幸甚な夢

自分の手が開いた引き戸が勢いよく音を立てて建枠にぶつかり、そこでようやく思いの外自分が焦っているという事実に気が付いた。驚いた顔でこちらを見る学園長――ライラは訪問者がオレだと気付いて相好を崩す。そういえば今日、保険医は非番だったかと脳裏で思いながら、室内を見回した。

「今保健室にいる生徒は彼女だけですわ」

落ち着きないオレの様子を微笑まし気に眺めながらライラは言う。その余裕のある態度から察するに、彼女の容体は特段悪いという訳ではないようだ。「そうか」と短く返すと、オレの心中を把握したかのようにライラは続ける。

「恐らく只の夏バテでしょう。親御さんに連絡はしましたから、もうじき迎えに来るはずです」

にこりと笑ってライラはそう言い、手元の茶を啜って奥に並べられたベッドを視線で示した。今しがた入室した時の事を思い出してなるべく音を立てないよう注意を払い、カーテンで遮られた一台のベッドへと向かう。ゆっくりとカーテンを開けると、そこには真っ青な顔で横になる田中の姿があった。

カーテンレールの音に気が付いた田中は「せんせー」と、いつもの四割弱の声でオレを呼ぶ。起き上がろうと身じろいだ田中を制し、ベッドの縁に腰かけた。薄手のタオルケットで顔の下半分を隠しながら恥ずかし気に田中は言う。

「心配してきてくれたんですか、せんせー」

顔が半分隠れているのにも関わらず喜んでいるのが伝わってくるそのはにかみ様に、呆れて無意識に溜息が出た。

夏休みに入って暫らく経つが未だ文化祭や体育祭の準備で半数近くの生徒が登校していて、保健室の外では生徒たちの賑やかな声が響いている。例に漏れず田中もクラスの手伝いで登校していると聞き、以前個人的に化学室で行ってみたい実験があると言っていたのを思い出して彼女のクラスに立ち寄ったのだが。

「……全く、敵わねえな」

田中が嘔吐して保健室に運ばれたと聞いて言下に足が動き出してしまったのを思い出して、もう一度溜息が口を突いた。オレの反応を不安げに見上げる田中に気付き、その額にかかる髪に手を伸ばす。前髪を割って左右に避けると、田中は擽ったそうに眼を細めた。

「冷たくて気持ちいいです」

端的にそう口にした田中の顔に掌を近づけるとすり寄ってくる。ライラは只の夏バテだろうと言っていたが、それにしては少し重篤じゃないだろうか。そう考えるオレの思考を読んだ訳では無いだろうが、田中は目を瞑ったまま口述しだした。

「元々胃腸が弱いんです。夏で偏った食生活してたら、モロに胃に来ちゃいました……」

普段なら続けておどけて見せるところだろうが流石にそんな余裕は無いようで、田中はそのまま口を一の字に結ぶ。しかし直ぐに再び開口しようとするのを、物理的に手で遮って阻止した。どうせ、『折角せんせーが来てくれたんだから何か話さないと』とでも思っているんだろう。短くも長くもない付き合いだが、あれだけ密度が高ければ自然と相手の考えなど分かってくるものだ。その結果、オレが教師としての道を踏み外しそうになっている事など、田中はまだ知らない。口を塞がれた田中は新奇なものを見るように目を開く。

「不調の身体を押して今会話しなくとも良いだろう。……少なくとも、休み明けのテストが終わればまたマンツーマンの解説がある訳だからな」

――それまで待つ必要はないが。心の中でそう付け足して口角を上げると、田中は横髪から覗く耳を赤くして口を噤んだ。暗に今までのテスト結果を貶められて恥ずかしがっているのか、単に照れているのか、どちらか問い詰めるのを自粛して田中の頭をひとつ撫でる。何か言いたげな瞳を無視してリズミカルにそれを続けると、やがて田中は瞼をゆっくりと落とす。彼女の意識が途切れる寸前を見計らって、声を掛けた。

「――おやすみ、眞喜」