飽和した世界で窒息する


___何にも見えないからこそ怖いのだ。


「名前ってば、ほらこっち来て」

陽気な声が呼んでいる。立ち止まってそちらを見やれば、長身、銀髪、目をアイマスクのようなもので覆った、傍から見ればいかにも怪しい男がニコニコ笑っている。

「ほら、おいで」

そう言いながら彼、五条悟は自らこちらに歩み寄ってきた。手でも催促され、はあとため息をついて自分の足を彼へと向けて1歩踏み出し、近づこうとした。


「うわっ」

何にもないはずのそこで、"何かに引っかかる"。しかし、すぐに地面とキスするなんて無様な姿をこの人に晒す前に身体が支えられていた。上からケラケラ笑う声が降ってきた。

「相変わらずドジだねえ」
「……すいません」
「まあ"コイツら"のせいなんだけど」

彼の顔を見上げれば、彼は"何もない地面"を見ていた。彼が何かを呟くのを聞きながら、その地面を睨みつけるように見つめる訳だが、生憎この目にはただの何も無い地面しか映ってくれない。風が突然吹いて髪が揺れた。

「よし、もう祓ったから大丈夫だよー。いやあ、ちょっとイラッてしたから爆散させちゃった」
「ば、爆散……」
「名前にイタズラするのが悪いんだよ」

てへっとでも言うように、物騒なことを言う五条さんに冷や汗をかく。

「五条さん……」
「ほらそんな顔しないの。ちょっと用があるから着いてきて欲しいんだよね」
「は、はあ」
「なんか用事あった?」
「いえ、もう帰るだけです」

そっか、じゃあ悪いけど戻ろっか。

それに頷いてUターンすることになった。先ほど出たばかりの学校にまた戻る羽目になる。

恋人と歩くような近い距離で歩いているのが何だか気まずくて、少しだけ距離を取った。


「あ、名前。そこ歩くと"それ"踏むけど」
「っ…!!」
「はは、ほらこっち」
「ふ、踏みました?私、踏みました?」
「ううん、大丈夫。でも、あと1歩踏み出してたら踏んでたよ」

ぼんやり物思いにふけっていたら、そんなことを言われて自分の足に急ブレーキをかける。それから慌てふためきながら、何でもない普通の道を見やる。え?踏んだ?踏んでない?頭の中はパニックだ。ぶるっと肩を震わせながら、五条さんを見る。彼はニヤニヤしながら、私を引っ張った。折角距離を取ったのになあ。まあ、踏んでないらしいからよかった。

「今踏みそうになったやつさ」
「はい」
「あれにそっくりだったよ」
「あれ?」
「ゴキ……痛っ、何するのさ」
「……っ」

今絶対ゴキ___、Gのこと言おうとしてた。その名前を言わないでと言う代わりに五条さんの手の甲を軽くつねる。背が高くて口は防げないし、こうするしかなかったんです。私の前でそのおぞましい奴の名前を言わないで。

「良かったねえ、踏まなくて」
「そうですね。ありがとうございます」
「見えなくても触れる感覚はあるんだもんね?」
「そうですね」

そうだ。私には、彼らの見ている"それ"を見ることはできない。しかし、触れてしまう。簡単に傷つけられてしまう。見えない。何かある。視えない。痛い。何も無いはずなのにそれらは私にくっついてイタズラしてくるのだ。

「名前、見えないくせに寄せちゃうからねー。モテモテだね」
「あはは、全く嬉しくないんですけどね」
「まあ、全部祓うからいいよ」
「はあ……、ありがとうございます」


___ああ、怖いなあ


お礼を言いながら、そう心の中で言う。
私は私と違う世界を見ている彼らが怖い、
私に寄って集ってイタズラしていく奴らも怖い、
そして私自身がいちばん怖いのだ。



お母さんは見える人だった。

ふと、そんなことを思い出した。そしてそのまま幼い頃の記憶が頭をよぎる。

父は気弱だけどとても優しい人で、母もそんな父を尻に敷いてるけどそれでも優しい人だった。お母さんはたまに何もないところへ視線を投げることがある。お父さんは何も言わない。気弱だけど、そんな時はお母さんの背にそっと手を添えて居るだけだった。

お母さんは私にいくつものらお守りを持たせてくる。あれが効く。これが効く。それも良い、と。引いてるお父さんと兄を他所に私は至る所にお守りを持たされていた。

何もないところでよく転ぶ。急に突風が吹いたと思ったら身体中に切り傷ができる。何かに引っ張られて押さえつけられる。髪を引っ張られたり、気絶したり、何も無い道で何かにぶつかって先に進めなかったり、何もない道を歩いていると何か虫のようなものを踏んだ感覚になったり。

そんな奇妙な体験を沢山した。

家に帰れば、お母さんが「また沢山連れてきちゃったかー」とため息をつく。何も見えないから「気をつけてね」なんて無意味だ。「そっちはダメだ」なんて言われないと分からない。見えても怖いけど、見えないからこそ怖い。

歳を重ねれば、段々お守りだけじゃ効かなくなる。母いわく"よく効く"らしいお守りに変えて数日したら、ボロボロに解れてしまう。お祓いしたら、終わった途端にまたお祓いが必要な状態になって母と同じで見えてるらしい男の人は頭を押えてから遠い目をして悟り始める。そんなこともよくあった。


ある日、母は亡くなった。殺された。

私にその時の記憶はあまりない。隣に居たはずなのに。急に窓ガラスが割れた。それから、それから、"アレ"と目が合った。そして身体に痛みが走り、気絶する。

気がついたら、私は真っ白な病室に居た。母が亡くなったことを聞く。葬式の日程を聞く。父も兄も顔は真っ青通り越して真っ白で、笑えないのに笑い飛ばしたくなった。私は最低だった。実感がないのだ、記憶の中ではついさっきまで母とおしゃべりしていたのだから。


「呪術高専?」

見知らぬ男の人の言葉をぼんやり繰り返す。

「うーん、でも君は見えてないんだよね?どうしよっか。呪霊はこんなに寄せつけちゃうし、呪力も笑えないくらい凄いんだけど、見えないかあ……」

何やらブツブツ言ってる人の話を聞き流した。呑気な喋り方するな。それしか感想はない。

「まあいいや。物は試しだ。どう?」
「はあ、はい。……え、何がですか?」
「よし、行くか」
「え?」

話を聞き流してたせいで何も話の趣旨が分からなかった。「はい」と適当に相槌をうったせいで、了承と捉えてしまったらしい。慌てて声をかけるが彼は聞いておらず、何も分からないうちに話はトントン拍子に進み気がついたら、呪術高専に入学していた。ほぼ特例のようなものだった。何しろ見えないのだ。私も他の人も何で連れてきちゃったの?が本音である。本人は「僕が祓うから大丈夫ー」とか呑気に言っていた。

呪術高専での生活は本当に不思議なものだった。呪霊やら呪術やらといったものについては理解出来たが、肝心の"ソレ"が見えないのだからどうしようもない。1人だけ首を傾げているお陰でよく課外授業をした。「僕が合図したらそのまま呪力をドーンで名前の場合はある程度大丈夫そう」とか言われたが、よく分からなかった。

「ドーン、出来てました?」
「うーん、なんというか。さらに寄ってきたっていうか」
「え……?」
「まあ纏めてさよならすればいいかな」

その生活は本当に奇っ怪なものだった。「今日はすごいな」と同期に苦笑され祓われることもあるし、「あ、踏むぞー」と歩みを急に止められるし、本当に色々あった。任務は着いていけてもほとんど参加出来ないため、座学と課外、そして彼らのサポートについて色々学んだ。人手は万年足りてないので、任務をする方も必要だが、彼らの裏方である役目もある程度居ないと支障が出てしまう。その裏方の役を徹底的に教わった。そのお陰で卒業後はこの学校でそのまま彼らの補助やら、学校での事務作業、簡単な健康管理、連絡の中継、そんなことをする仕事をしている。どうせ、この体質じゃ普通の生活なんて出来やしない。お母さんのように、私のせいで誰かを殺してしまうかもしれないから。


過去に浸っていた意識がゆっくりと浮上する。ゆっくり上がってく途中、また"アレ"と目が合った。

__"アレ"は指をくわえて私を見ている。

__そしてニヤリとおぞましく笑ってから、私の身体を突き抜けて消えていく。

_オマエ ニゲレナイ

___ ハヤク 堕チロ



「名前!ちょっと!」

身体が揺さぶられてた。何だっけ?私、何してたっけ?何か呼ばれてる。誰に?分かんない、目を開いてもぼやけてて分かんない。あれ?

「……_____っ」
「…あれ?五条さん」
「良かった。引っ張られてたね」
「ん?」

何か唱えてるような声、知ってる声。次の瞬間には何かが弾けてその顔が見えた。いつもと違って彼の綺麗な素顔が見えた。まるで天使みたいな無垢な見た目をしている彼の空を映したような色の目が私を見つめていた。

「ごめんなさい。迷惑かけました」
「ううん、大丈夫だよ」
「はい。___ねえ、五条さん」
「うん?」
「笑い声がする」
「そう」
「"アレ"がニヤついてるよ。堕ちたくないなあ」

ぽつり、つぶやく。何も見えてないけど、それはケタケタ笑っている。最近偶に記憶が飛ぶんだよね。そういう時は決まって昔のことを思い出してて、それで最後に"アレ"と目が合うんだ。なんて心の中で言った。別に伝える必要はない。私はもう誰も巻き込みたくないのだ。例えサイキョーである五条さんだとしても。


「大丈夫だよ。大事な大事な名前をあげたりしないさ」
「あはは、告白ですか?」

大事な、なんて大袈裟な。どうせいつものお巫山戯だ。

「そうだと言ったら?」
「……からかわないでください」
「本気だって……」
「あー、はいはい。ほら行きますよ」

ずっと支えてくれていた彼から抜け出して、歩き始める。

「あ、名前」
「うわっ」

数歩歩いてまた何に躓いた。バランスが一瞬でぐちゃぐちゃになった世界で、私はたしかにそこに黒い霧のようなモヤモヤとした何かを目に映した。

「あっぶねー」
「す、すいません」

さっきのように支えられる。ぼんやりと足元を見た。そこは何もないただの地面だ。その何もない地面を五条さんが軽く蹴っている。空をきっているように見えるが、確かにそこに何かある。でも、私にはただの地面しか見えなかった。

「僕の大事な名前に手を出しちゃダメだよ」
「そのネタまだ続けるんですか?」


(絶対に"アレ"になんかくれてやらない)
(早く名前の中から出てこいよ)

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