引き金は

いつものメンバー、いつもの研究室、そしていつもと同じ内容の研究資料。しかしいつもと違うものがそこにはあった。

「どうしたの眞喜、酷い隈だよ」

そう言って心配そうにアステルが覗き込むのは眞喜の顔で。緩慢な動作で顔を上げた眞喜の両目の下にはアステルが言った通りの隈がその存在を主張していた。

「どうせいつものように研究資料を読み込んでいて眠れなかったんだろう」

自分の資料に目を落としながら言うと、眞喜は消え入りそうな声で何かを呟く。

「…………か……」
「か?」

一文字分の言葉しか聞き取れずに優しく聞き返すアステル。眞喜は資料を持つ手に力を込め、大声を出せる環境なら叫び出すだろう勢いで口を開いた。

「蚊よ!!蚊!!どうしてあいつらって電気を消した瞬間に耳元に出てくるの!?やっつけようと思って電気を点けたらいなくなるし!痒いわ煩いわ!昨夜はまったく眠れなかったの!!」

途中に息継ぎもなくそう言って肩で息をする眞喜。そんなことかと言葉を失えば眞喜は縋るような視線を俺に向ける。

「もおおおおおおおお願いよリヒター。魔術でも何でもいいから私の部屋にいる蚊を殲滅して……」

段々と弱くなる語気につい同情もしてしまいそうになるが相手はたかだか虫だ。虫が苦手とする薬草を置くなり、他にも対処法はある筈だが。想像以上に下らなかったその話題を早々に終わらせるためにひとつ溜息を吐いていつもの声のトーンで茶化しを入れてみる。

「それは今夜、お前の部屋に来いとそう言っているのか?」

真顔で眞喜と目を合わせてそう言えば、眞喜はしばしの沈黙の後一瞬にして顔を真っ赤に染め上げた。

「なななな何を言ってるんですか一言もそんな事言ってないじゃないですか」
「なら後で虫除けになる薬草を手配しといてやるから、そろそろ仕事に取り掛かるぞ」
「……はい」

肩を震わせながら必死で声を押し殺して笑うアステルと赤い顔のまま項垂れる眞喜を資料へ向かうよう促す。いつもなら絶対にしない種類の冗談を口走ったのはその元に眞喜への感情があるからか、はたまたただの偶然か。

それからいくらか時間が経ち、眞喜に掣肘を加えられて彼女の顔を見ると、彼女は未だ熱が引き切っていない様子で言った。

「――さっきのって、本気だったら来てくれたりするの?」

その見た事のない眞喜の表情につられて心拍数が上がるのを感じてしまうと、もうこの気持ちに観念して向き合うしかないのだろうと、彼女の首元にある虫刺されの後を見て思うのだった。