逆縁

 最期に言い残したこと。その言葉の後、付け足すように傑の口から零れたのは都内の某住所だった。直前の言いあぐねるようなその表情から、ヤツの中で深い逡巡や葛藤があったことは想像に難くない。その住所が何を示しているのか。僕が把握しているのは傑も判っていたようで、端的な言葉選びでものを言う。
「彼女の様子を、君に見て欲しい」

 単身者向けの小綺麗なアパートが建ち並ぶ閑静な住宅街。傑が口にした住所は、その中でも一番背の低い建物だった。一人暮らしの女性も多く、治安もそこそこ。彼女の職場からの距離も加味した上で硝子と二人で薦めた物件。階段を一段飛ばしで上り、彼女の住む階へ。何度か訪れたことのある部屋の前に立ち、いつもと変わらない動きでインターフォンを押し込んだ。安っぽいベルが短く鳴る。
 この場所は窓も監視しているし、硝子や俺自身も彼女とは外で何度か会っている。直近で彼女と会ったときも特に変わった様子は無かったはずだ。それでも傑は最後。その命の終わる前に、彼女の名前を口にしたのだ。彼女に会いたいと言うわけでも、彼女に自身のことを伝えて欲しいと言うわけでもなく、ただ俺に、彼女の様子を見て欲しいと。
 何があるか分からない。意識せずとも尖る神経を鎮めるでもなく、その扉が開かれるのをじっと待つ。
「――五条くん……?」
 少しの金属音を立てて僅かに開かれた隙間から、田中が顔を覗かせた。俺が「や」と手を上げてみせると、一度扉は閉められてガチャガチャと賑やかな音がした後すぐさま開け放たれる。
「久しぶり。珍しいね、連絡なしに来るなんて」
 姿を見せた田中は、俺の知る田中眞喜そのものだった。学生の頃より少し痩せたような気はするが健康的で、相変わらずその笑顔に腹汚さは欠片もない。六眼で見たところでただの一般人。傑は一体彼女の何を俺に見せたかったのか。どうせ彼女に傑の話はするつもりだったし、部屋に上がらせて貰おう。
「積もる話があるんだ。……なるべくなら、第三者に聞かれたくないような」
 足りないような言葉でも田中は察しの悪い奴じゃない。田中は少しだけ顎を引いて、開いたままの玄関を左手で抑えた。
「おじゃましまーす」
 隅に置かれたスニーカーはあまり使っていないらしく、玄関に踏み出した田中の足は明らかに仕事用のパンプスに突っ込まれている。適当に靴を脱いで遠慮無く上がらせて貰った。
 初めて踏み込んだ女性の部屋をまじまじと見るのは不躾だ。そんな傑の叱責が聞こえたような気もするが、視線は屋内を駆け巡る。
 玄関と続きの台所は綺麗に整頓されていて、その上で生活感が伺えた。家電や食器なんかの趣味は統一されていて且つ量がそんなに多くないところを見るに、本当に今彼氏はいないらしい。青春時代の不完全燃焼に終わった恋ってこんなに尾を引くもんなのか。乙骨を思い出し、僕の知らない“純愛”という言葉が脳裏を過った。
 部屋に上がったままボサッと突っ立っている僕を追い越し、田中が突き当たりのドアを潜る。
「あんまり片付いてないけど……とりあえず座ってて」
 一人で暮らすには手狭に感じない広さの極一般的なワンルーム。促されるままその生活空間に足を踏み入れる。そして、彼女のそれは“純愛”なんて可愛らしく尊いものではないのだと初めて気付いた。
 彼女と俺の足元には赤黒い液体が満ちていて、振り返る田中の足がぱしゃりと水面を蹴る。――育ちきった彼女の呪いは、静かにその背後に佇んでいた。兎の頭をした呪霊は彼女の背丈より随分と大きく、頭を擡げ背を屈め、ようやっと部屋に納まっているという風体。腐り落ちた腹からは臓物が零れ出し、止めどなく血が滴り落ちている。引っ掻き傷だらけの兎の瞼は閉じられたままで、田中に寄り添うようにただ息をしているだけだ。
 第三者にかけられたものでも、どこかから彼女に憑いてきたものでもない。俺の六眼が、全ての偶発性を悉く否定する。
 この部屋で発生し、その残穢すらも外に出ることはなく。内に留まり、澱のように積もり、只存在している。その性質は田中眞喜の気持ちそのもの。人を傷つけることを嫌い、人が傷つくことを嫌い、そんな世界に身を置いている大切な人間に何もしてやれない自分を嫌い。傑への愛故に生まれ時間をかけて歪んでしまった、そんな心。
 傑は、知っていたのだろうか。――いや、知っていたとしたら、田中は生きていない。アイツの選んだ道はどれだけ愛する者を前にしても変えられるようなものじゃない。もしかすると傑は田中と交際していた時、自身が彼女から離れることを決めたときからこの現状を予期していたのかもしれない。傑のことだから寧ろ、そんな田中の矛盾や不安定なところも好いと感じていたのかも。……なんて、親友とその元カノの間にあった感情を分析するキショい俺に、田中は心配そうに呼びかける。
「五条くん、話って……?」
 どうやら俺は余程神妙な顔をしていたらしい。俺の様相から、彼女は傑のことではないかと不安げに瞳を揺らしていた。
 果たして、言葉を選ぶべきか。――いや。選ぼうが選ばまいが、田中に告げる内容に変わりは無い。であれば、俺の性に合わない方を選択することもないか。
「――傑が死んだ。……俺が殺した」
 ただ事実を述べるだけの言葉で告げる。田中は少しだけ目を見開いて、蚊の鳴くような声で「そっか」とだけ呟いた。彼女の内面に呼応するように、田中の背後の呪霊は降ろされた瞼の下から涙を流す。大粒の雫は真っ直ぐ床に落ち、黒々とした血の海を滲ませた。
 田中は知っていた。呪術師のことも、傑が特級呪詛師と呼ばれる存在になったことも。界隈の慣習や倫理を押して、俺の独断で知らせた。全てを詳らかにしたわけではないが、彼女は知る権利があると、知っておくべきだと思った。だからこそ積もりに積もった彼女の愛が、これで幕を引くとは思えない。
 束の間、呪霊は口から血を吐きながら、嘆きとも憤りとも取れない鳴き声を上げる。不格好な声は酷く耳触りで、聞くに堪えず顔を顰めた。口と腹から止め処なく溢れ出す血液は閉ざされた空間を満たし、瞬く間に水位を上げていく。ずっと床に伏していた呪霊の両腕が持ち上がり、田中を包むように水中を掻き進んだ。
 ――なあ、田中。俺はこれでもお前の事を買ってたし、俺なりに大切にしたいと思ってたんだぜ。なんせあの傑が何よりも大切にしたいと思ってた女なんだ。失うものに比べれば得るものなんて無いに等しいこの世界で、お前と居るときは、アイツの心は確かに穏やかだった。そんなことが出来る人間は、何処を探してもお前の他に居ないんだろう。
 お前が傑の為の気持ちに殺されるなんて、あっていい筈が無い。だから、お前以外の誰に受け入れられることはない選択を、俺はお前に差し伸べる。
「“こっち”に来いよ、田中眞喜」
 死ぬよりも辛い現実だ。それでもアイツの負った呪いの中で生きられるなら、お前にとったら死よりも選ぶべき価値があるじゃないか。
 呪霊の腕が鈍重な動きを止め、血飛沫が田中の腹まで赤に染めた。今日初めて田中は顔を歪ませ、唇を戦慄かせる。
「――そんなの、どうやって」
 サングラスを外して素顔を晒し、田中の言葉に答えないまま手を翳した。力加減は慎重に、田中の呪いに向かって術式を発動する。留まり、その想いを膨張させながらもただ存在するだけのそれを、無下限を使って圧縮していく。肉も骨格も存在する。それが押し砕かれ磨り潰されようとも声も上げずにされるがまま、兎頭の呪霊はやがて手のひらで握り込めるくらいの大きさになった。思った通り、その形を無理矢理変えられようと性質は不変。寧ろサイズが小さくなった分濃縮された気配を放っている。
 何が起こったか分からない、けれど俺が何かしたことだけは分かる田中は、緩く丸められた俺の手を不思議そうに眺めた。呪霊とも呪物とも取れないそれを田中の鼻先に突きつける。
「これは賭けだ。これでお前は死ぬかもしれないし、何も変わらないかもしれない。けど、もしかしたらお前は呪力を得てこっちの世界に足を踏み入れることができるように成るかもしれない」
 すべてが可能性でしかない、賭けと呼ぶにも値しない妄動だ。
「後始末は俺がしてやる。納得できるならこれを飲めばいい」
 知覚も出来ず本来なら得体も知れない筈のそれに躊躇いなんかひとつも無い。田中は二つ返事で口を開き、自身から生み出された呪いを受け入れる意思を示した。それを軽挙だと諭し、愚行だと罵るなんて誰にできるだろうか。血肉と呪いの塊を田中の小さな口に押し込んで、そのまま手のひらで口を塞いだ。傑はいつも平然と呪霊を口から取り込んでいたけど、感情の澱に味があるとしたら碌なもんじゃないに決まってる。例え自ら望んだことだとしても、生理的な拒絶があるもんだと思った。けど、田中眞喜は苦しげに涙を滲ませはしたものの、うめき声ひとつ上げずにそれを飲み下した。
 喉の動きが止まり、非力な手が顔を鷲掴む俺の腕をぺしぺしと叩く。
「――悪い」
「っはあ、」
 解放された口で深呼吸を繰り返す田中。一度体外で具現化しはしたが田中ひとりの感情から生まれた、言うなれば純度百パーの呪霊だ。生まれた場所に帰るという矛盾に目を瞑りさえすれば適正自体は悪くないはず。拒否反応で呪いに取り込まれるか、自身の感情を上手く飼い慣らすことが出来るか。田中が主導権を握れるかという点に於いてはふたつにひとつ。こればっかりは経過を見ないとどう出るか想像もつかない。このまま明らかな変調が無ければ高専にでも連れ帰って硝子に様子を見て貰おう。
 そう思案しながら田中を眺めていると、彼女の胃に達した呪霊の塊がじわじわと溶けて田中の身体に馴染んでいく様が伺えた。……ここからどうなるか。そう思ったのも束の間、水位の下がりつつある血の海に膝から崩れ落ちる田中。飛沫を上げて床に倒れ伏す彼女の身体を膝をついて慌てて引き上げる。
「田中!」
 水を飲んではいないようだがすっかり意識を飛ばしてしまっている田中の名前を反射で呼んだ。そうして初めて気が付いた。血に塗れた田中の姿が、学生時代のそれになってることに。

 田中を密かに高専まで連れ込んで丸一日。彼女は未だ意識を取り戻していない。
「物理的、肉体的ダメージは見られず。綺麗なものだよ。……彼女の実年齢を考慮しなければね」
 その日の用事を全て終わらせて田中を預けていた硝子の元を訪ねると、僕の独断に対する小言は昨日で全て言い切ったらしく硝子は素直に田中の状態を教えてくれた。ベッドの上で横たわる田中の表情は穏やかだ。その様はただ眠っているだけに見えて、術着の全身像を見れば死体のようにも見えた。
「こんなケースは初めてだ」
 半ば言い捨てるように机の上に田中のカルテを放った硝子。そりゃそうだ。傑のように術式の関与なしで呪霊を取り込むなんて、普通あり得ない。そうなればそれは“呪肉体”と分類される。
 田中が飲み込んだ呪霊は呪力となって全身に馴染んでいて、それでも彼女は呪霊や呪肉体とは違うように見えた。ただの人間と言ってしまうとそれも嘘だけど。一体彼女は何になってしまったのか。それを差し置いても、彼女の意識は果たして田中眞喜のものなのか。妄動の結果は未だ判然としない。
 壁際に備えられた椅子に深く腰掛け長い足を放り出す。これからどうするべきか、どうすることができるか。最悪このまま田中が目を覚まさなかったとする。僕のせいで。そうすると、彼女は傑を想うが故の彼女自身の感情に殺されたのではなく、僕の身勝手な提案に殺された事実が結果となる。正直なところ、傑の最期を知った彼女が彼女の呪いに殺されるより随分マシな結果になったと思う。が、それもマイナス無量大数からマイナス不可思議になった程度のお話だ。――彼女はオマエじゃないと救えない。僕に出来ることなんて、こんな些細な抵抗くらいのもんなんだよ。
「あー……」
 こんなネガティブ思考に取り憑かれるなんて、らしくない。天井を大きく仰いで頭を抱えた。そんな僕を見て見ぬ振りして硝子がコーヒーを啜る音がする。僕にも一杯入れてくれよ。そう言おうと手を下ろしたその時。
「――っくしゅん!」
 耳慣れない、けれど懐かしい少女の声。重心を椅子の背もたれから話した僕と、驚きに固まる硝子の視線が一所で交差した。さっきまでウダウダと女々しいことばかり言っていた執行が途端に鳴りを潜める。その間にも田中は術着から伸びる腕をさすりながら起き上がり、ゆっくりと部屋の中を見回した。
 瞬間、田中の幼い瞳が僕を捉える。不安げに下がっていた眉が緩やかに上向きの曲線を描き、その見覚えのある表情を見て僕の脳みそも漸く呼吸を再開したみたいだった。
「身体の調子は?」
 開口一番の僕の質問に、田中は自身の身体を眺めたり拳を開閉したり肩を回したりしてみる。
「悪い感じはしないけど……なんか、違和感が……」
 不思議そうに両手を眺める田中。第三者からすれば火を見るより明らかなその違和感の原因も、当人では気づきづらいらしい。すかさず硝子がどこからともなく鏡を取り出して田中を映した。
 自身の顔を見て、姿を見て。田中は結果として自身に何が残されたのかを知る。おおよそ人の領域に居てはあり得ないその変貌を、田中はどう受け止めるのだろう。
「あ……」
 目を見開いて、確かめるように自身の顔を両手で包む。
「アンチエイジング……!」
 戸惑いでも悔恨でもなく、飛び出したのは冗談のような一言だった。鏡を支える硝子も一瞬目を丸くした後、離れていた眉根を近づける。おふざけに対して向けられるその表情は硝子にしては珍しい。恐らく硝子も僕と同じような感想を持ったんだろう。やっぱりこの娘はどうにかしてしまったのだな、と。けれどその空気を田中も感じ取ったらしく、固まったポーズのまま上目遣いに硝子を見つめた。
「ごめん……冗談です」
 無言の硝子に圧し負けて、田中はすごすごと両手を下ろす。事の深刻さがわからないからこそせめて周りの人間が暗くならないように。そうやって気を回すのは、彼女が学生時代から持ち合わせている美徳だな。
「まったく……。時と場合を選びなよ」
「……はい」
 なんだかんだでテンパって空回りに終わるところも、彼女の精神強度が人並みのようでかえって安心が芽生える。大きな溜息を吐き出して呆れを隠そうともしないくせに声音こそ柔らかいのは、硝子も同じような気持ちみたいだ。
 空気の緩和も成ったというのに、恥ずかしげに自身の顔を手のひらで扇ぐ田中。何度か深呼吸を繰り返して閉じていた瞼を開き、最後に鼻で息を吸った。
「それで、五条くん」
 気丈に吐き出された声は不安げに震えている。
「私は、何になったの?」
 それでも膝に置かれた手は握られることもなく、眼差しは揺らめきながらもしっかりと僕を見据える。ここで嘘を吐けるほど、僕は田中に対して憐れみを持っているわけでも、自身の行動に対して無責任というわけでもなかった。
「正確なところは僕にも判らない」
 一言で簡潔に伝えられた事実が彼女に浸透しきる前に、その続きを口にする。
「田中の中には呪力が巡っているし、術式が刻まれている。それは確かだ。ただ、一般の術師とも呪霊とも、受肉体違うように見える」
 僕の目にはね。目隠しをずらして田中と目を合わせてみせると、
彼女はゆらゆらと視線を泳がせた。
「それはつまり……? 私はここに居てもいいの?」
 僕の言葉を咀嚼し終わった田中は回り道をしないことを決めたらしい。僕らが打った賭けは、果たして相応の見返りがあったのか。田中が求める『傑が歩んだ道を見ることのできる場所』へ行くための最低条件は満たせたのか。その問いに対する答えは何ら難しいもんじゃない。
「それは僕がどうとでもするよ」
 話の合間に自身の椅子へと戻っていた硝子は聞きに徹する姿勢で煙草を取り出し火をつける。
 笑えるくらいに単純な話だ。乙骨と状況は全く違うけど、持っている者にスタート地点を与えるなんて僕にとってなんてことない。寧ろ田中に手を差し伸べた時点でそれは僕の義務としてカウントしている。問題があるとしたら、その後のことだ。
「田中にはこれから、高専に入学して貰うことになる。そうしたら呪術師の世界をこれでもかってくらい体験できるよ」
 傑が見てきた世界。特級であった傑とは任務の質も経験する呪いの陰惨さもまるで段違いだろうけど、渦巻く怨嗟と狂気を飼い慣らすことができなければ、多くの術師たちがそうなったように、田中もやがては潰れてしまうだろう。――そうなったらそうなったで、彼女は満足しそうではあるが。
 とにかく、この世界に居座るためには呪力量や術式以上に必要とされる適性がある。それは人に口出しされてどうこうできるようなものでもないし、人の助勢を受けたからって解決するようなことでもない。果たして田中にどの程度の素質があるのか問題ではあるが、彼女の今ここに至る経緯を思えば推して知るべしってトコなんだろう。
「さて」
 話はこれくらいにして。僕が両の手のひらを叩き合わせた音に田中は唇を引き結ぶ。ここで雁首揃えて未来の不安を馳せたって、情報がこれ以上増えるわけでも収束するわけでもない。田中のこれからに『知らなかった』を減らすためにも善は急げだ。
「僕はこれから学長に話をつけてくるよ」
 恐らく、というか十中八九。話は学内にとどまらずまだ無駄に拗れるだろうけど、そこは僕の実力と話術と権力でなんとかしよう。上手く話がまとまれば田中は寮に住むことができるだろうけど、それまでは仮の住居が必要だ。極々一般的な行住坐臥に外れなかった田中が元のアパートに戻るの大いにリスキーだし。
「とりあえず今日は硝子の家にでも泊まらせてもらいなよ」
 よっこらせと立ち上がり硝子を振り返る。椅子に背中を預けて二本目の煙草を指先で弄ぶ硝子は「お前が勝手に話を進めるな」と足を組み直した。そして続けて「モチロン良いよ」と田中に笑顔を向ける。前後の脈絡が矛盾してるように聞こえたのは僕だけか? 田中の容姿につられているのか、僕も硝子もノリが少しだけ学生の頃に引っ張られているみたいだった。
 けれど、あの頃の僕たちにこんな未来を想像できた筈もない。傑はもう居なくて、一番蚊帳の外だった田中がここに居て。
「それじゃあ田中。これからよろしく」
 大股五歩で田中の隣に立つ。彼女の目の前に差し出した手は微塵も躊躇うことなく握られる。
「うん、よろしく」
 ――こうして、仲間として田中と手を取り合うことになるなんて。
 もしも傑がここに居たら、田中に道を与えた僕を咎めるだろうな。それで田中の気持ちを尊重しながらもその現実に懲りもせず苦しんで。けど、そうなったら。僕には助けられなかったお前も、少しは救われるんじゃないのか。
 今は消え失せた――いや、初めから用意されていなかった道に思いを馳せながら、地獄のように険しいだろう未来に目を向ける。田中にとっての希望がそのさきにもあれば良いと、無根拠な期待を心の隅に把持した。