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『異世界に……行きたい……』

居酒屋の中、真壁香織こと私は疲れ切った声でそう言った。
正面に座るお姫様のような愛らしさを持つ親友かつオタ友の天堂侑子は、そんな私を見て呆れたような声で私の名前を呼んだ。

「あのねェ、アンタ残業入れ過ぎなのよ。もっとちゃんと休みなさい」
『だって……まさかこんなに公式が供給してくるとは思わなかったんだよォ』
「嗚呼、円盤にキーホルダーに……。ワタシとアンタが推し被りしなかったから協力して集められるけど、正直全部一人で集めるとなると大金が飛ぶのよねェ」

溜息を吐きながらストローをくるくると回す侑子。
グラスの中に浮かぶ氷がカランと軽やかな音を鳴らす。

「ワタシも出来るなら文ストの世界に行って、この眼で中原中也が屈辱歪む顔をしているところを見てみたいわァ」
『今日もまた歪んだ愛情を注いでるねェ……。でも確かにモブにでもなって、みんなの私生活とか見てみたいよね』
「そうそう、別に関わりが無くてもいいから見守っていたいのよねェ。っていうか、こんな平和極まりないような生活しかしてないワタシたちなんかが、ポートマフィアや武装探偵社なんか入ったところで足引っ張るだけに決まってるもの」
『それだわ』

真顔でそう語る侑子に私は瞬時に同意する。
私たちが語っている文ストというものは、正式名称を文豪ストレイドッグスといい、名高い文豪たちが異能力という特殊能力を駆使して戦うバトル漫画だ。
ちなみに侑子の推しである中原中也という人物は、森鴎外を筆頭にしたポートマフィアの幹部である。
私の推しの一人でもある芥川龍之介もそこに属している。

『まあ私の一番の推しは与謝野晶子さんだからね、ワンチャン会話ぐらいなら狙えそう』
「与謝野さんならワンチャンあるわね。イケるイケる」
『ホントもう与謝野さん無理……尊い』

私はそういうと、落ち着きを取り戻す為に一度グラスに入った酒を飲んだ。
冷たい酒が火照った体を流れる感覚に意識が正常化していく。
そもそも、今日は溜まりに溜まった会社への愚痴を聞いてもらうが為に集まったはずだ。
しかし恐ろしいことに、オタクというものは同志が集まるや否や二次元の嫁の話しをし始めるのだから実に困った生き物である。
とはいえ、そういう会話で日々の疲れを癒しているのも事実なので、私は早々に会社の愚痴を遠い空彼方へと追いやった。
人間誰しも楽しいことが好きなのだ。

『でもさァ、本当にトリップしたら侑子ならどうするよ?』
中也との間に既成事実を作って結婚
『キミの容姿ならワンチャン有りそうで怖いからそれはやめて!』
「ふふふ、冗談よ」

実に笑えない冗談である。
思わず引き攣ったような笑いを浮かべていれば、「で、アンタはどうなのよォ」と問われる。

『私?私はそうだなァ……、まず敦くんにお茶漬けを奢りたい』
「嗚呼、彼の好物だったわね」
『それから、咳の酷いやつがれちゃんには大丈夫ですか?って言いながらのど飴渡したい』
「僕ちゃん……あっ、芥川ね」
『で、最後に与謝野さんと買い物がしたい』
「最後だけえらく普通ね。っというよりも芥川の件に至っては完全に行動がおばちゃんじゃない」
『私はっ!のど飴おばちゃんになりたい……っ!』
「いや、ならなくていいわよ」

バッサリと言い切った侑子に私はハハハと笑った。
それからも私たちのオタクトークは途絶えることなく続き、帰路に着いた頃には既に時計の針は次の日を告げていた。
帰宅した私はのんびりと入浴を楽しんでから自室のベッドへと倒れ込む。
それにしても今日は本当に楽しかった。
明日が休日でなかったらこんな時間まで話してはいなかっただろう。
そう考えていると、アルコールが回って来たのかはたまた疲れからなのか少しづつ瞼が重く感じ始める。
明日は撮り溜めていたアニメを消化しょう。
そう思うと私はその睡魔に抗うことなくゆっくりと目を閉じたのだった。


Prologue 少女は微笑みを浮かべて

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