慣れからの距離感
「駄目だ見るな」
突然大きな身体に包まれると、美月の視界は
遮った相手の胸元に押し付けられて真っ暗に
なった。
ほんのりと汗の香りがして、自分の為に咄嗟に
とってくれた黒尾の優しさを感じて、それが余計
に彼女の鼻をツンと痛くさせ、じんわりと涙が
浮かぶ。
『クロ君、優し過ぎるよ…』
「悪い、早く気が付くべきだった」
『ごめんね、でも見えちゃった』
「やっぱり遅かったか」
両手の買い物袋を落としそうになるのを堪え、
目の前の現実を受け止める美月は彼の胸元から
離れてお礼を言う。
美月を心配する黒尾も彼女が目にしてしまった
光景を見て、少し悔しそうな様子を見せた。
『こっちのスーパーの方がキッチンペーパーが
30円も安いのは計算外だったね』
「広告に載ってたか?どう考えてもあそこの
ドラッグストアのが安く感じただろ?」
『緊急特売になってたから、いきなり売り出し
ちゃったのかな?』
「こっちの道から行けばよかったな」
一通りの買い出しを終えていた二人は、通り道に
あったスーパーの売り出し品を見てしまい、
たった今損をしたことに息を呑む。
普段から節約家で少しでも安い物をと計画的に
狙う美月は、近い距離で安かったものを
見つけるとかなり落ち込むタイプ。
以前もしょんぼりと肩を落として帰ってきたのを
思い出してか、美月がショックを受ける前にと
つい反射で黒尾は手が伸びてしまい、今更ながら
大胆な行動だったと照れ臭くなる彼が目線を逸ら
した。
『クロ君、優しいからモテるでしょ?』
「さすがにビビらせたよね?ごめん」
『いや、私は全然。逆にこっちが申し訳ない
気持ち。クロ君の知り合いとか見てないかな?』
珍しい黒尾の反応のお陰か、美月が安いものを
逃したダメージは少なく、そんな行動がさりげ
なく取れる黒尾に感心すると、誰にでもってわけ
じゃないと彼は困った顔で笑って返す。
「美月は特別枠ってとこかな」
『特別枠?』
「それに家に行くような深い仲の連中は同性しか
いないから御安心を」
『そっか。何か、聞いてごめんね?』
「その切なくなる眼差し、止めてくれない?」
『前に連れてってくれたクロ君のお友達の家で
またスムブラやりたいな』
「美月チャン、無視は止めようね?」
お互い笑って歩く彼らの様子はまったりとして、
本日の夕飯の当番である月島に黒尾がそうだと
電話を掛け始めた。
「あ、ツッキー?美月が傷心中だからテンション
上がる一品よろしくね」
「ああ…、何となくですが把握しました。
今日もうカレーを作ってしまったんですけど」
「美月、カレーに温泉卵ってテンション上がら
ない?」
『それ、素敵』
「帰る頃には間に合うか」
「君、美月には激甘なところあるよね?」
黒尾に返事する間もなく月島に電話は切られ、
「冷たっ!」と嘆く黒尾を見て、クスクスと笑い
出す美月に黒尾も目を細める。
『本当に皆が優し過ぎる』
「明日のお弁当期待されちゃうかもよ?」
『ハードル上げてくるね』
夕飯もまだなのに話題は明日のお弁当のおかずに
変わって、楽しそうに話す彼らは傍から見たら
微笑ましい。
「嘘…だろ!!?」
そしてそんな嘆き声が上がるのは、彼らが歩き
出す数分前。
たまたまその道を通りかかって目にしてしまった
その男は、ガシャン!と缶の入った袋を勢いよく
落とし、抱き合ったように見える二人の姿に目を
見開く。
「噂のハイスペック、男子…!!?」
美月達から見えてない位置にいるが、 こちら側
からは彼女の姿は直ぐに分かって「いつの間に?
何も無いと言っていたはずなのに!」と脳内で
混乱するその男は固まる。
「そんな、マジかよ」
先日見せて貰った写真を思い出して頭を抱える
人物、花巻はその後に見せた美月の表情に少し
泣きそうになって、動揺を隠せない彼は袋から
出てしまった缶を再度落としそうになる。
彼の誤解は翌日に美月から説明を受けてしっかり
と解けるのだが、まだそれを知らない今の彼は
松川に電話をしながら深酒を決行する予定と
なった。
「…噂をすれば何とやら」
「え、噂って何?」
『あ、研磨君いらっしゃい!』
一方、のんびりと帰宅した美月は玄関から漂って
きた今日の夕飯の香りに胸を弾ませ、リビングの
扉を開けるとよく知った顔が先にカレーを口に
していた。
孤爪は彼らの近所の一軒家に住んでいて、こちら
にはよく遊びに来て、逆に皆で彼の家に遊びに
行く事もある。
まだ一回しか遊びに行ったことのない美月も
すっかり彼と仲良くなって、彼がこの家に顔を
出すと嬉しそうにしていた。
「美月さんは特別に温泉卵とコロッケです」
『あ、それコンビニの美味しいやつ!』
「孤爪さんがお土産に持ってきてくれました」
「んでもって、カレーついでに食ってる感じか」
『研磨君、わざわざありがとね。月島君も
ありがとう。エプロン、似合ってるね』
「ツッキーがエプロンなんて珍しい!」
「カレーが散るの、嫌だったんで」
改めて差し出されたカレーに視線を落とすと、
サラダもさりげなく添えられたワンプレート仕様
で自分が作るものよりもお洒落で、思わず『お店
みたい』と感動する美月に月島は微笑んだ。
「テンションが上がるものをって要望があった
から、この前のオムライスのお返しも兼ねて
ですね」
「あれ、俺のは普通。…しかもコロッケは半分に
切られてるとみた」
「黒尾さんは孤爪さんと仲良く分けてあります」
「マジか!俺のは研磨に食われちゃってんの?!」
「クロ、いっつも俺にしっかり食べろって言う
じゃん」
「こういう時だけやけに素直!」
もぐもぐと黒尾に構わず咀嚼する孤爪に美月は
笑って、その後に部活やバイトを終えた木兎や
赤葦も帰宅して、テーブルに勢揃いする。
「孤爪がいるならスムブラやろうぜ!」
『私達も帰り道にやりたいねって話してたの!』
「そう思って一応持ってきておいて良かった」
「負けたヤツはなんか奢ろうぜ?」
「黒尾さん、そう言うのは大体言い出しっぺが
負けるんですよ?」
カレーを口にしながらそれぞれが真剣な表情で
見合って、皆で協力して手早く片付けを済ませた
後は戦いが待っている。
ここにいる人間は負けず嫌いしか揃っていない。
白熱した戦いはしばらく続いて、翌日寝不足で
大きな欠伸をする美月は二日酔いで頭を抱える
花巻に奇遇だと声を掛けると彼は目を泳がせた。
「頭が重てえ…」
『花巻も寝不足?』
「…『も』ってことは、お前も寝不足?」
『うん、盛り上がると眠らせて貰えなくて』
「止めろ!生々しい話は聞かせないでくれ!」
『生々しい?ちょっと待って、花巻は一体何を
言ってるの?』