狗野実

 

「あっ、ここにいた!」

 薄暗い旧校舎の裏側に明るい声が突然響いた。ゆらゆらと紫煙を揺らしながら、狗野実は視線だけそちらに向けた。
 落書きだらけの汚い校舎に似合わない、真面目な風貌の少年が息を切らしながらそこに立っていた。

「狗野くん、さっき先生が職員室に来いって言ってたよ」
「………」

 わざわざそのためだけに自分を探しに来たのかと、狗野はぼんやりとした頭の中でそう思った。この真面目な少年、花澤愛は狗野と同じクラスメイトであり、クラスの委員長を任されていた。委員長という面倒くさい役職を押し付けられ、担任の雑用をよく任されているのを狗野はよく見ていた。
 不良だらけのこの学校で、もちろん不良の狗野を呼びに行くのも愛にとっては嫌な仕事だろう。

「い、狗野くん…その、先生が大事な話があるって…」
「………」
「うぅ…無視ですか」

 さっさと放ってどこかに行けばいいものを狗野が立ち上がるのをずっと待っている。言われたとおりに行くはずがない狗野を連れてこいとでも言われているのだろう。
 あたふたとしている愛を見て、狗野は小さく鼻で笑った。


「…ここ座れば?あと一本吸ってから行くし」
「えっ?う、うん」

 愛は戸惑いながらもその隣に腰を下ろした。
 ツンとした鼻と白い肌、小さめの瞳を囲む短い睫毛。横目で狗野は愛の顔を見つめた。その視線はじっとりと徐々に熱を帯びていく。

 ーーそう、狗野実はこの少年に恋をしていた。

 狗野を怖がっているくせに、ちゃんと探して見つけに来る。気まずい空気の中でも、狗野に言われしっかり隣に座るところが可愛いのだ。
 興味もなかったはずの存在が今では気になって仕方がない存在になっていた。


「狗野くん最近午後の授業サボってるから、先生は午後も受けろって言いたいんだと思う」
「…花澤は放課後暇?」
「へ?!ひ、暇だと思う、けど…」
「放課後遊んでくれるんだったら授業受ける、無理だったら受けねぇ」

 あ、う…と声を漏らす愛は、暫くしてからわかったと頷いた。初めて愛と遊べる狗野はやった、と心の中で小さく呟いた。

「煙草って美味しい?」
「別に美味くないけど…吸いたいの?」

 狗野は愛が煙草を吸う姿を想像し、あまりの似合わなさに内心笑ってしまう。止めはしないが愛には吸ってほしくない気がした。

「吸いたいわけじゃないけど、煙草かっこいいし…大人の男!危ない男!って感じするから」
「…何それ、そんなこと思ったことない」

 変なこと言うやつだな、と狗野は呟くように言った。何時から煙草を吸うようになったのかわからないが、そんなことを意識して吸い始めたわけではない。
 キツめのメンソールが喉を刺激し、肺に溜まっていくのが何故か安心するのだ。狗野は緑色のパッケージを見つめながら深く煙草を吸った。

「ほら!すごいかっこいいよ、ふーって吐き出すとことか!」
「…馬鹿すぎ」

 かっこいいという言葉を向けられ、少し照れてしまう。キラキラした瞳で見てくる愛に、誤魔化すように煙を吹きかけた。
 わーッと煙を避ける愛の姿を笑いながら見つめ、火を消した。終わった?先生のところ行こう、愛は狗野の手をそっと掴み引っ張りながら校舎へと歩き出した。



 *


「また自傷行為をしたのか?お前の母ちゃんから連絡来てたぞ」

 担任の男は呆れたように言った。
 狗野は退屈げにパーカーの裾を弄る。担任の男の言葉は真実で、狗野はリストカットを繰り返す男だった。昨日もその行為をして、母親が担任に連絡をしたのだろう。

 母子家庭で育った狗野は母親と不仲ではないし、虐待も受けていない。毒親ではなく、むしろ立派な母親であった。
 狗野自身もなぜ自分がリストカットをするのかわからないでいた。ただ酷く気分が落ちたときにしてしまうのだ。
 喧嘩をしていてもわざと殴られたりすることもある。痛みが気持ちを沈めてくれるのだ。

「あんま母ちゃんに心配かけるなよ、最近花澤とも仲良いんだろ?友達作って楽しく過ごせばお前も落ち着くんじゃないか?」
「……っす」

 ちゃんと午後の授業も受けろよ、担任にそう言われ狗野は職員室を出た。


「あっ、狗野くん!」

 職員室の前に立っていたのは愛と、見覚えのある茶髪の男だった。

「放課後、匠も一緒に遊びたいみたいなんだけどいいかな?」
「…なんで?」
「な、何でって匠も遊びたいって言うから…みんなで遊んだほうが楽しいと思うし」
「ふーん…俺と2人は嫌なんだ」

 不機嫌そうに顔を歪めた狗野に愛は驚いた顔をした。

「そんな嫌そうにするなよ、俺も仲間に入れてくれてもいいじゃん」
「だる…俺、お前と遊びたくないんだけど」

 酷いなぁと、柔かに笑いかけてくるのは最近狗野の精神を乱してくる男であった。
 熊沢は愛と仲が良く、常に一緒にいる男で愛と同じく狗野のクラスメイトだ。

「まぁ、いいや…こいつ来るんだったらいいよ、じゃあね」
「えっ、ちょっと…狗野くん!」

 苛つきながら2人に背を向け、教室とは反対の道を歩き出した。

「狗野くん怒ってたよね、大丈夫かな」
「まぁ…愛は悪くないんだから気にしなくていいだろ。あ、最近学校の近くにできた……」

 仲良さげな会話が聞こえてきて、狗野は噛み締めた歯からギリッと音が出た。
 せっかく楽しい気持ちでいたのに、何故こんな気分にさせられなければいけないんだろう。
 胸の中がざわつき、左腕の傷がジクジクと熱を持ち始めた。包帯の上から傷口に爪を立て掻きむしる。


「あー……死にてぇ」


 ぼそりと呟いた声は誰の耳にも入らずに虚しく消えた。






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