微熱に浮かされて

普段より倍近く乗車人数の多いバスから慣れない足取りで降り立つ。待ち合わせ場所である、夕方という時間帯にも関わらずサラリーマンやOLではない人々が跋扈する商店街の入り口近くに向かうがそこに待ち人はおらず、通行人の邪魔にならないよう通路の端に寄って自分の身体を見渡した。何年振りかに押し入れから引っ張り出したこの着衣。まさか成人を過ぎてからこれを着る機会があるとは。数年着ていなかったにも関わらずそれほどサイズによる不自由は感じず、思ったよりもおかしくはない……筈だ。普段全くする事のない服装だけにやっぱり少しだけ緊張してしまう。それを隠し切れないまま落ち着きなくその場に佇んでいると、待ち人は5分もしないうちに現れた。

「お待たせして申し訳ありません」
「ジェイド――!」

声の掛けられた方に顔を向けると、そこには私と同じく浴衣を着て珍しく柔和な笑みを浮かべるジェイドがいた。「全然待ってないよ」と言いながら彼の姿を凝視する。始めてみる彼の和服姿。いつもは流しているその髪も緩く一つに纏められていて、きちんと正しく着つけているのに漂う色気がこれまた眩しい。

「おや。そんなに見つめられると照れてしまいます」
「似合いすぎでしょ……」

少しの悔しさを織り交ぜてそう低く呟けば、ジェイドはいつもの調子で

「貴女こそ、かわいらしいですよ。普段とは異なる衣装というのも新鮮味があって魅力が倍増です」

と言ってのける。日常会話での茶化しやからかいを口にする時と同じトーンだというのに、それでも照れてしまうのはいつもと違うシチュエーションで浮かれているという事にしておきたい。「はいはい」と軽くあしらって今日の目的である商店街の入り口に向かい、二人揃って歩き出した。


本日土曜日。時刻は黄昏。市内最大の商店街ではこの季節、『土曜夜市』というものを行っている。主に商店街に軒を連ねる店々が商店街のアーケードに沿って出店を開いて夏ならではの商品を売ったり催し物を披露したりするのだ。年に数回、夏の間だけの風物詩に、お祭りという訳ではないのに浴衣や甚平を着ている人も少なくない。
商店街の入り口に立って見渡すと、友人グループだったり恋人だったり家族連れだったり、商店街に対する一年間の興味がこの夜市の間だけに集中しているのではという程の人だかりだった。正直計算外である。この人混みの中に踏み出すのかと少し躊躇していると、不意に右手を取られてハッとする。私の隣で私の右手を握るジェイドがにこりと笑って口を開いた。

「このところ忙しかったですから、偶には恋人然としてみましょう」

そう言って私の手を引くジェイドに強く頷いて見せる。はぐれないように手を繋いだまま、私たちは人混みに飛び込んだ。

かき氷や冷凍フルーツ、きゅうりの一本漬けといった夏向け商品から唐揚げやフランクフルトといった出店の定番商品、雑貨やアクセサリーといったものまでもが所狭しと並べられている。見ているだけでも楽しいが、本音を言うと花より団子。コンビニやスーパーで買うよりもこういった屋台や出店で買い食いする方が美味しいと感じるのはまだ若いという証拠なのだろうか。わたしがあれこれと目移りする度に手を繋いだジェイドも同じく足を止めてくれる。そうやって時々二人で買い食いをしながら歩みを進め、短くはないが長くもない商店街の反対側の入り口までたどり着くと、お腹だけでく満足感もいっぱいになっていた。

来た時と同じように通行人の邪魔にならないよう二人してアーケードの隅に寄る。履き慣れない下駄で疲れた足を遊ばせながら溜息交じりに呟いた。

「やっぱり慣れない事するとちょっと疲れるね」

そう言いながら、この人混み、シチュエーション、慣れない衣服の三拍子を一ミリも苦としていない様子のジェイドに苦笑いを浮かべて見せる。畳んだ扇子を帯に差し直した彼は「そうですね」と平然とした顔で同意の言葉を口にした。

……正直なところ、彼に一緒に夜市に行かないかと提案したときは断られるかと思っていた。特に目的もなくただ歩いて、その時の気分で目に留まったもの手にしたり……そういうノリの大きい身のないデートに乗ってくれるとは思っていなかったのだ。実際に来てみると終始私に合わせて行動してくれるし。……贅沢な話だけれど、こんなに予想外のことばかりになると少しだけ不安になったりもしてきてしまう訳で。視線をジェイドの顔へと忍ばせながら、本音を少し、忍ばせてみる。

「実は、出店見ながらぶらつくだけっていうのに、ジェイドが付き合ってくれるとは思わなかった」

あまり低い声になり過ぎないように気を付けながら言い、ジェイドの様子を盗み見た。するとジェイドはわざとらしく肩を竦めて笑って見せる。

「おや。これでも恋人の希望はできるだけ叶えたいと常日頃から思っているのですが」

そして心外だとでも言うように今度は真面目な顔をして

「私は貴女と一緒に過ごせるだけで楽しいんですよ。それ程までに好いているんです」

と、聞いている方が恥ずかしくなるような台詞を言い切った。私に対しての好意は素直に示してくることを、私はこの人ととの短くない付き合いの中で知っていて。先程まで根拠の全くない不安に駆られていたのは一体何だったんだろうと思いながら、そんな彼の言葉に私も素直に気持ちを返さずどうすると、赤面覚悟で口を開く。

「……私も、今日はずっとジェイドと手を繋いでられたし、嬉しかった……かな」

口ごもりながらの告白になってしまった。耳まで熱いのはきっと季節のせいという事にしたいし、なんなら人が多いせいという事にもしたい。そのまま言葉を終わらせると、ジェイドはここに来る前と同じように私の手を取り、つられて顔をその先に向けると、彼は人目も憚らずに私の手の甲に唇を寄せた。触れた瞬間、カッと熱を持つ私の手。私の手を握る彼の手はいつもなら低い体温で私の熱を冷ましてくれる筈なのに、今日に限って同じ温度で、二人の境目を曖昧にする。

「――では、今日はもう少し触れ合うとしましょう」

そう言って口元に笑みを湛えるジェイドと、その夜どこまで触れ合ったかは想像にお任せすることにした。