そんな兄が生まれた時から側にいると、人に感情をぶつけないように、という友人曰く「常人にはできないこと」が無意識のうちにできるようになっていた。
まあ感情をぶつけないように、というよりは溜め込んで外に出せないという表現が適切だろうか。「嬉しい」も「悲しい」も「好き」も「嫌い」も何もかも上手く表現ができない無表情な人形のようになっていく私に、兄は何回も何回も「そこまでしなくても良い」と言っていたが、決して私は意識してそうしていた訳じゃないからどうしようもなかった。
しかし、時々私の蓄積された感情というものは爆発するらしい。
無意識に出さないように蓄積しているせいで、蓄積されたそれらが急に出てしまうと止める術が分からない。しかも別に兄のことを嫌だとかそんなこと思ってる訳でもないのに、良い感情も悪い感情も何もかもを刺してしまうらしい。兄が感受体質だからそれが分かるだけで、実際には周りにいる全ての人を多分刺してしまっているのだろう。
別にそんな気持ちをぶつけたい訳じゃないのに。そう思ってもこれを制御する術を知らない私は不定期に訪れるそれが酷く怖かった。
それで昔、兄を傷つけてしまったことがある。「気にすんな」と兄はあの日言っていたけど、きっと大丈夫なわけない。
「感情なんて消えてなくなればいいのに」
それがなくなったら本当にただの人形になることだって分かっているのに、普通になりきれない私はついその言葉を吐いてしまうのだ。
__こんなことなら、ただの人形の方がいいでしょ?
また"私"がそう言った。本物じゃない感情を顔に張りつけた私はゆっくりと目を閉じる。
「......はあ」
思わず出てしまったため息。それは更に私の気持ちを深く闇のように濃いところに沈めていく。
ぼんやりと空を見上げればもうオレンジ色が紺に飲まれかけている。誰もいないところを探した結果、訪れたボーダー本部の屋上は少しだけ肌寒かった。
ああ、もうこんな時間だ。早く家に帰らないと行けない。それは分かってる。
「.....」
__でも、今日はダメな日だ。
家に帰ると確実に先に帰った兄に沢山刺してしまうだろう。
それが分かりきっているから、私はここでただただ時間を潰している。自販機で「あったか〜い」の方のココアを買ったのに、それはまだひとくちも口をつけないうちにもう冷たく冷えきった状態で私の手の中におさまっていた。
自分の隣に置いていたスマホが光る。メッセージの通知だった。スマホを手繰り寄せてそれを見る。雅兄じゃなくて、その上の長男からのメッセージだ。内容は「まだ帰らねえの?暗くなる前に早く帰ってこいよ」というもので思わずため息をついた。
「帰りたくない.....」
ついにそれを口に出してしまう。でも早く帰らないと次は雅兄からメッセージ来るだろうな。容易に想像できるそれのせいで更に憂鬱だった。立ち上がるのさえ億劫だ。
前回の"これ"から時間が結構空いたせいで、ために溜めた色んな感情がふつふつと沸騰するように煮えたぎっている。それが何もかもに向けて溢れてしまっていた。
蛇口みたいに捻ったら止まればいいのに。
そう思うのにそう簡単に収まらない感情は、また私を
「名前ちゃん、どうしたの?」
「.....」
「体調悪い?」
「.....犬飼さん」
この時間ならほぼ誰も来ないだろうと思われた屋上で蹲っていたというのに、どうしてその声が聞こえるのだろう。私はゆっくりと顔を上げる。
さっきまでは少しだけオレンジが見えていた空はもうほぼ紺色だ。薄暗い空間に立つその人は私の目の前にやって来ると、顔を覗き込んでくる。私は数回ぱちぱちと瞬きをした。
___兄は彼が苦手らしい。
表情と中身の感情が一致してないとか何とか。そのことに「そうなんだ」とは思ったが、だからといって私は犬飼さんのことを苦手と思ったことはない。
私なんていつもはほぼ何も刺してこないのに、突発的に何もかもを刺してしまうのだ。どうみても気味が悪いのは私の方だろう。
ああ、本当に自分が嫌い。
溢れかえる感情の止め方も、出そうと思っても出てこない感情の出し方も分からない自分が大嫌い。みんなはどうやって"いつもを普通に"生きているのだろうか。それもよく分からなかった。
「なんで、ここが...?」
「さっき屋上の方に行ってるのを見たからね。まだいるかな?って見に来てみた」
ここちょっと寒くない?と彼は私の隣に座ると笑って言う。いつものようにニコニコと笑みを浮かべる彼を見ると少しだけ"'私のいつも"を取り戻せた気がして安心した。
「家、帰らないの?」
「.....帰れないんです」
「そっか」
「.....」
犬飼さんは決して私が家に帰れない理由を聞いてこなかった。数分の沈黙があって隣にいる彼は「ふう」と小さく息を吐く。多分あまり居心地が良くないんだろうなとか、屋上から出ていくタイミング逃したのかな?とか思考の隅で考える。
そういえば前回この状態になった時も犬飼さんが話し掛けてきたな。というか、最近彼と関わることが多い気がする。
そんなことをふと思ったが、それをすぐに思考の隅の隅に追いやってしまうくらい今の私の状態はよろしくない。
身体全体を巡るように渦巻く感情たちが煩くて、煩すぎて、今にもそれが飽和しそうで私は必死に口を噤むことしかできない。彼に何かを言って兄のように傷つけたらと思うと、ここをやり過ごす会話なんて何も思いつかなかった。
__いつもここまで酷くないのに。
1人になってしばらくじっとしていればすぐ収まるはずのこれが全然引いていかないのだ。寧ろ先程よりも強くなって行く気がして無意識のうちに身体が震えていた。
「_ん。.....ち...?.........___名前ちゃん!!」
「...__っ、え、あ、いぬか、い、さん?」
先ほどよりもずっと近くにいる犬飼さんが私の両肩にその手を置いて強く私の名前を呼んでいた。ようやく音が入ってきた耳でそれに気づいて、私は無意識に止めていた呼吸をまた始める。酸欠気味でぼんやりとする思考のまま目の前にいつの間にか膝立ちになっている犬飼さんを見つめる。その表情がいつもの飄々とした掴めない雰囲気とは全然違ってやけに真剣だ。「表情と中身の感情が一致してない」と兄が言う割に、その表情に色々なものが出ている気がして何だか"羨ましく"なった。
私が顔を上げてその名を呼んだことで、ほっとした犬飼さんの暖かい手が離れていくのに対して"嫌だ"という感情がふっと湧く。その手を追い掛けて掴めば大袈裟なくらいに肩を揺らした犬飼さんが視界に移り"何だか面白い"と思ってしまった。
「ちょ、名前ちゃん」
「.....あ、ごめんなさい」
おかしい。何時になく「感情」が制御できる。いつも絡まった糸のようにぐちゃぐちゃだった「それ」が、急に解れてそれぞれ1本の意味のなる糸になったような感覚が出来ていく。
「え、なんで泣いてるの?」
「えっ?あれ、本当だ」
何故か急に涙が目尻に浮かんできて、私も犬飼さんもギョッとする。いつも出てこないはずの感情がまた溢れてきて、どうしたらいいのか分からなくて、でも彼の手を離したくなくて、私はただポロポロとその涙を地面に叩きつけた。
「.....」
きっと犬飼さんは今困ってしまっている。どうしたらいいのか、何が起きているのか、きっと彼は分かっていない。だって、私ですらそれが分からないのだから。掴んだまま離せなくなった彼の腕を掴む手が震えている。
__離さないと。困らせたくない。.....嫌われたくない。
いつもの能面のような私はどこに消えたのだろう。先程まで意味もなく垂れ流されていた感情たちが、急に言うことを聞いて出てくるようになった気がして変な気分になった。
物心つく前は"普通だったらしい"私は、今日のこの日まで感情を上手く出せない、そして溢れだしたら止められない出来損ないだったはずなのに。
物心つく前、年齢相応にはそれなりに感情が分化していてくれたおかげで、他人の感情はそれなりに"理解すること"はできていたから、人の言動から色々なことを読み取るだけなら生活で困ったことはない。
物心がついて無表情、でも、時々感情を溢れさせてしまうダメな私は、兄を傷つける以外困ってはいなかったはずたのに。
何故かさっきの瞬間から、感情が伴うようになってしまった。
__これは犬飼さんのせい?それにしてもなんで?
感情がついてくると、それはそれで逆にどうしていいか分からない。泣くのを辞めないと、"恥ずかしい"。あとなんか"ムズムズする"。でもこの暖かい手を"離したくない"。
変な感情に私は困りきって犬飼さんを見つめる。犬飼さんも私が彼の腕を掴む手だとか、泣いてる私の顔だとかを困ったように、でも何故か少しだけ嬉しそうに見てくる。
「名前ちゃんのそんな顔初めて見た」
「私もこんな風になったの初めてです」
今まで「人形みたい」と沢山言われてきた。感情の出し方がわからない無表情の詰まらない"私"だったはずなのに。どうしてこんな風になったのだろう。
「へー、初めて」
「なんで急にニヤニヤしてるんですか?」
「いやー、名前ちゃんがおれ相手にそんな顔してくれてると思うと嬉しくて」
「嬉しい?」
「そりゃあ好きな子が.........あっ」
「好きな子?」
彼の言葉を繰り返して、そして思いがけない言葉が出てきて私は固まる。犬飼さんも「しまった」というようにこちらを見て、それから急に視線を逸らした。
「うわー.....」
「犬飼さん?」
今にも頭を抱えそうな表情を浮かべる犬飼さんを見て首を傾げる。ちょっと耳が赤い。熱でもあるのだろうか。あと、さっきの言葉はどういうことなのだろうか。
「犬飼さんは私のこと好きなんですか?」
「.....え、うん」
「私も好きだと思います」
「うん。.......え?」
私がそう言うと彼は勢いよくこちらへ視線を戻してきた。たしか友人が言ってた。ほわほわ、むずむずして、落ち着かなくて、ドキドキって心臓が鳴る感じがしたら「好き」だということを。今の私は何となくそうなってる気がして、私は彼にそう言ってしまったのだ。
するとぽかんとした彼は、10秒くらい固まると急に私に大接近してきた。それにギョッとして彼の腕から手を離す。すると次の瞬間には抱きしめられていたのだ。
__え?.....ええっ!?
私の中に"驚き"という感情がぶわっと溢れた。
「好きって、こういうことだけど?」
どきどき、そんな音が犬飼さんから聞こえてくる。私と同じ音がする。やっぱり暖かくて、ほわほわして、むずむずして___、
「〜〜っ」
「その顔は"同じ"だね」
彼が私の顔を覗き込んでははっと笑う。さっきまでの"人形"だった私が簡単に崩壊して、そして"ただの人間"になった。
__犬飼さんはきっと魔法使いなんだ。
十何年付き合ってきた私をほんの一瞬で人間に仕立て上げ、そしてたくさんの感情を与えて、そしてそれに対して私も表出できている。違和感だらけだけど、悪くない。
私はさらにぎゅっと抱きついた。いつの間にか涙は止まっていた。
「.....犬飼さん、好きです」
「おれも」
犬飼澄晴は影浦の妹を初めて見た時から彼女が気になって仕方なかった。自分を見ると嫌そうに顔を歪める影浦とは違い、彼の妹は誰に対しても無表情で、言葉数は少なく、そして何より人間ぽさが足りないように思えた。
相手の感情を読み取るのは上手いくせに、彼女自身の感情が見えないのに何だか違和感がある。わりと空気を読んだり相手の思考や感情をそれなりに感じ取りながらコミュニケーションを取る犬飼にとって、影浦の妹である名前はそれはもう特異な存在だった。
同じ空間にいると彼女が気になって仕方がない。とある感情に気づくまで、犬飼はどうして自分は彼女のことばかり考えているのかちっとも分からなかった。
犬飼はある日、人通りが滅多にない通路で彼女を見つけた。遠目から見ても何だかあまり顔色が良くないように見えて、大丈夫か声をかけようとしてやめる。いつも無表情で無口でそして異質だった彼女が、その日ばかりは普通の子に見えた。
感情なんてありません。
そう言われたら納得するくらい人形じみた彼女が、何かを耐えるように顔を歪めた。
「怖い、好き、嫌い、嫌い、楽しい、つまらない___」
呪文のように思えたが、それは感情の種類だ。誰もがほぼ当たり前に感じるそれら。一体どうしてそれを羅列して述べているのかは全く分からないが、それを呟く彼女の表情がいつもと違う。その光景を見て、時々彼女がつぶやく言葉を静かに聞いて思う。
__もしかして、ただ不器用なだけなんじゃないか?
そう思う。彼女に最近少しだけ絡むようになって知った。感情の出し方が分からないらしいということを。確かに彼女がそう言うようにその様子を見ていれば分かる。通りで異質で奇妙だと思ったわけだ、そう思っていたのに。
犬飼はその日から彼女をさらに良く見るようになった。感情の出し方が分からないと言う割に、意外とよく見れば表情に出ている。ただ、そういう"思い込み"を小さい子らからしているせいで本人は全く気づいていないらしい。
犬飼は思わず彼女の事で影浦と話してしまった。別に話すこと自体いけないことではないが、お互いに色々と合わない。影浦は嫌そうにしながらも、何だかんだ妹のこととなると意外と話を聞いた。彼は彼なりに名前について思うことがあるようだ。
「名前ちゃん、実は不器用なだけだよね?」
「.....」
会話の終盤、犬飼はそう言う。影浦はそれを聞いて暫し沈黙した。何を考えてるかは分からない。もしかしたらもう会話する気がなくなったかもしれない。そう考えて犬飼はそっとその場を離れようとした。
「知ってる」
影浦がそう呟く。犬飼はそれを聞いて、それからふっと口の端を吊り上げた。そして彼にその感情を刺した。後ろから「うぜぇ」と言う声がしたが犬飼は無視して歩いた。
影浦は自分に向けられた感情を敏感に読み取れる。だからきっと犬飼が気づいた名前からほんの少しだけ出ている乏しい感情たちにだって本当は気づいているはずだ。彼女は全然人形じゃないって。
ただ、名前は本当にそれを人のように上手く表現することができないのだろうし、決してできないと思い込んでいる。それをどう指摘していいか影浦は悩んでいるように思えた。
「おれが.....__」
おれがその人形を壊してみたい。
ふとそんなことを思った。少しづつでいい。凍ってしまった感情の水道を温めて、その感情をいつだって出せるようにして、そしてどうやって蛇口を捻るのか教えてあげればいい。
そう思うと犬飼はより名前と関わるようになった。もちろんそこには行き過ぎた"恋心"もある。
彼女にほんの少しずつでもいいから影響を与えられたら。そう考えながら彼女と関わる日々は意外と素敵なものだった。
「そりゃあ好きな子が.........あっ」
「好きな子?」
その日、その瞬間、名前に思わず「好きな子」と発言してしまったことを犬飼は酷く後悔した。
いつか見たように悶々と何かを耐えるように1人で蹲っている名前を見て、考えるよりも先に声をかけてしまったのは良い。
その日、いつもの無表情とは違って、沢山沢山感情のある表情を浮かべて自分を見つめる名前に犬飼は不覚にもときめいてしまった。そして喜んだ。だって、きっと、彼女の言うようにこんな表情を見せるのは"自分が初めて"だろうから。それを思うと頬が緩む。あのお人形が壊れて、そしてついに"普通の女の子"になった瞬間を見た気がした。
__それも自分のせいで。
影浦に嫌な顔されようと気にせず名前に関わって来てよかった。その凍ったものをゆっくりだが溶かすことにきっと成功したのだから。ポタポタと流れ落ちていくその涙にはぎょっとしたが、それも彼女の氷が解けたのだと思えばやはり気分がいい。
だが、だからといってこの感情を見せるのは早すぎた。
「犬飼さんは私のこと好きなんですか?」
「.....え、うん」
思いがけずフライングしてしまって焦りを覚えながら、でも出てしまったのは仕方ないと頷く。ここで下手に隠して誤解されるくらいなら、もう言ってしまった方がいい気がした。
「私も好きだと思います」
「うん。.......え?」
だから彼女のその言葉を聞いて犬飼は勢いよく彼女を見た。
今なんて言った?
それを理解するのに時間がかかる。ぐるぐると思考を回して、それからうるさい心臓と速くなる脈を感じながら犬飼はただ呆然と名前を見つめた。
__ああ、その
そして感情がようやく出てき始めた彼女のその表情を見て、犬飼はつい名前との距離をさらに近づけてそして抱きしめてしまった。
後からきっと後悔するのは心のどこかで分かっているのに、今は確かめたくて仕方がなかった。彼女の心臓の音が聞こえる。自分に負けないくらい速い心拍。それを聴いて無意識に口角を吊り上げた。そして言う。
「好きって、こういうことだけど?」
「〜〜っ」
「その顔は"同じ"だね」
そう言って、彼女の顔を覗き込む。そして思わず笑ってしまった。自分の大好きな子が、自分のせいでその感情を溢れさせ、そして顔に出して隠しきれてないそれを見て、堪らなく幸せだと思った。
名前がさらにぎゅっと抱きついてきた。犬飼はそっと彼女の頭を撫でる。
「.....犬飼さん、好きです」
「おれも」
犬飼は祈った。この瞬間が現実でありますように。ただひたすら夢のようなその時間が、現実には思えなくて思った。
暖かい体温を感じて、そして感じるその感情に笑みを浮かべた。
(オマエ、アイツに何した)
(あ、カゲじゃん。何のこと?)
(うぜぇ)