それが終末でそしてはじまり

お月様を見上げながらふらりふらりと歩いていましたら、いつの間にやら見知らぬ場所へと辿り着いてしまいました。

「……」

あれ?と右を見ても左を見ても心当たりになるものは一つもなくて、世界に切り離されたような気分を味わいながらまた歩けば、もう後戻りをすることさえ出来なくなってしまいました。冷や汗が頬を伝います。


後ろを振り返ってみますがあるのはただの黒。
前を向いてみますがそこに広がるのは見覚えのない藍。


さてはて困りました。
ぼんやり朧気な月明かりに照らされているので少し明るいとは云っても、やはり夜はとても暗いものです。そこで、ふと今までのことを振り返ってみてあることに気がつきました。
よくよく考えてみれば自分がどこからやって来て、どこへ向かっているのかが分からなかったのです。いや、先ほどまでは確かに確かに覚えていたはずです。しかし、足を1歩踏み出すごとにそれらの道筋は一歩一歩失われていきます。立ち止まりました。

「……何処で忘れてしまったんだ」


譫言うわごとのように呟いて、もう一度まわりを見回してみます。やはり見覚えはないように感じますが、見ているうちにどこか懐かしいような気持ちにもなりました。なんてちぐはぐなおのれでしょう。それにもほとほと困りました。

この眼に何が映って懐かしく感じているのか、分からない。
この瞳になにか映って見覚えがないと感じているのかさえ分かりません。

その感覚が嫌で仕方なくまた歩みを進みます。どれだけ歩いても月は傾きもせず真上に浮かんでおります。はっきりと朧気に、何処か近くて何処か遠方にあるそれはただそこにあるだけなのです。

この世界は物音がせず嫌に静かで己の心を音を立てて軋ませ、得体の知れぬ絶望へ突き落とそうとします。それに促され、押されてしまえばそこに見えるのは己の欲しいものなのか、それともただの無なのか。それは誰にもわかりません。

それが恐ろしくて彼は両の手に力を込めて己の頬を叩き、出そうになった涙を止めて行く宛もなく走り始めます。時間にして数分、いや、もしかしたら数時間。その概念すら分からなくなってしまうほど彼は疲れ果てていて混乱しています。それと同じくして世界は姿を変えることなく夜を彩り、暗闇が聳え立ちます。朝日なんか昇らず、空は朝焼けに染められず、ただ月を主張してその光を滲ませております。


「……」


ついには歩くことも走ることもやめ、彼はそこら辺に座って夜が明けるのを待とうかと考え始めました。理由もなくこの夜が明けるのだと彼はなぜか信じていました。そして、もう一度かのお月様を眺めるのでした。


「どうしてこうなってしまったんだろう」


何となしに呟いた声が耳に届きました。懺悔するかのように放たれた言葉を返す人はおりません。自分で出した声だったというのに、何故だか他人が零した声音のように聞こえてきてとても悲しくなりました。我慢していたはずの涙がポロポロと零れていきます。すると月に照らされて色を持っていた景色がインクで滲んだかのようにぼやけてそのまま色を失っていきました。

「……」


しかし、何も感じませんでした。彼は疲れ果てていました。それが可笑しいことだということを全く思いませんでした。ただ涙を流していれば、いつの間にか自分の周りは白っぽくなっていきました。
何だか泣くことにも疲れてしまって、目尻を拭いてまたぼんやりと月を見上げました。しかし、見上げた途端それは突然何処からか現れた雲によって掻き消えてしまいました。そして厚い雲が段々と空を覆ってゆき、いつの間にか白と黒以外の色が消えてしまいました。


ポツリ、ポツリ


雨が降り始めました。
雨は涙と同じように黒の部分の色を消して、白へと染め上げています。
それから、自分のいる世界が真っ白になるまでの時間はあまり掛かりませんでした。あまりにも白くて何もかもを失ってしまいました。何だか動く気にもなれず、ゆっくりと目を閉じました。すると、その時になって初めて自分のことを思い出しました。そして自分がいるこの世界の異常さに気付きます。気づいたからと云ってどうにか出来る訳でもないので、あまり意味はなしませんでした。


「嗚呼、そうか。僕はここで待たないといけないんだね」


いつの間にか全てを知り、そして全てを終わらせていたことすら思い出して苦笑しました。もう前へも後ろへも進めません。何たって先程云った通り全てをやり終えてしまっていたのですから。つまりここが終点。折り返そうと思えば折り返せるのかも知れませんが、その方法は分からないし、分かったとしてももう降り返そうとは思わないでしょう。


月の下から始まった小さな獣の旅は、どうやらここで終焉のようです。あとはただただこの世界でいつか消える日を夢見て時間を浪費するだけです。一応、云っておくとこの世界には進む時間なんていうものはないので、感覚的に、です。ほんの僅かな退屈さも、胸を埋める悲しみも、すべてをやり終えた虚無感も、何もかもを抱き込んで待ちました。

それから気の遠くなるような時間が過ぎた後、とある小さな役目を人知れず抱き、とある少女に会うことなどその時はまだ知りませんでした。


似ているようで何処か違う世界を生き、そして全てを終えて本を閉じるように世界から切り離されてしまった『中島敦』は目を開けるとその目の前には必ず彼が笑っております。その世界は、この時だけ赤にも青にもなり、黒にも黄色にもなります。その時だけがこの怠惰な世界に射す唯一の期待だったのです。


(やあ、初めまして。××番目の僕)
(君もこの終着点についたんだね)
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