忘れられない感覚
合宿中であるその夜は、かなり白熱した自主
練習だった。
その練習に夢中になって、洗い物を済ませると
お風呂時間は何とかギリギリ間に合って、名前は
慌てた様子で、最後になってしまった大浴場に
1人で向かった。
『はぁー、極楽極楽。…てやだ、ちょっと
オジサンみたいかな?クロが移っちゃう。』
この広さで1人だけは寂しさはあるものの、中々
味わえない貸切状態に羽根を伸ばし、幼なじみ
に対して失礼な発言を混ぜながら、しっかりと
動かした足を労わって、マッサージをする。
このまま、身体を吹いたら後は自由の身となり、
仕事仲間の待つ部屋でのんびりと楽しく会話を
しながら、お菓子を堪能するだけだと鼻歌を
口ずさむ時に事件は起きてしまった。
1人でいるときのこういう勘の鋭さには、毎度
の如く嫌気が刺す。
本日は何かしらに遭遇し、朝は体育館の入口で
菅原に助けてもらい、先程だって帰り道に灰羽
がタオルに付けていたカブトムシに怯えて、
一緒にいた黒尾に一喝をしてもらったばかりだ。
二度あることは三度ある。
そんな事は誰も求めてはいないのに。
しかも、カブトムシの方がまだマシだった。
よりにもよって、角のないそいつが脱衣場に
現れるなんて。
『ふ、不法侵入ですよ!!!』
何故か、いつも咄嗟に出る行動は相手との交渉
で、1歩でも動けば飛びかかってくるかもしれ
ないヤツに困り果てて、第一声はその言葉が
出てくる。
やっぱりこんな時に限って周りには誰もいない
もので、未だに動かずにいるそいつと対面して、
この緊急事態にどうしようかと頭を悩ませた。
スマホは部屋の鞄の中の為、自宅に1人の時に
は、すぐに駆け付けてくれる黒尾を呼ぶことも
出来ない。
『ちょ、待って、動くなら一言いって!』
カサリと擬音を立てて、動きそうになったそれ
に驚いて、思わず彼女の口からは悲鳴が出て、
その音に驚いた人物が1人、彼女の目の前に
現れた。
「…大丈夫っすか?」
『もう、無理、助けて!!!』
人間がもう1人増えると、頭文字がGから始まる
その虫は、生命の危機を感じてしまったのか、
反対方向へと逃げ出して、その場からはすぐに
姿を消していた。
だが、パニックになってしまっていた名前は、
その場にいた人物が誰かの判断までする余裕
なんて無くて、目の前の人物に躊躇うことなく
抱き付いてしまう。
「ちょっと、待ってくださ…!?」
それは本当にたまたま、脱衣場に忘れ物をした
為、ここまで取りに来ただけだった。
「今、なんか変な声がしたのか?」
誰もいないと思っていたはずの、女湯の脱衣場
側から、聞き覚えのある声がして、『不法侵入
ですよ!』と嘆く声が聞こえ、誰かに襲われて
いるのか?と、少しだけビビりながら、勇気を
出して、ゆっくりとその中に影山は入ってみた。
「…は?」
誰か不審者がいるものだと思って中に入れば、
そこにいるのは名前たった1人で、誰の姿も無く、
影山は呆気に取られて、一言声を発したが、
どうやら、今1点を見つめている彼女の耳には
入ってこない。
そして見下ろすその先には、久しぶりに目に
したその虫で、都会ではよく出るのか?と冷静
な疑問が影山の頭には浮かんでいた。
その後に硬直している彼女を見て、動き出した
その虫に泣きそうになった彼女にやっとそこで
声をかけたら、彼女はこっちに向かって勢い
良く飛び込んで来て、彼の慣れない両手は反射
で前に出る。
静止を願うその言葉も意味はなく、タイミング
とタイミングが重なって、バランスを崩した
影山は支え切れずに倒れ込み、その両手には
柔らかい感触が押し寄せていた。
むにり、と言う効果音がピッタリだろうか。
ボールとはまた違ったその大きめの丸いものに
慣れてはいないその手は、僅かに動かしていた
のか、触れられたその感覚で、名前からも甘い
声がして、影山の目は見開き、互いに動きが
固まってしまっていた。
『影山君、ごめんね!私ったら大人気なく…。
大丈夫?怪我してない!?』
ゆっくりと目を開けた名前は、そこで誰なのか
わかった模様で、他校の後輩に怪我をさせて
しまったと青ざめて、謝りながら心配をして、
自分の格好は二の次なのか、彼の後頭部や背中
の心配をして、ぺたぺたと触れている。
そんな彼の視線の先は、未だに手に触れている
部分とその谷間で、下着は辛うじて付けていた
ものの、肌が出ている部分にはバッチリと触れ
ている。
「…マシュマロ。」
どちらかといえば、単純なタイプの彼は、言葉
をオブラートに包むこと無く、素直に一言を
放っていた。
その発言でやっと、自分の状況を把握した名前と
自分の仕出かしたことを把握した影山は、ぱちり
と視線を合わせ、2人の顔は正に茹でダコ状態
へと変わっていくのだった。
『ごめんね、私ったらはしたない!』
「自分は大丈夫っス。その…こちらこそ、
すみませんでした。」
『私は大丈夫!寧ろ助けてくれた影山君には
感謝しかないよ!?』
その後急いで着替えを済ませた名前は影山に誤り、
影山も頭を抱えながら、彼女が謝る事は否定を
して、罰が悪そうに彼の顔色を伺うと、彼は彼女
に気を使わせないように、その謝罪を止める。
「苗字さんが大丈夫なら、出来ればこの件は…」
『そうだね、2人だけの秘密にしておこうね。』
もしも、黒尾や澤村達にバレてしまったら大変
な事にと影山も名前もそれぞれが頭に浮かんだ
のか、自分の為にも影山の為にも、互いに
何事も無かった事にしようとその場で決める。
最後まで影山の怪我を心配していたのか、全く
体の異常を感じないことを彼が伝えると、彼女
は解決してホッとしたのか、表情を緩ませた。
自分よりも相手を優先する、優しい人なんだな。
月島が彼女を意識していたのをふと思い出し、
彼女のその表情を見たら、何となく彼の気持ち
が分かるような気もした。
そして、彼女とは頭を下げて挨拶をしてその場
で別れ、もうここからは意識をすることもない
だろう。明日からはまた激しい練習も待って
いる。そう思い込もうとしていたはずなのに、
その日の寝付きはどうも悪く、寝起きの顔を
みた日向は、苦笑いを浮かべた。
「何その手付き、何だか気持ち悪いんですけど。」
まず、その違和感に気がついたのは月島だった。
時折彼が無意識にとった空を掴む動作を不気味
に思ったらしく、顔を歪ませながら、その彼の
動作を指摘する。
休憩の合間に座り込んだ際に彼にそう言われ、
その暴言には本能で睨み返したが、その動きが
何かを思い出したのか、そのまま表情を変える
ことなく、仏頂面で何でもないと彼に言い返した。
「お前、手付きがヤラシかったぞ〜。」
「試合にはしっかり集中しているが、それが
終わると、何だか今日は上の空って感じだな。」
菅原からもそう言われ、決してやましい気持ち
はそこには無いのに、この2人を目の前にしたら
何とも気まずい気持ちになってしまったのか、
顔を引き攣らせ、んな事ねぇっす!と必死に
弁解する姿は何とも怪しい。
2人は影山を揶揄うだけで、それ以上深く追求
はせずに笑っていたが、月島だけは未だに彼の
ぎこちない様子を探っていたのか、ジロリと
彼に冷たい視線を送る。
そして休憩は終了すると、次の対戦は気になる
あの人がいる、音駒との試合が待っているの
だった。
『はぁー、情けない。』
一方、名前は他校の後輩にも迷惑をかけて
しまった事を悔やんでいたのか、いつもよりも
多めのため息に、お馴染みの3年生達は不思議
そうに首を傾げていた。
「何だ、悩み事か?」
「ため息ばっか吐いてたら、幸せが逃げるぞ。」
『虫に強い女になりたい。』
遠い目をして真面目な顔でそう言い出す彼女が
可笑しかったのか、海までもが珍しく吹き出し
ていたので、仲間達の反応に名前も機嫌を損ねる。
『あ、海まで酷い!こっちは大真面目なのに。』
「名前はそのままでいいよ。」
「どうも出来なくて、会話するの可愛いしな。」
「あわよくばお風呂上がり直撃出来るし。」
『クロは余計なこと言わないで!』
名前の怒った声と海と夜久の凄い形相から
逃げ出すように、再び練習試合開始の合図は
鳴って、対戦相手の中にいる昨日出会った人物
と目が会い、逸らされる。
月島はそれを見逃さなかった。
名前と目が合った影山は顔を赤く染め、手は
反応するのか、またあの動作を僅かに見せる。
視線を落とした影山のその態度にピンと来たの
か、嫌味を言わずにはいられなかった。
「王様、何名前さんにヤラシイ視線送ってんの?」
「べっ、別に胸を揉んだのはわざとじゃねーよ!」
『か、か、影山君!!?』
突然、月島の挑発に口走った影山の発言に目を
光らせている人間は数人。
その言葉に回収していたボトルをボタボタと
落とす人物は1人。
とりあえずはっきりといえるのは、影山の命が
危ないことだ。
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