春。新入生が入部して、グラウンドはさらに活気づいていた。
奥村をはじめとする1年生たちが一生懸命練習する姿は、どこか初々しくて、見ているこちらまで背筋が伸びる。
マネージャーも新しく数名加わり、部内の雰囲気はどこか慌ただしくなった。
(……少し、変わったな)
そんな環境の変化の中で、なまえはふと自分の立ち位置を意識してしまう。
御幸はキャプテンとして誰よりも忙しく、堂々とした背中を見せるようになった。
それなのに、自分は彼の隣にいていいのだろうか——。
「御幸先輩と別れてください。野球の邪魔になってますよ」
同じ学校の女子から、そんな言葉を投げかけられたのだ。
笑って受け流そうとしたのに、心臓の奥深くに冷たい水を流し込まれたみたいに、どうしても消えない。
御幸は、誰よりも野球に真剣な人。
キャプテンになった今はなおさら、自分なんかが支えになれているのか、不安になる。
むしろ足を引っ張っているんじゃないか……そんな考えが頭を離れなかった。
ベンチからグラウンドを見つめる。
御幸の声が響く。後輩に指示を飛ばし、笑いながら場を回し、仲間の信頼を背中で受け止めている。
眩しくて、誇らしくて、同時に胸がぎゅっと痛くなる。
(あんなに遠い人になっちゃったみたいだ……)
グラウンドに立つ彼と、自分との距離。
その差に足がすくむような思いで、なまえはただ黙ってスコアを書き続けた。
昼休み、校舎裏。
なまえは偶然、同じクラスの男子に呼び止められた。
「……みょうじ、少しだけいい?」
差し出された声はどこか真剣で、逃げられない雰囲気を纏っていた。
「俺、みょうじが好きなんだ。ずっと見てた。
他の子に『御幸先輩と別れてください』って言われてたのも見た。……あんなの、酷いよ。
俺が助けるから、もう無理しなくていいよ」
優しい響きを持つ言葉。
でもそれは、なまえの心を温めるよりも、かえって冷たく締め付けた。
彼の顔をまっすぐ見て、なまえは小さく首を振った。
「ごめんなさい。……私、好きな人がいるの。……私がそばにいたいって思う人は、一人だけだから」
男子の表情が崩れる。
諦めきれない色を残したまま、それでも彼は無言で背を向けて去っていった。
残されたなまえは、深く息を吐き出す。
言葉に偽りはなかった。御幸への想いは揺るがない。
けれど、心の奥にはどうしても消えない不安が重く沈んでいた。
(……私なんかが、いていいのかな)
俯いたその瞳を、誰も見ていない——そう思っていた。
しかし、校舎の影で腕を組んで立っていた御幸は、その一部始終を黙って見ていたのだった。
その後、なまえは何事もなかったようにマネージャー業に戻る。
ベンチでスコアをつける姿、ボールを数える姿。
仲間にはいつもと同じ笑顔を向けていたが、その横顔はどこか曇っていて——御幸は気づかぬふりをすることができなかった。
御幸は、なまえの背中越しにさっきのやり取りを思い出していた。
——誰に言われたか、だいたい勘づいている。
けれど、責めたり問い詰めたりするつもりはない。なまえの気持ちを不必要に傷つけたくないからだ。
ならばやることは一つ。
練習が終わり、グラウンドに響くボールの音も消えた頃。
御幸はユニフォームの袖を少しまくりながら、ふとなまえの姿を探した。
彼女はまだ片付けをしていて、肩を少し落としている。
——やっぱり、今日も俺のこと、気にしてるな。
御幸は息を整え、静かに足を踏み出す。
「なまえ」
呼ぶ声には、少しだけ疲れと甘さが混ざっていた。
振り向いた彼女の瞳を見て、胸がぎゅっと締め付けられる。
「……一也くん」
小さな声に、御幸はほっと微笑む。
そして誰にも邪魔されないよう、そっと手を伸ばす。
⸻
「お前のことは、絶対に俺だけのものにする」
背中越しにそっと手を絡め、なまえの小さな反応を逃さない。
「……一也くん?」
振り向いたなまえの瞳に映るのは、真剣そのものの瞳。
「誰が何を言おうと関係ない。俺はお前を守る。俺の隣にいるのは、お前だけだ」
そのままそっと抱き寄せ、額に唇を落とす。
「大丈夫だ……安心しろ」
なまえは力なく頷き、御幸に身を預ける。
不安も嫉妬も、全部溶けてしまうような甘さ。
「……お前、そんな顔してたのかよ」
肩にそっと手を添え、指先で頬を撫でる御幸。
「俺以外に触らせねえ」
思わず顔が真っ赤になるなまえ。
御幸はそのまま唇を重ね、チュッと軽く甘くキスする。
その甘い感触に、なまえの身体は小さく震えた。
低く甘い声が耳元に響く。
「……もう俺の隣から離れるな」
「うん……」
頷くなまえの心は、御幸だけを見つめることでいっぱいになる。
校舎裏の二人だけの世界で、時間はゆっくりと、甘く溶けていった。