違う穏やかな温もりは、寝起きの心まで温めてしまう。
「もう少ししたら、ご飯食べよう」
断られるかな、と思ったけど意外にも返事はイエスだった。レストランやカフェに行く気分じゃないから、ルームサービスを頼もう。それから部屋に戻ってスーツに着替えて、お互い立会人に戻るんだ。もう数時間もすれば休暇も終わる。
「私、目玉焼き食べたいの」
「おう」
「巳虎は?」
「何でもいい」
「そればっかり」
最後に思いっきりぎゅうと抱きしめて、それから腕から抜け出して体を起こした。それに倣うように巳虎も起き上がる。寝癖を直すように手櫛で髪を撫でると大きな手がそれをわしゃわしゃと崩してしまう。
「意地悪しないでよ」
「うるせぇ」
いつも通りのぞんざいさに少しだけ笑ってしまった。ぐいと伸びをして、ベッドの下に散らばったままの下着を拾って身に着ける。早起きはそこまで得意ではないけど、沢山寝たからかスッキリとした目覚めだ。すでに登り始めた太陽の光を感じながら洗面所に向かう。レディの朝の支度は時間がかかるのが常だ。
「ねぇ巳虎。ルームサービス頼んでもらってもいい? 朝食のプレートあったよね」
「おう」
そっちは巳虎に任せてゆっくりと顔を洗い、準備を整える。そうこうしているうちに部屋のチャイムが鳴って既に着替え終わっていた巳虎が応対した。私はまだ下着のままだったからさすがに出るわけには行かないし。
セットが終わったのかドアの閉まる音と、私を呼ぶ声が聞こえる。あとはリップを塗るくらいにして洗面所を出た。テーブルの上には2人分の朝食が並んでいる。服を着ていると今度は入れ替わりで巳虎が洗面所に向かった。
「先食べていいの?」
「いい。髭整えてくる」
「冷めちゃうよ」
「食ったらすぐ出る。お前も部屋戻るだろ? 遅ぇんだから先食ってろ」
私も下船の用意をしないといけないし、各々自由にさせていた黒服たちにも連絡する必要がある。巳虎の言うことももっともだと思ってナイフとフォークを持った。サラダも軽くグリルされた野菜も好みの硬さの目玉焼きも、すべて美味しい。
焼きたてのパンとコンソメスープを堪能しているとようやく戻ってきた。巳虎は和食のプレートにしたようで、丁寧な箸使いで黙々と食べ進めていく。こうして見ていると食べる早さはやっぱり「男性」という感じで、あっという間に追いつかれてしまった。いや、私が遅いだけなんだけれど。
「早く食えよ」
ぶっきらぼうに言われて、慌てて残りのパンとフルーツまで食べきった。少し遅れる格好でごちそうさまをして洗面所に置きっぱなしのポーチを回収してバッグに詰め込む。リップを塗るのは部屋に戻ってからだ。
ハイヒールのストラップを締めて立ち上がり巳虎を見た。あとはジャケットを着るだけでもうほとんど用意は終わっているらしい。今更だけど巳虎の荷物は極僅かで、本当に裏カジノのためだけに乗船していたことがよくわかる。私は申し訳無さを抱きながらもそれを隠すように「じゃあ行くね」と声をかけた。
「下船の時はどうせ一緒でしょ?」
「その予定だが」
「じゃあ、また後でね」
そう言って部屋を出る。7時半過ぎの廊下は朝食を取りに行く乗客で少しだけ賑わっていたが混雑というほどではない。エレベーターを避けて階段でを上がって部屋まで向かい、1日ぶりにそのドアを開けた。あまり片付いていない部屋は昨日の午前中のままだ。
お気に入りのブランドのボストンバッグに着ていたワンピースを詰め込んで、下着も替えて着慣れたシャツに袖を通した。なんだかんだと準備をしていたら時計の針は8時半を指している。携帯を取り出し黒服にメールを送って、それからまた準備を再開した。
スケジュールを確認すると、寄港の予定時刻は14時と書かれている。私が乗船してからの3日間は波も穏やかだしおおよそ予定通りに着くだろう。色々あったけれども、この3日……特に巳虎と合流した2日は特別な時間だったと今なら思える。普段はデートらしいデートなんてすることもなく、予定が合えば体を重ねて、気まぐれにどこかで食事を取るぐらいだったから、本当に貴重としか言いようがない。……でも、そんな関係も今日で最後だ。役立たずで女としても認められていない私に、これ以上彼を縛り付けるわけにはいかない。
ふと、携帯が震えた。見れば黒服たちからのメールで短く返事を返す。後は下船前に合流するだけだ。残りの数時間をどう過ごすか考え、最後にショッピングでも楽しもうと部屋を出た。
ショッピングエリアは下船先が同じと思われる乗客で混み合っていた。特段これが欲しい、というのはなかったのだけれどふらふらと店を見て回る。そう言えば、と思い出して私はあのジュエリーショップに行くことにした。折角の機会だし、とあのリングを思い出す。
意気揚々とジュエリーショップに入ったはいいが、あのリングは既に売れて無くなっていた。他のものを勧められたが、すっかり気持ちが萎えてしまってそれを断って店を出る。途方に暮れながら先ほどの階に戻り、仕方無しに好きなコスメブランドの海外限定シャドウを買ってデッキに向かう。
海面はキラキラと輝いている。もう少しすれば昼食の時間だけれど、この後のこともあるから食べに行くのは止めた。それよりも、自分が思っていたよりもはるかに落ち込んでいてとぼとぼと部屋に戻る。もうこのまま時間まで部屋に引き籠もってやろうと、買ったコスメも乱暴にバッグに詰めた。13時には黒服が迎えに来る。残り2時間ほどしかないし、本でも読んで待っていればあっという間に時間は過ぎるだろう。
持ってきていた小説を読み始めてしばらくするとチャイムが鳴った。少し早いが、黒服が来たのだろうと躊躇いもなくドアを開ける。「はい」と返事をして出たドアの先には、あの腹の立つほどの整った顔があった。
「ようやく会えたね」
「……何の御用ですか、ミスター」
「つれないねぇ。折角わざわざ会いに来たというのに」
「お引取り下さい。貴方と話すことはありません」
ドアを閉めようとするのを、存外に強い力で阻まれた。両手でノブを掴んで引こうとしたけれど押す力の方が圧倒的に強く体を差し込まれ無理矢理に開かれた。この男がこんな強い力を持っているとは思わず驚きで唾を飲み込む。部屋に入り込み私の体を捕らえた男は口角を気味悪いくらいに吊り上げて口を開く。
「俺は船を降りたら消えるんだ。その前に君に会いたかった。なぁ、プレゼントがあるんだ? 受け取ってくれるね」
「いやっ! 出ていって!」
蹴り飛ばそうとした足を押さえられ、もう片手が私の口を開こうと強い力で顎を掴む。壁際に追い詰められた体は恐怖でほとんど動かすことができない。肉食動物に食われる寸前の草食動物のように、私の呼吸は荒くなる。
べ、と男が舌を出した。その上には真っ青な錠剤が少し溶けて乗っている。ドラッグだ。コイツ私にこれを飲ませようとしている。顔を背けようとしても先に何か飲んでタガが外れているのか、常人とは思えないほどの力でそれを阻止される。視界の端に見えたドアはほぼ閉じられようとしていた。オートロックのこのドアが閉まってしまえば、私は終わる。嫌だ、そんなの嫌だ!
「やだっ……巳虎っ!」
絞り出すように叫ぶのと、男の体が吹っ飛んだのはほぼ同時だった。
ずるずると崩れ落ちて見上げた先には、巳虎が、いた。
「……お前」
背筋が凍るほど冷たい声色だった。巳虎はベッドの近くまで飛んだ男に馬乗りになる。へたり込んだままの私にはその背中しか見えない。胸ぐらを掴んでいるのか、少し苦しそうな呻き声がする。飛ばされた時に頭を殴られたのか、意識が朦朧としているようにも聞こえた。
「約束が違うなァ? 俺の女に手を出してタダで済むと思ってんのか?」
ゴッと鈍い音が一発。シーツに血が飛ぶのが見えた。
「ついさっきお前の処遇が決まったぞ。喜べ。生きて船から降りれるらしいからな。俺はムカついて仕方ねぇけどなァ」
また鈍い音がする。私は壁にもたれるようにしながら震えたままの膝でなんとか立ち上がる。
「ま、ここで死んだ方がマシだと思うがな」
3発目。シーツには既に大きな血痕がいくつも刻まれている。
「賭郎会員権は剥奪だ。それから、あの裏カジノはお前の命を保証しないとよ。良かったな、304日間も死ねるみたいだぜ? お前」
ふらつく足取りで巳虎を押さえようとその背にしがみついた。
「304日間、てめぇは臨死体験できるってよ。喜べよ。お前が望んだことだろ?」
「巳虎! もう、止めて」
縋るような声は、届いただろうか。再び振り上げられた腕はゆっくりと下ろされる。立ち上がる巳虎に支えられて男を見ると、顔の左半分がパンパンに腫れ上がっている。高い鼻はひしゃげ、吹き出した血でシーツは真っ赤に染まっている。ヒューヒューと細い呼吸だけが聞こえ、かろうじて男が生きていることを私に知らせた。ドラッグをいくら使おうと、ここまでの肉体のダメージについてはいけないようだ。
「……誰か、呼べ」
「ぁ、わかっ、た」
黒服の一人を呼び出せば慌てた様子でやって来る。まるで凄惨な殺人現場のようになっている部屋を見て少し驚いた様子だったが、すぐに男の手足を縛った。その間巳虎はどこかに電話をしていた。しばらくすると身長の高い男が2人来て、すっかり気を失って死んだような顔をしている男を抱えてどこかに行ってしまった。状況が飲み込めない私は、それをぼんやりと見つめていることしかできなかった。
「裏カジノの奴だ。後はあいつらがやる」
「そっ……か」
そこまで来て私はまたその場にへたり込んでしまった。立会人として色々な勝負の現場に行っていたけれど、自分にここまで直接的に悪感情を向けられたことは初めてだった。あの顔を思い出して、ぶるりと悪寒が走る。ただ気持ち悪かった。
その様子を心配そうに黒服が見つめていた。私は何も言えなかったけれど、代わりに巳虎が荷物を持って時間まで待機するように告げて出ていってしまう。血の匂いがする部屋に2人、取り残されて思わず笑いが溢れる。
「んなにビビったのかよ」
「当たり前でしょ!? あんな、クソ野郎……」
そこからは嗚咽が邪魔をして何も言えなくなってしまう。止めようと思っても涙はそれを無視して流れ続ける。あぁ、こんなんじゃまた邪魔だと言われてしまう。ここに来てから巳虎には迷惑をかけっぱなしだ。いよいよ潮時だ、と思って私は巳虎を見上げた。
「ねぇ、答え聞かせてよ」
「あ? 今ここで?」
「聞かなくてもわかってるけど、教えて。好きじゃないって。私みたいな弱い女なんか嫌いだって、言って」
私の言葉を聞いて巳虎は少し怒ったような顔をした。無理もない。最後の最後まで面倒事を起こす女なんか嫌に決まっている。どんどん黒い感情が心を支配する。せっかく整えたメイクなんかぐしゃぐしゃになるほどの酷い有様で私はその顔を見つめていた。
巳虎は何も言わない。何も言わないまま私の腕を引っ張って無理やり立たせると、血の付いていない部分に腰掛けさせる。それから子供をあやすみたいに目線を合わせて「お前、本当に馬鹿だな」とだけ言った。そりゃ馬鹿なのは十分わかってる。だから早く切り捨てて、この夢から覚ましてほしかった。
「それは、わか゛ってる」
ず、と鼻をすする。その奥がツンと痛んだけど目の前の男はまだ怒ったままの顔で私を見ていた。それから大きな溜息をついてばちんとデコピンをする。それが痛くて思わず額を押さえた。
「何も思ってねぇ女のために薬飲むほど俺も人間出来てねぇよ」
「どゆこと、ですか」
「ほんっと物分り悪ぃな。お前じゃねぇなら助けにも行かねぇし、そもそもこんな所まで来ないって言ってんだよ」
額を押さえたまま、じっとその目を見る。
涙はいつの間にか止まっていた。というよりも自分たちを取り囲む時間そのものが止まってしまったような錯覚に襲われて、私は動けないまま次の言葉を待つ。
「好きって言わないとお前は満足しねぇらしいし」
「だって、他にも女の子、いるじゃん」
「何見て思ったかは知らねぇけどンなもんいねぇよ面倒くせぇ」
「私で、いいの?」
「お前がいいって言ってんだから、嫌いだなんて言わせんな。馬鹿なまえ」
そう言って、巳虎の表情が少しだけ緩んだ。また泣きそうになるのをぐっと堪えて、巳虎の首に腕を回して抱きしめる。伝わる体温が暖かくて、抱きしめ返された腕の力強さに安心して「大好き、大好き」とうわ言のように呟く。
いつも私を守ってくれる私の大好きな人は、少し横柄だけれども誰よりも強くて格好良い。
「言わなくても、伝わるだろ」
「伝わらないよ」
「じゃあ、一度しか言わねぇからちゃんと聞けよ」
「うん」
「好きだ。俺だけ見てろ」
「ずっと、巳虎だけを見てるよ」
重ねた唇は、少しだけ涙の味がした。
***
あれから涙もすっかり落ち着いて、崩れたメイクを直して2人で部屋を出た。血でシーツを汚してしまったことが申し訳無くてテーブルには謝罪のメモとかなりの額のチップを置いて。
メインデッキまで出ると、少しずつ近づいてきた港が見える。辺りを海鳥が舞うように飛んで、まるでダンスを踊っているようにも見える。高い位置の太陽は眩しく、私の心もようやく曇りが消え去って同じように明るい気持ちになる。
振り向くと巳虎がいる。ふと名前を呼ばれて駆け寄ると、スラックスのポケットから小さな箱を取り出した。
「これ、やる」
開けられたそこにはあのタイガーアイのリングがあった。それと顔を何度か見比べていると、少し馬鹿にしたような笑みで「わかりやすいんだよ、お前は」と言われた。手を出すように言われて少し迷ってから右手を差し出した。
「普通こっちだろ、馬鹿」
「えっ?」
ぐい、と左手を取られる。その薬指に巳虎は躊躇いなくリングを着ける。サイズを直したわけでもないそれはぶかぶかで、思わず顔を見合わせて笑う。
「大きいね」
「後で直しゃいいだろ。それか、別のやるまで我慢しろ」
「別の?」
「そん時が来るまで黙って待ってろ」
照れたように言うから、私は少しだけ背伸びをしてちゅっとキスをした。周りに人が沢山いたけど、今更こんなことで騒ぎ立てることもないだろう。
「ありがとう、ずっと大事にするね」
「……おう」
入港を告げる汽笛が鳴る。
港まではもう僅かだ。私は薬指を彩る褐色の輝きを見て、それから巳虎に寄り添いながら微笑んだ。
最高の休暇だった。何にも代えがたい人と、こうやって結ばれることが出来たのだから。
本当に、最高の休暇だった!
きっとふたりバケーション
05
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