及川の片思い


※及川→夢主→牛島



「毎日毎日見てるだけなの。見てるだけだけど、好きなの」

いつもより少し高いトーンで、僅かに震える声で、彼女はそう言った。

聞くと、通学の為に毎日通う駅で、相手の事を見ているらしい。朝と夕方、一日二回駅の前を走り抜けるだけの男に一目惚れ。その男がジャージを身に纏って駅を横切る定時を把握してからは、その時間に遅れないよう家を出て、下校をした。だけど話しかける勇気は当たり前の様になくて。未だにその男の名前も年齢も、毎日走っている理由さえも知らないまま。そんな甘酸っぱい話を、彼女は恥ずかしそうに途切れ途切れながらにも話してくれた。
耳まで真っ赤に染まった彼女の初めて見る表情は、募りに募った"好き"がどの程度のものなのかを如実に物語っていて。彼女の持つそれと比例するように俺の中の好きと悔しさは重みを増した。

そうして、彼女の片思いを知ってから、時々顔を出しそうになるその気持ちをなんとか隠しながら数週間。これまた今まで見た事の無い種類の笑顔を俺に向けて、彼女はずっと見ているだけだったその男と話をすることが出来たと、報告してきた。何で逐一俺に報告するんだと思う反面、そんな彼女の内側を知ることが出来る立場にある事を密かに喜ぶ女々しい俺。結局最後まで話を聞いて、「やったじゃん。――あー、これで田中も俺に構ってる暇無くなるかもねえ」とか、見栄を含んだ軽口を叩いたのが数日前の事だった。

なのに。

「田中」

どうして、終業から随分と時間のたった今でも、田中の姿がこの教室にある?

「――……及川」

どうして、振り返った田中の目許は、薄暗い教室でも分かる程に赤く腫れている?

「どうしたの、こんな時間に」

それはこっちの台詞だ。アイツの姿を見るためにって、いつもは終業の一時間後には必ず学校を出るようにしてたんじゃなかったの。
こんな時間になって誰かが教室に戻ってくるなんて思ってなかっただろう田中は、俺に見えないように首を捻って横を向いてから握ったハンカチで素早く顔を拭う。

「……忘れ物?」
「……うん」

何事も無いかのように振り向きながら、田中は口角を上げて見せた。全然笑顔になり切れてないその表情が、目を背けたくなるくらい痛々しい。田中の質問には正直に答えながら教室に足を踏み入れる。

「私もそろそろ帰らなきゃ」

俺の足は取りに来た忘れ物のある自分の机ではなく、俺と目を合わせず逃げるようにして椅子から立ち上がる田中へと向かった。俺の方をちらとも見ないから、そんな事に気付かない彼女に構わず、鞄の紐へと手を伸ばすその腕をそっと握った。
ほんの少し前まで、上手くいってたじゃん。ヤツと話した当日だって、気を張ってないとにまにましちゃうとか何とかって、アホみたいに浮かれてさ。それが、どうして。

「田中」

詰問したい気持ちを抑えて、出来るだけ優しい声音で名前を呼ぶ。それでも俯いたまま、じっと何かを堪えるように固まる田中。――不用意に突いたら、壊れそう。そんな予感があっても、このまま放っておいても同じか、それ以上に悪い事になりそうだなんていう勝手な確信のが勝って、もう一度彼女を読んだ。

「――田中」

声に乗せられなかった気持ちが、その分田中の腕を握る手に籠る。痛かったわけでは無いだろうけど、それで田中はひとつ身じろいで、漸く顔を上げた。乱れた前髪の下にある顔面は涙でぐしょぐしょで、きつく結ばれた唇は小刻みに震えている。昨日までの幸せいっぱいと言わんばかりだった笑顔からは想像できなかったその表情を見た瞬間、彼女をここまで追い詰めることの出来る唯一の男の顔が脳裏に浮かんだ。
彼女の、片恋相手。俺の大嫌いなアイツが、田中に何をしたのか。その具体的な内容は分からないけど、今目の前にある結果をアイツがもたらしたという可能性を思い浮かべただけで憤りが血液に乗って全身を巡る。けど、それよりも。今にも叫び出しそうな別の感情が俺の身体を支配した。

掴んだ田中の腕と、反対の肩をそっと押して、彼女の背を教室の壁へと押し付ける。そのまま覆い被さるようにして、田中の頭上に突いた手の肘を折り曲げた。田中に俺の身体が触れないよう密着してしまわないよう最低限の距離を空けても体格差のお陰で、田中は俺と壁の間にすっぽりと収まった。

「ねえ、田中」

泣いて、泣き腫らして、失恋を受け入れてしまう前に。彼女の痛みが、悲しみが、今のものであるうちに。

「俺のこと、使ってよ」

本当は、壊れるくらいに抱きしめたい。抱き締めて、愛を囁いて、田中の気持ちを根こそぎ攫ってしまいたい。だけど悔しい事に、そんなこと出来るわけないのはオレが1番よく知っていた。──彼女の淡い恋を、俺は誰よりも近くで見てきたから。
困惑で身を固くする田中に俺の気持ちを告げないのは、そんな直向きな彼女に対しての優しさか狡さか。

「田中が望むなら、俺が慰めてあげるから」

その場限りの繋ぎでも、偽りの関係でも構わないなんて、俺はすっかり田中に毒されてしまったらしい。ましてや彼女の片恋相手が俺の大嫌いな牛島若利だなんて、嫌悪と嫉妬でおかしくなりそうだ。けど、壊れそうな田中を繋ぎ止めるために、可哀想な俺の気持ちを欠片でも満たすために。博愛を掲げて、その奥に俺の下心を仕舞って。差し出した手を、俺から伸ばすことは決してしない。無償の優しさだと勘違いで彼女がこの手に縋りつけば、俺はそれだけで満足できる。

さあ、田中。俺の手をとって、堕ちて見せてよ。