没最終話



八咫樗とのいざこざでユキが怪我をして、早数ヶ月が経っていた。療養の為、実家である一ホームへと帰っていったユキ。気付いた時にはもぬけの殻だったベッドの温もりは今でも忘れていない。


先輩である田中トムや、可愛い後輩のヴァローナとの仕事にも慣れ、休憩中に立ち寄った神社にマイルやクルリ、そして茜が現れる風景がすっかり日常となった10月の頃。吸い終わったタバコの吸い殻を携帯灰皿に放り込み、ひとつ伸びをする。じゃれ合う女子たちを遠目に見ながら深呼吸すると、街中に花を咲かせるキンモクセイの香りが鼻腔をくすぐった。

――いつか、ユキと買い物に出かけた日を思い出す。香水売り場でユキが好きだと言ったオードトワレ。微かに甘く爽やかなその香りは、少し恥ずかしげにはにかみながら自分の好みを打ち明ける彼女に良く合っていた。

この街でどれだけの事件が起きようと、自分を取り巻く環境が変化しようと、彼女との日々はいつも記憶の真ん中にある。ユキが街を去った直後はその短い思い出に乱される事もあったが、それも直ぐに落ち着いた。――しかし、今はこの街を漂う香りに、再び胸の奥がざわめく。目を閉じて肺をキンモクセイの香りで満たすと走馬灯のように浮かび上がる彼女との日々。たった数週間で彼女がくれたものはいくつあっただろう。それを思い返しながら、同時に自分も彼女に何かを渡せていたなら嬉しいと思う。

次に仕事の休みを取ることができたら彼女に会いに行こう。ユキとの思い出を回想し終えてそう心に決める。彼女の居場所はきっと新羅が知っているだろうから聞き出して――。

「静雄、アレ」

唐突なトムの声に、自身を包み込んでいたように漂っていたキンモクセイの香りが霧散する。瞬時に引っ張り上げられた意識と共に瞼を持ち上げる。――どうしたんスか、トムさん。その言葉を発する前に、開いた目にそれが映った。以前と変わらない出で立ちで、神社の鳥居を潜るその姿。小さく華奢で、それでも尚辛い現実に立ち向かった少女。照れた様に浮かべるその笑顔に以前のような影はなく、彼女の名前を呼ぶ前に自然と体が動き両手が伸びる。壊さないように、潰さないように細心の注意を払って抱きしめた。

「会いたかった――ユキ」

ユキと離れてからの間、彼女について感じていた事すべてをこの言葉に込める。雪乃の身長に合わせて丸められた背中にそっと手を伸ばし、雪乃も言う。ずっと、ずっと静雄に言いたかったこの言葉を。

「――ただいま、静雄」


TOP