砂糖は入れないで



目の前の扉をノックしようとして、自分の両手がマグカップに塞がれている事を思い出す。一瞬足で音を鳴らそうかとも思ったけど流石にそれははしたないと、仕方なく声を使って部屋の住人に来客を知らせる方法をとった。

「ごめんジェイド、両手塞がってるから開けてくれると嬉しいんだけどー」

間抜けな状況になってしまった事への照れ隠しに少しだけ言葉尻を伸ばしてみると、その音が終わるのと同時に扉のノブが捻られた。

「おや」

特に警戒なく開かれた扉の隙間から現れたジェイドは私の両手で湯気をたてるマグカップに目を落とし声を零す。普段より隙のあるその様子を見て、これは大分参ってるみたいだと確信した。

「ミリーナが淹れてくれたの。お邪魔してもいいかな」

二人分のコーヒーを目の前に掲げて見せると、ジェイドは扉を押して「どうぞ」と完全プライベートな私室に私を招き入れてくれる。事務仕事をするには暗すぎる程度に絞られた照明をみるに、私の心配も杞憂じゃなかったようだ。

オールドラントで取り返しのつかない失敗を経験したのは、ルークやアニスだけじゃない。私たちみんな、後悔という言葉で済ませるにも重すぎる過ちを犯している。けれど幸か不幸か、望まずとはいえこの ティル・ナ・ノーグに具現化されて、この世界で生きなければならなくなって。そんな理不尽な現実が、みんなに『元の世界での過ちを繰り返さない』という強い決意を再び抱かせた。そしてそれは、普段飄々としている目の前の彼も例外じゃない。
慣れない世界に、初対面にして深く関わる事になった人々。数々の問題を解決するためにどの選択肢が最善か。過去に間違いを選択してしまったという自覚があればこそ生まれる現在の葛藤や焦燥を、彼は上手く隠しすぎる。

一対のローソファに挟まれたローテーブル。奥側にマグカップをひとつ置いて、入口側のソファに自分のマグカップを持ったまま腰掛けた。続けてジェイドも私の対面に腰かけて、湯気の立つマグカップの縁を指でなぞる。

「気を遣わせてしまいましたね」

私もまだまだです、と緩く首を振ってからコーヒーに口をつけるジェイドを見ながら、不謹慎にも笑みが零れそうになった。振る舞いは普段通りだけど、滲み出る憔悴を隠そうとしないのはこの空間にいるのが私だけだから。その事実に顔を出すのは堪らない満足感。

「いいじゃない、私とジェイドの中でしょ」

と、つい冗談のように笑い飛ばそうとしてしまうのは癖みたいになってしまった照れ隠しだ。

「……それもそうですね」

ふと、緩い微笑みを口元に浮かべて彼はもう一度コーヒーを口に含む。この時間が少しは彼の休息になれるだろうかと尊大な事を脳裏で思いながら、私も手元のコーヒーに口をつけた。と、

「眞喜」

マグカップをテーブルのいくらか中央寄りに置いて私の名前を呼んだジェイドを見て、まだまだ私も甘かったと気づいた。

ふたつの赤い瞳の奥には、私以外に向けられることの無い情が籠っていて。その熱とテーブル越しに差し出される手に、私はいとも容易く引き寄せられる。

革張りのソファから腰を浮かせて、彼の手に触れる。包むように柔く手を握る彼の動きに合わせて移動した結果、私の腰はソファではなく、ソファに座るジェイドの膝の上に落ち着いた。

どうやら私は、彼のおかしなスイッチを入れてしまったらしい。私の手を離してするりと背中へ回るジェイドの両手。ゆっくりと力を込めて、抱きしめられる。キスもなく、両者の息遣いは整ったまま。只々抱きしめるだけという行為に、彼はどんな価値を見出したのやら。そんな最上級の甘え方をしてくる彼が愛おしくて、私も彼の首に腕を回した。私の思惑以上の姿を見せてくれた彼をまだ暫く眺めていたいと思う。ブロンドの髪を指で梳きながら、そんな束の間の喜びをひとり静かに噛み締めた。