calling


自分たちもいい大人だし、いつ死ぬかわからない軍人だし、お互い縛られたままではいけないんじゃないか。

そう、三年間付き合ってきた彼が私に言ったのは一週間前だ。私と彼はマルクトの軍人で、お互い貴族とはいかないまでもそこそこの名家出身で、家に決められた所謂『許婚』の関係だった。始めはそれに反発していた私たちだったが、時と共に私は彼に惹かれていき、彼も、同じように私を愛してくれていた。
だがしかし、いつの間にか彼にはいい人ができていたようで、体のいいことに、冒頭の台詞の後に私は捨てられたのだ。その時は正に、百年の恋も冷めてしまったという感じで、何の感情も湧いてこなかった。私は嫌に冷静な頭で「そうね、お互いにもう自由になるべきなのかもしれない」なんて返してしまったのだ。……今思えば、突然のことで頭がついていってなかっただけだったのかも知れないけど。しかし、今は違う。家のことを盾に、自分の何が気に食わなかったのかすら告げられないまま捨てられた。その理不尽さに腹も立ったし、泣きたくもなる。何もしていなかったら思い出すのは彼のことばかりで、碌に寝てもいないし、あった筈の休日も返上して、私はここ一週間働き詰めだ。軍人というだけあって、まともに生活していなくても、体力はまだ尽きない。……丁度いい。このまま彼のことを忘れられるまでずっと働いてやろうか。なんて、自棄になっている時のことだった。

――コンコンコン。処理した書類を持って、上司の部屋に訪れる。三回のノックの後、直ぐに「入れ」という声が聞こえたので、「失礼致します」と、ドアを押して執務室に踏み込んだ。

「書類をお持ちしました」

「……随分早いですね」

そう言いながら、手元の書類を机の端に寄せた上司……ジェイド・カーティス大佐は、私から書類を受け取りパラパラと捲る。私の方に手違いがなければ、後は大佐が判を押すだけの筈だ。全ての書類に目を通し終わると、大佐は

「判を押すので、少しの間そこで待っていて貰えますか」

と、引き出しから判子を取り出す。しかし私は

「何か、次の仕事は無いでしょうか」

と、短く食い下がった。――何もしない時間を作りたくはない。最悪、泣いてしまうかもしれない。……この上司の前で。そんなのは絶対にゴメンだ。しかし、それは受け入れられることなく、あっさりと断られてしまう。

「残念ですが、もうデスクワークはありません。私には優秀な部下がいますからね」

「そう…ですか」

なんて、何時ものように軽く嫌みを織り交ぜてあしらわれた。それに対して私から発せられたのは弱々しく、消え入りそうな声。観念して執務室内にあるソファに腰をかけようと、回れ右をする。一歩ソファに近づくと、背後から小さく溜め息が聞こえた。不快にさせてしまったか。そう思い、若干ドキドキしながら振り返ると、大佐は椅子から立ち上がり、にこりと笑って言った。

「少し外に出ましょうか」





グランコクマの中でも有名な噴水公園。大佐には何故か先に行くよう言われて、私は一人、高くから降り注ぐ水を眺めていた。……昔はよく彼とここで待ち合わせしていたものだと、そこらにいるカップルに視線をずらしながら思う。幸せだった日々を思いだし、溢れそうになる涙の代わりに溜め息を零した。一体何を考えているんだろう、あの大佐は。

「溜め息ばかり吐いていると、幸せが逃げますよ」

半分は貴方のせいです。言おうかと思ったが、こんな八つ当たり、大人気ない。ジト目で見るだけにしておく。しかし大佐はにこりとそれを躱し、とんでもないことを言った。

「今日はもう仕事は終わりです。先程、手続きをしてきました」

何を勝手なことをしてるんだと思い、返す言葉もなく見つめる。大佐は嬉しそうに目を細め、公園のベンチを指差した。

「少々、世間話に付き合ってください」

……どうせ大佐のせいですることもなく、かといって、何もしていないと思い出すのは彼のことばかり。偶には大佐と世間話も悪くないかもしれない。私は「少しだけですよ」と、ベンチの右半分に腰掛けた。大佐は少し間隔を開けて座ると、本当になんでもないことのように話し始めた。

「最近、きちんと休息を取っていないでしょう」

え、いきなり、何だ。というか、そんなに表に出ていたかと、ドキリとして大佐を見る。

「貴女が提出する尋常でない量の書類からでも推測できますが、それ以上に、顔色や心拍数など諸々、様子がおかしいことが伺えましたからね」

そんなに体調に出てたのかと、今更に彼の存在の大きさを再確認して、自分でも分かるくらいに私は顔を青くした。…こんな時こそ彼を思いだし、また泣きそうになる。もう自分でも何が何だか分からなくなって、内心ぐしゃぐしゃだ。どうして大佐がこんなに私のことを見ているのかなんて、この時は全然思わなくて。何とか必死に涙を堪える。

「今はキムラスカとの条約も成って、私たち軍人も戦に駆り出されることもまずなくなりました。だからこそ、食事と休息はきちんととりなさい」

俯く私に大佐はそう言い、一句切りした後、言葉を続ける。

「あまり周りに心配をかけるものではありませんよ、眞喜」

「はい。…………はい?」

一度は返事をしたものの、どうしてか違和感を覚えてつい聞き返してしまった。ちょっと、脳が追いつかない。思わず涙も引っ込み、隣に座る大佐を見上げる。開いた口が塞がらない、というのは正にこのことで。そんな様子の私を見た大佐は眉間を押さえ、わざとらしく溜め息を吐いた。

「皆まで言わなければ分かりませんか」

珍しく真剣な顔つきでそう言った大佐。

「異性として好感を持っている貴方が心配なんです。そう、言っているんですよ、眞喜」

正面から見つめられ、ようやく理解する。大佐が私の様子を察していた理由と、さっきから大佐が私のことをファーストネームで呼んでいることに。そこまで思い至って、今度は自分の心情に驚いた。正直なところ、凄く嬉しい。大佐の不器用な励ましや心配も、好いてくれているという事実も。
しかしだ、自分は一週間前に三年付き合った彼氏と別れている。そう、一週間。たった七日前。――彼に捨てられて寂しかった?それはあんまりじゃない。こんな状態で、とてもじゃないが、大佐の告白には応えられない。私のパニック状態を察した大佐は声を上げて短く笑い、「構いません」と答えた。

「貴方が長年一緒だった許嫁と別れたのは知っています。そんな状態の貴方から了承を得たとしても、手は出しませんよ」

だったらどうして。この上司は告白だけして、返事は要りませんだなんて言う殊勝な人ではないはず。……少なくとも、彼ほどではないが長い間仕事を同じくしていた間柄だ。そのくらいのことは大佐でなくても分かるだろう。またしても大佐の意図が分からない。

「ですから……そうですね、一ヶ月でどうでしょう」

……この人はもう少し人に伝わりやすく喋ろうという気はないのだろうか。付け足された台詞では一ヶ月で何がどうなのか全く分からない。大佐の言う事を理解しきれないのは実は私だけなのか。私だけ特段に理解力がないだけなのか。何が何だか分からなさすぎて悲しくなってくる。それは大佐も十分承知のようで、短い間を空けて言葉を続けた。

「一ヶ月で貴方を本気にさせて見せます。……今日は貴方を休息させるために声を掛けたようなものですから、先程の言葉は頭の片隅に置いておく程度で構いません。もう仕事もあまり溜まっていませんし、眞喜は明日も休みなさい」

宣戦布告のような台詞の後にねぎらいの言葉を続け、大佐はにこりと笑って立ち上がる。私が本気になるかどうかはともかく、この先も仕事を共にする限りさっきの言葉を忘れるなんてできるわけがない。とにもかくにも私には頭の整理をする時間が必要だという事だけは分かった。そんな私に大佐は更に畳みかける。

「さて、この後も予定はないでしょう。食事でも行きますか?」

意地悪く笑った大佐にノーと言える程今の私は冷静ではなく、ならばもう直感で判断するしかなかった。

「はい、ご一緒します……!」