順縁

 私の青春は、私だけのものではなかった。
 悟や硝子、先輩、後輩、先生に両親や新しい家族――。多くの人との関わりが、今の私を形成する要素として何一つ欠かせないのもになっている。その中でも彼女――田中眞喜の存在は特異だと思う。
 私の選んできた道に、彼女は何一つ干渉していない。例えば彼女と私が出会わなかったとして、例えば彼女が私の本音を知っていたとして、例えば彼女が呪術師だったとして――。私と彼女の関係が今と如何に違うものだったとしても、その"例えばの私"が他の道を選ぶという可能性は皆無だろう。
 悟と出会っていなければ、仲間を喪っていなければ、私が非術師だったら。今となっては興味すらないが、そういった"他の可能性"を思い浮かべた時、彼女はその"かもしれない因子"には当て嵌まらないのだ。
 だというのに――。
 偶然だ。一仕事終えて止む無く街の雑踏をひとり歩いていた平日の夕暮れ。車道を挟んだ向かいの歩道に、彼女の姿を見た。
 ――田中眞喜。少女らしさは今や無く、少しくたびれたスーツに身を包んだ成長した見目形。最後に会った時から何年も経つ。それでも一目見て彼女だと判り、それこそ呪われたかのように目が離せなくなった。昔は殆ど見る事の無かった大人しい表情で俯き気味に歩く彼女を目で追いながら、脳裏には彼女との三年間が駆け巡る。欠片も忘れた事は無い。それでも道を決めてからは思い出すことの無かった彼女との日々が、蓋を開けた途端洪水の様に押し寄せた。
 やがて彼女は閑静な住宅街に辿り着いた。いくつか立ち並ぶ小綺麗なアパートの内、一番背の低い建物に入っていく。エレベーターは備えられていないらしく、彼女は階段を使って上階を目指した。
 後をつけたのは完全に無意識のことだった。彼女が入って行ったドアの前に立ち、漸く思考が働き始める。
 ここまで来て、私は何がしたかった? 非術師である彼女と相対して、私がとるべき行動などひとつしかない。――倒錯している。その自覚はあれど、その私とは切り離されて尚はっきりと伏在する自我が私の身体を動かした。
 私の学生時代の関係者として、窓が監視している程度だろうが多少なりともマークされているだろう。しかしそんな懸念も思考を掠めるだけで、動きを止めるには至らない。呪霊を扱うことに最早冷静さなどは必要ないらしく、息をするように低級呪霊を操ってドアの施錠を解除した。
 冷たく重い玄関は少しの金属音を立てながら見た目に反してスムーズに開いた。まるで我が家に帰宅したかのように堂々と屋内へ入り込む。小綺麗な運動靴が一足隅に揃えて置かれている敲きの中央にはパンプスが無造作に転がっており、それを大股に跨いで土足のままフローリングへ上がった。玄関も、その続きの台所もよく整頓されている。かといって普段使われていないわけではないようで、彼女がここの暮らしにすっかり慣れているのだろうということが伺えた。
 会話の音は聞こえない。生活の音も聞こえない。静かな台所を突っ切り、正面の、おそらくリビングに続くであろう扉のノブに手をかける。ここまで来たら躊躇いは無かった。古い知人の家を訪ねるように、少しだけ丁寧に、けれど遠慮無く扉を開け放った。
 一人で暮らすには手狭に感じない広さの極一般的なワンルーム。調度品は華美にならない程度に可愛らしいデザインで揃えられ、部屋全体の印象も彼女の感性で統一さていた。
 独りでに開いた扉を振り返る彼女は侵入者の姿を視認して、脱いだばかりだろうカーディガンを取り落とす。
 数年ぶりの彼女との対面。彼女と、彼女との日々を含むすべてと別たれた道を選んで進んできた。その間も彼女に焦がれたことが無いわけではない。彼女との思い出に魘された日もある。それでもこの再会に、感動はない。唯々、絶望と私の内を掻き毟る感傷だけがあった。 重力に従って彼女の足元で弛むカーディガンは、血の色に滲んだ。同じく赤に塗れた彼女の足下には赤黒い液体が満ちていて、それは彼女の背後から滔々と流れ出している。――彼女の背後の、呪霊から。
 兎の頭をしたその呪霊は彼女の背丈より随分と大きく、頭を垂下し背を屈め、ようやっと部屋に納まっているという感じだ。腐り落ちた腹からは臓物が零れ出し、止めどなく血が滴り落ちている。彼女の目が大きく開かれるのと同時に引っ掻き傷だらけの兎の瞼が持ち上がり、黒々とした瞳が私を捉えた。
 ――悟のような眼を持っていなくとも、彼女をよく知る人間であればその愛憎渦巻く瞳を見ただけで、目の前の呪いが誰を想って、何を思って募らせたものなのか理解できるだろう。数年の空白が、その考えは思い上がりではないかと私を嘲笑う。しかし、
「――傑」
 震える唇で、呼吸を忘れたかのようにようやっと絞り出された声で名を呼ばれれば、その考えこそ間違いだったと思い知る。
「眞喜」
 口をついて出た言葉の温度は、学生時代と何も変わらなかった。彼女の名前を呼んでしまえばそれまでの齟齬や柵など、すべてが消え去ってしまう。赴くまま彼女へと歩み寄る。蹴り上げられた血飛沫がボトムスに、彼女の脛に飛び散ろうが構わなかった。
 成人しても尚小さな体を強く抱き込む。迷うこと無く背中に回される両腕は、あの頃より少しだけ頼りない。
「ごめん……ごめんね、傑――」
 嗚咽混じりに繰り返される意味の無い謝罪。それでもそれを口にせざるを得ない事への懺悔も、彼女は涙とともに垂れ流す。
「君が謝ることじゃない」
 紛れもない本心だった。彼女と私の間には、いつだって駆け引きや化かし合いは存在しなかった。
 私を想い、理不尽を嘆き、世の中を恨み、それでも人の社会を生きる自分を呪って。澱のように溜まり渦巻く人知れない彼女の呪いは、寄り添うように頭を垂れて彼女へとすり寄る。血の海の中、私たちは時間を忘れて重なっていた。
「夢みたい」
 肩の震えが納まった頃、漸く彼女と私の間に距離ができた。溢れる涙を拭うこともなく、細められた目で彼女は私を見つめた。
 夢でも幻でもない。私と眞喜が出会ったのは、紛れもなく現実だ。だからこそ、私は選んだ自分の本音に従わなくてはならない。
 もう一度、強く彼女を抱き寄せる。紛うことなく非術師である彼女の身体は、私の腕でも容易く貫けた。彼女の臓腑は温かく、赤黒い呪霊の血の海に、鮮明な赤が滴り落ちた。
 腕を引き抜くと同時に崩れ落ちる彼女の身体を抱き留めて、私は床に膝をつく。彼女の顔に焦点を合わせると、彼女は変わらず私の目を見つめていた。
「……傑」
 物わかりのいい彼女は、驚愕の色も怨嗟の音も声には乗せない。
 彼女の命と意識を同時に絶つ手段など、私にはいくらでもあった筈だ。それでも態々自らの手で彼女の腹を貫き、目の前の呪霊に関せず彼女を受け止めた。そうさせたのは、私の中に未だ居座る未練なのか。
 先の彼女のように、結果を伴わない謝罪を口にすることも彼女の名を呼ぶことも憚られた。無意味に彼女の生を延ばしても、かけられる言葉の一つも持ち合わせていない。そんな矛盾に溢れた私の頬を、彼女の手のひらが緩慢な動きで優しく撫ぜる。
「……できるなら、傑と一緒に生きたかった」
 けど、と彼女の唇が貌どる。音にならないその言葉の先は手に取るように伝わった。この惨状を何より肯定的に捉えているのは彼女自身に他ならない。
 ――それが叶わない生涯なら。
 それは懺悔でも諦観でもない。彼女にとって望みうる唯一の光と呼ぶべき一縷の希望。
「さいごに、傑に逢えた。……それだけで、じゅうぶん」
 途切れ途切れに掠れた声で紡がれる。他者からすればこの上なく歪な彼女の純心は疑いようもなく本心だった。
 呪霊の体が端から少しずつ千切れ、灰のように霧散していく。自身の死に恐怖があるのか、産みの親がこの世を去ることが悲しいのか。私の頭上からぱたぱたと落ちてきた大粒の涙は彼女の蟀谷を通り、血の海に斑文を作った。
 私の頬から滑り落ちそうになる彼女の右手を慌てて掬い取る。固く把持したまま再び私の頬に宛がった。感情に支配されれば今にも彼女の手を握りつぶしてしまいそうで、震える程にそれを堪えているというのに。彼女は昔と変わらず、うんと幸せそうに笑って躊躇うこと無くその言葉を紡いだ。
「だいすき」
 たった三年間だ。今まで生きてきた中で、彼女と過ごした時間はたった三年。それでも、その間に何度も繰り返し聞いた言葉。その言葉を貰って、私はいつもこう返す。
「――私もだよ」
 安心したように頬を緩める彼女を見ると、私も満たされて離れがたくなった。夢ではない。けれど夢のようなこのどうしようもない現実の中で、私と彼女の気持ちは同じだった。
 この世界では、どんなに尊いものであろうとやがて羈絆へと姿を歪める。それでも、彼女との日々は間違いなく多祥に彩られていた。そうして確かに存在した幸福は今、私の腕の中で息絶えようとしている。最期に、私の姿をその瞳に映して。
 やがて呪霊は形を無くし、血の海と共に残穢すらも消え去った。彼女の瞼が震えて、ゆっくりと虹彩を隠していく。彼女が完全に瞳を閉じるその前に、唇を重ねた。
 彼女との最後のキスは血の味がした。それは、彼女と出逢ってから初めての事だった。

 某日、とあるアパートの一室で血溜まりに寝そべる女性の遺体が発見された。しかしその事実が新聞に載ることもニュースで報道されることもない。彼女の死を悼む遺族にすら一部始終は知らされなかった。
 ただ、事の顛末を事実通りに予想する男は思う。あったかもしれない無数の結末。そのどれを迎えたとしても、この結末以上に彼女が望むものはないのだろうと。せめて、来世では。墓の前で手を合わせて、男はらしくもない祈りに笑いを零した。