君と星に堕ちる


あの人はいつもキスをする時、唇の端にしかしない。


何か意味があるのか、それともないのか。考えてもよく分からない。ただ恥ずかしいだけなのかもしれない。それは有り得る。流れに任せて私からキスをする時、少しだけ顔が横にズレたので、私も彼のように口の端にキスをした。

こんなことをしていると、この人を私は一方的に好きなだけで、実は向こうは何も思ってないのかもしれない、なんて思うこともある。
すぐ「嘘ですよ」なんて意地悪ににっこり笑って言う彼だから、本質はよく掴めない。


◇◆◇



半袖パーカーに短パン。いわゆるダル着でベッドにダイブした。枕に顔を暫く沈ませてから、ゆっくり仰向けになる。

「おわったー……」

気の抜けた声が部屋に鈍く響いた。時間は午後23時。家に帰るなり、シャワーを浴びて、仕事用のスーツをハンガーにかけて着替えるだけで精一杯だった。昼も夜も食べてはいないが、ご飯を食べる気はしない。テレビやスマホは見る気にもなれやしない。今はとにかく眠いのだ。帰宅してからさっきまで付けていたアロマキャンドルの匂いが心地良かった。


年に数回来る繁忙期。いつもより朝早く出勤し、いつもより夜遅くまで残業。今回は特に途中でひとりの子が体調を崩してしまったため、いつもよりも多く駆け回った気がする。それに半休の日も結局会社で資料探しに、スライド作り、書類整理に、他企業への連絡をしたため、実質ここ半月以上の間休みはなかったに等しい。
そんな繁忙期もひと段落つき、明日から2連休だ。久しぶりのちゃんとした休み。明日は何をしようかと眠い頭で考える。まずは彼に連絡しよう。向こうも仕事が忙しいらしく全く会えてないし、連絡もあまりとっていない。あとは買い物行かないと冷蔵庫にほとんど食材が入っていなかったなあ。で、掃除して、撮り溜めたドラマと映画見て、読書して……、なんて考えているうちには眠気がピークになった。


「おつかれ、私……」

うつら、うつら。疲れの峠はとうに過ぎ去って、どうにか精神だけで帰宅したたお陰かある意味良い睡眠が出来そうである。夜の海は始まったばかりだ。沈みまくって明日は昼前くらいに起きれたらいいだろう。そんなことを考えているうちには、思考は暗闇に落ちる。


ピンポーン

「__……」

ピンポーン


「インターホン……なってる?」

思考は完全に微睡みに溶けていた。インターホンが鳴っていることに気づくのに少し遅れる。こんな時間に一体誰だろう。ベッドから抜け出し、スリッパを履くことなくぺたぺたとフローリングを歩く。この前カーペットを取ったから冷たいなあ。まだ早かったか、と後悔した。その間にもインターホンは押され続ける。

「…はーい」

誰が来たのかの確認はすることなく、眠い目を擦りながらロックを外し扉を開ける。寝ぼけた目で誰かを確認しようとした時には、ギュッとその誰かに抱きしめられていた。あ、この匂い。安心する。

「こんばんは、幻太郎」
「……ええ」

生憎顔は確認できなかったが匂いで誰かは分かる。聞き慣れたその声を久しぶりに耳に入れてから、ドアが開いたままだということに気づく。くいっと彼の服の袖を引っ張れば、そっと離れてくれた。

「お仕事は?確か来週締め切りじゃ…」
「もう終わらせました」
「おおー」

あー、眠い。幻太郎が来てくれたのは嬉しいがタイミングが悪い。頭は回っていないがどうにか会話をする。慣れたように玄関からリビングに歩いていった幻太郎の後ろを歩く。お茶、準備しなきゃ。あー、お湯沸かしたっけ?沸かしてないような気がする。

「ふあ……」
「飲み物はいらない」
「……そう?」

小さく欠伸をしながらキッチンに向かおうとすれば止められた。コロコロと話し方が変わることには慣れたが、今の言い方と声がかっこいい。ひえ、オラオラ系の時の幻太郎も良いよね。うんうん。疲れすぎている思考はもう勝手にあっちこっちにグラグラ揺れている。

ベッドに座った幻太郎の横に座る。久しぶりの感覚につい抱きついてしまった。いつもならしないが今回は許してくれ。

「おや、小生がいなくて寂しかったですか?」
「今日はどうしたの?」
「名前聞いてます?」
「んー、幻太郎だぁ」
「はあ」

会話が噛み合ってないことすら全く気づいていない。半分聞いていて聞いていないようなものだ。だって頭の半分は完全に寝ている。

「幻太郎」
「はい」
「幻太郎寂しかったの?」
「……」
「え?寂しかったって?」
「こら、何も言ってないでしょう」
「あう」

顔を上げてそう言えば、額をツンと指で弾かれ変な声が出た。が、気にしない。

「幻太郎、寂しかったよー」
「おやおや、小生も、…です」
「え?私がいなくて死にそうだったって?」
「…だからそこまで言ってないでしょう。何が聞こえてるんです?」

完全に眠気に負けており、若干夢の中の幻太郎と会話している。略して夢野幻太郎だ。……駄目だ、眠すぎる。


「んー」
「はあ。早く仕事を終わらせて会いに来たというのに、名前は俺よりも睡眠が大事なんだな」
「おー、オラオラ系…」
「だから聞いて…__っ…」
「……げんたろ」
「いきなりしないでください」
「ん?え?」

あー、私多分キスしたな。今。いつものように口の端にね。少しだけ浮上した意識で今の状況を思い出す。いきなりのことで驚いてる幻太郎にふっと笑ってしまう。ムッとした顔がこちらをじっと見ている。

「ごめん、寝惚けてた」

へらり、笑う。彼は、一旦力なく抱きついていた私の体を離した。そして足の上に私を乗せる。気がついたらそんな体勢になっていて少し驚いた。向かい合わせでぼんやり顔を見つめる。が、照れ臭くなったのか抱き締められた。

「寂しかったです」
「うん」

あー、彼も疲れてるんだな。今回は結構大ボリュームの小説を書くと言っていた。その割には締切も早かったのにさっきもう終わらせたと言っていたし。
いつもは聞かない言葉に、そんなことを推測する。

「会いたかった」
「私も」
「まあ嘘ですけど」
「私も」
「……」
「……ん?」

うんうん頷いて、その胸にぐりぐり頭を押し付けていたが停止する。あ、流れで言っちゃった。あはは。通常運転じゃないせいで、照れていつものように「嘘です」発言をする幻太郎の言葉にも頷いてしまった。ぱちぱち目を瞬かせる。……眠いなあ。

「名前」
「なに?」

幻太郎の体がベッドに倒れる。抱き締められたままの私の体も一緒に倒れていく。ポスン、なんて音はしなかったが、少しベッドが弾んだ。幻太郎の上に乗ったままだ。重いだろうし退こう。そう思って動こうとするが、体は動かない。

「一緒に住みませんか?」
「ん?」

彼の胸から頭を上げてその顔を見る。少し拘束が緩まったので、彼の顔の位置より少し下くらいまで自分の顔の位置を持っていく。

一緒に?住む?誰が?私?

頭には疑問符だらけだ。突然の言葉に感情は何も追いつかない。頭を懸命に動かし、首を傾げ、ゆっくり言葉を飲み込んだ。

「駄目ですか?」
「幻太郎は寂しいの」
「……」
「そっかあ、寂しいのか」
「だから言ってません」
「あうっ。……それやめて」

また額を弾かれた。思わず目を瞑る。そのまま彼の横に体を倒した。ポスン、ベッドが弾む。うう、意外と痛かった。さっきより痛かった。その意を込めて、隣にいる彼をジトッと見る。私の様子を面白そうに見た彼の顔が近づいてきた。

「…っ」

キスだ。今まで口の端にしかされなかったはずのソレ。なのに今日に限ってされたのは唇だ。驚いて目を見開く。離れていった彼の顔はしたり顔で、その顔がとても綺麗で心臓の音がドクンドクン聞こえる。待って、不意打ち無理。顔が熱くて仕方ない。

「で、どうするんです?」

……何の話だっけ?ぼんやりとした思考は相変わらずだ。何なら次に目を瞑ったら眠れる。

「いいよ」

軽率に返事をする。別に悪い話じゃなかったはずだ。いいよ、って言うつもりの話だったはずだ。ゆっくりその体にまた近づいて胸の辺りに顔を埋めた。そして目を瞑る。ごめん、限界。


「……__」
「おや、眠ってしまいましたか」

はあ、と幻太郎が困ったような顔をしていたことなんか知らない。


◇◆◇



「ひえ、幻太郎だ。何でいるの?」
「おや、何でとは心外な」

目を開けてその顔があったらびっくりする。え?いつ来たの?昨日?今日?……あれ、でも幻太郎に合鍵渡しそびれたんだよな。じゃあどうやって入ってきたの?

「昨日のこと覚えてます?」
「昨日……昨日……ああ!」

そういえば寝る寸前で尋ねてきたかも。それで、それで……?と首を傾げていればため息を疲れた。

「そんな簡単に忘れられるなんて麻呂悲しい」
「ご、ごめんね!」

泣き真似を始めた幻太郎に困る。待ってよ、思い出すから。と頭を回転させる。

「えっと、幻太郎が来たから家に入れて、お茶はいらないって言われたんだっけ?それで…幻太郎が寂しいだの、会いたいだの言ってた?かな?」
「言ってません」
「ええ!言ってた!私の気のせい?」

ええ、言ってたような気がするんだけどなあ。おかしいなあ。

「寝惚けてただけでしょう。それで他は?」
「他は……__っ」
「?」
「な、なななんでもないです」
「顔が真っ赤ですよ?どうしたんです?」
「やめて、近づいてこないで。ちょ…」

唐突に思い出したソレに顔が真っ赤になる。ぬっと幻太郎が顔を近づけてきたのが更に追い討ちになる。思わず体を縮こまらせた。そんな私を見て更に言う。

「他には?」
「んー?」
「一緒に暮らしてくれるって言ったじゃないですか」
「え?ごめん、それは思い出せない」

急にスっと冷めた。いや、それは完全に分からない。多分八割がた意識ないし。そんな私の反応に急に悲しそうな表情を浮べる幻太郎。待って、その顔やめて。心臓がキュってなるから。

「えっと、良いよ!全然一緒に住む!」
「良いんですか?」
「寧ろ良いの?」
「ええ」

別に仕事が落ち着いてる時はほぼ半同棲生活になっていた訳だし嫌でもない。

「じゃあこれからもよろしく」
「ええ、よろしく」

ふっと笑った顔。あ、今油断してるなあ、って頭の片隅で考えながら唐突に出てきた悪戯心に身を任せる。ちゅ、とその唇にキスをすれば幻太郎の顔が真っ赤になった。

「あー、真っ赤だあ」
「なっ…」

口をパクパク。まるで鯉みたい。顔色はリンゴみたい。そもそも昨日私にしたんだから、別にやり返されても文句はないだろう。心の中でそう言いながら彼を見やる。

「ん?」
「…………」

光のない目がこちらを見ている。笑みもなければ、困り顔もない。無。真顔。まるで獲物を見つけたオオカミみたいな顔。その顔が瞬きした次の瞬間には、とっても綺麗な笑みに変わって、ぺろりと口を舌で舐めている。あれ?いつもと違うぞ……。


「げ、幻太郎…さん?」
「ふふ、なんです?」


あれ?何か変なスイッチ押しました?


◇◆◇◆◇
あまり強引だと嫌われると思って中々に奥手だった幻太郎氏(照れ屋)と、あれ?実は好かれてないんじゃ…となってた夢主が、仕事疲れで急に近づく話。

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