青き路抜ける、花ざかりの森

「まだ来週になっていませんが?」
「あはは。呼ばれてるみたいだよ、おねえさん」
 ひくひくと口角を引き攣らせながら、「そうですね。では」と会釈して世良の元から立ち去るなまえの背中には「いってらっしゃーい」と呑気な声がかけられた。
 店内に流れている流行りの曲と、色とりどりの電光と、様々な背の高さの人々の隙間を縫って、なまえは自分を呼んでいたであろう少年たちの元へ辿り着く。
「すまんのう」
「いいえ。とんでもございません。こちらこそ、お待たせしてしまってすみません」
 恰幅のよい男性の謝罪に両手を振り、なまえは周囲の状況を確認した。柔らかそうな腹部の男性と一緒に子供が五人──眼鏡をかけている男の子とフサエブランドの鞄を持っている女の子は、退屈そうにしている。残りの三人──からりと日焼けしている男の子、そばかすをほころばせる男の子、カチューシャが似合う女の子の目は目の前のクレーンゲームに釘付けだった。
 なまえは子供たちと目の高さをあわせるようにしゃがみ込み、へらりと笑った。
「ぬいぐるみが引っ掛かっちゃったんですね。今、お渡しします」
「お、お渡し!? いいんですか? あのイルカのぬいぐるみ、落ちきってはないみたいですが……」
「いいじゃねえか、光彦。ねーちゃんが、くれるって言ってるんだしさ」
「元太くん。ズルしちゃダメ! おねえさん、歩美たち、あのイルカさんをね、とりたかったんだけど……」
 次々にあがる声に、なまえは頷きを返し、パンツのポケットからクレーンゲームのキーを取り出しながら言った。
「はい。サメさんが大きすぎて穴に詰まっちゃったんですね。大丈夫。当店では、落とし口の上に落ちた景品は、ゲット判定なんです。おにいちゃんも、おねえちゃんも、とってもクレーンゲームが上手なんだね。ふふ。イルカさんのこと、檻から助けてみますので、ちょっと待っててくれるかな?」
 瞬間、ぱあっと明るくなって「はーい!」と元気よく返事をした三つの幼い顔に「ありがとうございます」と言ってなまえは立ち上がる。腰元のポーチから一番大きい景品袋を取り出すことも忘れずに。
 隣のブースに人がいないことと、クレーンゲームの回数が残っていないことを確認してから、なまえはクレーンゲームの中央の小窓にシリンダーにキーを差し込んだ。小窓を開けば、クレーンゲームの液晶画面が店員向けのものに切り替わる。次に、小窓のシリンダーからキーを抜いて、まさにサメのぬいぐるみが引っ掛かっているガラス戸のシリンダーへと鍵を差し込んで開錠した。研修のときに聞いた話では、別店舗で勢いよく開け放たれた際にこのガラス戸が割れる事故があったという。こんなに分厚いのに、と思いながら指紋がつかないようにガラス戸を開けたなまえは、ようやくイルカのぬいぐるみを抱きかかえた。
 ふわふわと手触りがよい。これなら子供たちも喜んでくれるだろう。
「お待たせしました。はい、どうぞ。仲良くしてあげてね」
 再びなまえがしゃがみ込んで、イルカのぬいぐるみを子供たちに差し出すと感嘆の声があがった。
「灰原さん! どうぞ!」
 そばかすの子供の言葉に反応したのは、フサエブランドの鞄を持つ子供だった。間違いない、今季の新作だ。新色の淡いラベンダーカラーを羨ましく思いつつ、その感情が顔に出ないようになまえは笑顔でいることに勤しむ。
「え? 私……?」
「そうだよ! 歩美たち、哀ちゃんのために頑張ったんだから!」
「お! すげえぜ、灰原! このイルカ、ふわっふわっだ」
「ちょっと元太くん! 灰原さんがおねえさんから受け取らないと!」
 大人びた表情で狼狽えているフサエブランドの鞄を持つ子供になまえも笑いかけると、今まで傍観していた眼鏡の子供もその背中を押した。
「だってよ。灰原、受け取ってやれよ」
 ウェーブがかった髪を耳にかけながら、なまえの元へやってきた子供は「ありがとう」とはにかんで、イルカのぬいぐるみを受け取った。
「ふふ。袋も、どうぞ。素敵なバッグですね。そっちのお洒落なカチューシャのおねえちゃんが首に巻いてるのは、仮面ヤイバーのスカーフかな?」
「なんだ、ねえちゃん! ヤイバーが好きなのか?」
 日焼けした子供の質問に「はい」と頷いて、「仮面ヤイバー!」となまえが決めポーズを見せれば、子供たちはイルカのぬいぐるみを手渡したときよりも興奮を露わにする。
 スーパーのアルバイトを辞め、ゲームセンターで働きはじめてからというもの、人気の景品はその作品をわかっていた方が客とのやり取りがスムーズだということに気付いたなまえは少しずつ勉強をしていた。仮面ヤイバーも、そのうちの一つだった。
「ヤイバーの景品も、向こうにたくさんありますよ。見にいってみますか?」
「本当ですか!」
「やったー!」
 喜ぶ子供たちの後ろで、付き添いであろう恰幅のよい男性の顔が僅かに曇ったことに気付いたなまえは心中で謝罪をして、クレーンゲームの液晶画面を操作した。景品が落とし口の下まで落下しなかったときには、手動で景品が落ちたことを登録しないといけないからだった。
「それじゃあ、行きましょう。みなさん、忘れ物はないですかー?」
 新しいぬいぐるみをクレーンゲームの背面から出してガラス戸を閉めながら、なまえは子供たちの方を振り返る。横断歩道を渡るときのように片手を大きくあげて返事をする三人に頷いて、後ろ手で小窓のキーも閉めた。
「こちらです。人が多いから、気をつけてくださいね」
 この店では、クレーンゲームの中身を毎週八割は変更しないといけないらしい。設定だけ変えるものもあるが、ほとんどが景品の中身ごと他の台へ移動させる必要がある。週末に向けて、平日中にレイアウト変更がされるから、木曜日と金曜日にシフトに入っていないなまえにとって、土曜日の出勤直後は緊張の時間だった。
 子供向けのブースに向かいながら、出勤前に一巡したときにはヤイバーはここにあったはずと目星をつけていた台を遠目から見定める。思惑どおり、赤いスカーフと特徴的なヘルメットが見えたから、なまえはこっそり胸を撫で下ろした。
「お待たせしました。さあ、ヤイバーがたくさんですよ!」
「よっしゃー!」
「すごい! 歩美、これ初めて見るー!」
 クレーンゲームの台に近付き、きゃいきゃいと盛り上がりはじめた子供たちの様子を眺めつつ、なまえは恰幅のよい男性の隣へと移動して「また困ったことがございましたら、お気軽にお声がけくださいね」と声をかけた。
「ぬいぐるみのクレーンゲームも、毎回呼んでいただいてかまいませんから」
 リップサービスというよりは、週末の賑わっているゲームセンターに子供五人を引率している大人への労いと、余分なお金を落とさないようにしてほしいという思いからの忠告だった。
「博士! これ! これやろうぜ!」
「歩美はこっちがいいー!」
「みてください! これもかっこいいですよ!」
 ひょこひょことクレーンゲームの隙間から三人の子供たちが顔を覗かせる。
「す、すぐに呼ぶことになりそうじゃ……」
「そうみたい、ですね。ふふ。また会えることを楽しみにしています。二人も、またね」
 イルカのぬいぐるみを抱えた子供はなまえの言葉に「ええ」と小さく頷き、眼鏡をかけた子供はなまえの顔を不思議な面持ちで見ていた。まるで、自分の知っている人が不可解な態度をとっているところを目の当たりにしたようなその表情になまえは気付いたものの、拾い上げることはしなかった。
 既に、自分を呼ぶ他の客の声をその耳で捉えていたからだ。それに、何故か店にいた世良は、自分に会いにきたのだろうから、客の対応をしながら合間を見て声をかけにいきたい。
『ボク、仲良くなれたと思ってたのになあ。そうでもなさそうな反応だね』
『いきなりバイト先に来られたんだから、そりゃ、そうでしょ……。新しいバイト先、教えたのは私ですけど』
 世良と昼食を共にした日、結局、世良がなまえの元バイト先のスーパーに足繁く通っていた理由は判明しなかった。
 もう連絡先を交換したし、来週また一緒に昼休みを過ごす約束だってある。なまえ自身に用があったとしても、世良がわざわざなまえの新しいバイト先に訪れる必要はないのだ。
 ──仲良くなれたと思ってた、はこっちの台詞だっての。
 あの日購買のメニューについてやり取りをした後、なまえのメッセージアプリに世良からのメッセージは一つも届いていない。なまえから連絡するような用件もなかったけれど、次に世良へメッセージを送るときは、ちゃんと絵文字をつけようと思っていたのに。



240429


少女文学/星影