何十と戦場を踏み越えたが血を見る度シビラは戦慄いた。自らが放った流れる覇気で体を内部から破壊された海賊達の呻きは、脳内に汚垢となって膠着し夜な夜な唸らせ冷や汗をかかせる。夜中に何度も飛び起きてはその都度記憶にある父を何度も呼び起こし、深く眠りにつく事がシビラの安寧である。
他の海兵達は服や頭に血を浴びようが鬱陶しい、洗濯が大変だ、断末魔に気を病むのは馬鹿馬鹿しいといった体であった。海軍本部や偉大なる航路、新世界に赴任する海兵は特にこの思想が強かった。シビラの同期も例に漏れず、海賊は絶対悪なので殺しても良いという鉄の心情を心中に建てている者が大多数を占めていた。比べて己はどうだ、未だ人を殺めるのを拳が震え腐って嫌がる。軍人ならばとうに覚悟を済ませて然るべきなのに腑抜けの臆病者であった。
思案しつつ敵船に赤い足跡を残して軍艦に帰還したシビラの靴底に付着する、ねっとりとしたおどろおどろしい血はどこまでもしつこく付き纏う。夢で怨嗟を訴えそうだ。今日も寝られそうにない、気分が悪いので洗い流したかった。片足立ちをして覗いた靴裏に頭を悩ませていればルースが遅れて帰還した。隣に立ったルースは顔をしかめ溜息をついた後、呆れた物言いをする。
「また殺さなかったのか」
「…まぁ、うん」
「なんですげぇ力持ってんのにうじうじすんだよ。それで躊躇って怪我すんのはお前なんだぞ」
「殺さなくても勝てるから殺さなかっただけだし、怪我の心配もしなくていい強さの海賊達だった」
「嘘こけ。打撲してやがんだろ。青痰になったとこ押すぞ」
「止めろ覇気流すぞ」
手のひらを近づけながら脅せば「洒落んなんねぇからやめろ!」と腰抜けた声を出し後退りされる。
どうにもシビラは硬化や覇気を武器に纏わせるといった芸当は不得手であった。その代わり、均衡を保つように覇気を一点に集中させて流すといった芸当は得手であり、指先一つでもできた。人差し指から相手に覇気を流せば臓腑は景気良く弾ける。骨だけを狙って粉砕したこともある。これには海軍内の名だたる覇気使いも舌を巻いた。
海に沈む太陽を何年見送っても体得できなかった流れる覇気をこんな若造が、といった嫉妬も有りはした。しかしシビラは覇気の才能はあれど性格とは水に油であった。人を傷つけることに抵抗感が備わっていたのである。
これにシビラは覇気の才能はあるが性格がな、と流れる覇気の会得に至らなかった者は欠点を論うことにより心を落ち着け平常を維持していた。軍人にとって致命的なシビラの性格は嫉妬への鎮静剤であった。お陰でやっかみに鼻を省く顔の尻と名称の付く部位は悄気る回数を減少させた。
「優しいってのは聞こえがいいだけで海じゃ不必要だって中将がいってただろ。お前、いつか死んじまいそうで怖えよ」
「別に優しいわけじゃない」
優しいなどと不相応の輝光する評価を貼られたシビラは、臆病者の間違いだと叫びたくて喉が破裂しそうだった。
海兵に向かぬ性格であるシビラは自分の意思で海兵になった訳ではない。それしか道が無く選択権を与えられなかったから海兵という鉄路を走っている。
意思を介在させる余地を与えずあれよあれよと才能は前線へ押し出す。戦いが蜷局を巻いて己を締めつけるのでそれから逃げることも諦念した。
「それに海賊を殺さず生け捕りにしていた人もいた。殺す必要なんてない」
言い訳ばかりが喉から先行する。さもしい性根を再認識した瞬間、背筋を悪寒が駆け巡り鳥肌が立った。今まで経験したことがない莫大の嫌な予感だ。シビラは急いでルツにそれを告げようとしたが、けたたましい打撃音に遮られ唐突にルースの姿が消えた。
「」
入れ替わるようにしてルースのいた場所に大柄の男が存在するのを認めたが、臓器の位置が変わったと錯覚させるような衝撃が腹に広がり、一弾指の間に船縁へ背中を強打した。鈍痛に板挟みされた胴体から苦悶が迫り上がり食い縛る歯の隙間から地に落ちる。
肺を震わせ甲板で額を擦り痛みをやり過ごし、俯いていた視点は間怠こく揺れる毛先から男とシビラの直線上に横たわる軍帽へ移り、遠くに佇む男の顔へ登頂した。両者の視線が噛み合う。
「赤髪?お前、赤髪のガキか」
平坦に流れる眉を歪曲した男がぼやいた。痛みに固まっていた舌筋をシビラは必死に動かす。
「何で、そこで、赤髪が、出てくるのか、わからない」
「あ?お前噂をしらねぇのか。最近赤髪にガキがいるっつう都市伝説が専ら酒の肴なんだよ。ゴールド・ロジャーに餓鬼がいる類の信憑性のカケラもねぇ噂だったが、マジでビックリだ」
「ビックリしてる、とこに、水刺して悪いね私は赤髪の、子供じゃない」
「はぐらかせると期待させて悪いがおれは若い頃の赤髪を見たことがある。よぉく覚えてるさ、お前を生意気にした顔だったぜ。まぁそんなことはどうでもいい。なんだ、海兵になったのは父親への当て付けか?」
物珍しい異物と言葉を交わしていることに思う所があるのか、くるくる表情を変化させる男の眉に主張が激しいなと場違いに耽った。一度大きく息を吸い肩を膨らませる。息を吐いて肩を萎ませた。痛みを空気中へ全て吐き出すように深呼吸をしたシビラは、光沢を放つ瞳が嵌った玉縁を嘲笑で損なわせる。
「略奪しかしない海賊はやっぱバカなんだ…噂に踊らされることしかできないんだもん…」
するする溢れる侮辱に眉を怒らせた男が蹴らんと距離を狭めようとしたが、横から弾丸と一歩遅れた発砲音が邪魔をした。目を横へやる。鼻先に切傷を刻んだ原因は存外近くにいた。
「?」
発砲したとほぼ同時に走ったフェドラが言いながら尻餅をついたシビラを即座に攫う。罵声を置き土産に二人はそそくさ退散した。男が追いかけてくる気配はなかった。俵担ぎにされたシビラは揺られつつ霧隠れた現状を問う。
「何がどうなってるの?中将達は?」
「突然あいつが艦内に現れたの。あっという間にみんなやられたから助けは来ない。残ってるのは私とシビラと敵艦にいる人達だけ。ねぇシビラ、敵艦に残ってる人達と私達でアイツを倒せると思う?」
答えをとうにわかっている語気であった。それでも問い掛けたのは一縷の希望に縋ったからか。シビラは二の句を告げずまごまご言い淀む。勝てない。残存する力を束にしても敵との実力差は埋められない。勘がこの世の終わりのように嘆いていた。
「やっぱ勝てないか」
反対方向の船尾まで逃げたフェドラはシビラを下ろし先程の自嘲した声と打って変わった声で考えがあると述べた。フェドラに向き合うシビラの勘が頭蓋内でより一層嘆きを酷くした。
酷い要求をしている
囮になるからとどめを刺せ。これに二つ返事するほどの覚悟が備わっているのならばシビラはとっくに大将候補に名を連ねている。覚悟を有さない重荷となる性格を美徳と取るか悪徳と取るか、大半の海兵が悪徳と指摘する中、フェドラは美徳と受け取った。
殺人を犯すことに感覚が鈍っている人の群で躊躇うシビラは浮いていた。海賊は人間に非ず、極悪非道で市民へ嬉々として害を加える塵だ。そんな輩に対する同情も優しさも合理的でない、無駄だ。なので殺しても良い。そういった場の雰囲気で統率されている部隊で否を唱え逆らい不殺を貫いている。
「敵は強いから絶対に一撃で仕留めなきゃいけない。シビラが流れる覇気を使えると知ったら終わり。敵がなにも知らないかつ油断してる今が」
「だめだよ、そんな」
「じゃあ他に何か方法ある?ないでしょ?」
「まだ敵艦にいる人達と力を合わせればいい。そうしたら多分まだ勝機はある。フェドラ一人でやるなんて」
「そうしたらその人達、死んじゃうでしょ。多数の犠牲より一人の犠牲で済むならそれが定跡」
これから名誉な死を迎えるのだといわんばかりの引き締まった顔でフェドラはそう言った。落ち着き払った態度にシビラは黙り込む。
「シビラが」
「出来ない…」
「仲間がやられたのに、私は人を殺せない」
困り眉に相反して口角が笑窪を作った。人の弱さを肯定しても己が弱さは否定する優しい友人に人殺しをさせるフェドラは生きて業を償えぬ。せめて気に病まず生き抜いて欲しい。誰か自分の代わりに遺された彼女を慰め支えてやってくれ。ちぐはぐな表情の下には身勝手な願望があった。
全身を強張らせるシビラの腕をぽんぽんと叩き敵の元へ戻ろうと言うと下唇を噛んで従った。
.
敵の鼓動、呼吸、体内の血液が循環する音が明瞭に聞こえた。
戻ってきた
離れた位置で胸に人の腕の大きさの赤黒い穴を空け倒れているフェドラをシビラは直視できなかったが、殺される光景は実時間で見ていた。男がフェドラの胸を素手で貫く瞬間が胃液を迫り上げ咽頭を焼いた。ごくんと飲み込んで元の場所へ送り返した。それでもなお喉に居座る熱と酸味を唾を飲み込んで洗い流す。
シビラの足元に頭を向け大の字になって倒れた男は、肘と太腿の先から下が吹き飛んでいた。四肢をシビラの流れる覇気によって服ごと破裂され千切られたのである。手足の部位は千切れる際に伸びた皮膚を断面にへばり付け、血液を溢しどろどろの池を四つ成して男の周りに転がっている。大小の血溜まりは陽を反射し禍々しくも精彩に輝いていた。
「あぁー、くっそ痛ぇな、ちくしょう。流れる覇気体得してるなんざ流石赤髪のガキ…恐ろしいったらありゃしねぇ」
背を地につけた男はべちゃべちゃと血を溢しながら捥がれた右腕を目の前へ動かした。紅血が顔に降りかかる感触が癖になりそうだ。伸び爛れた皮をぴらぴら揺さぶれば血に濡れたせいで動きに重量があった。
「皮をむけば皆等しくそこにあるのは血肉だ。そこまで私から透けて見える父親は恐ろしいか」
再び腕を床に放る。男の顔にのし掛かった血糊がのろのろ怠惰に目尻を伝って流れていくのをシビラは墨を垂らしたような瞳で見下ろす。
「恐ろしいさ!そりゃもう、一人でこの海に挑むくらいにはなァ!」
呆れた。この小娘はどれほど父親が強大であるか無知だったか。男は腹が引き攣れるほど笑って答える。シビラは理解できないといった風にふっと軽く鼻息を吐いた。
こんなただの皮で包まれた肉塊にどうしてそこまで脅えようか、精子と卵子といった材料も母胎で育ち生まれ出る工程も同じ手順でできたただの血袋に忌諱するのは何故か、父という素材の違いか。
世界は勘違いしている。有害因子だと決めつけ初めから自分が父のようになると恐れをなしている。だからといって被害者ぶって悲嘆に暮れるのはお門違いで癪に触った。どうして生まれたことに対して悩み謝る必要がある。親がしでかした悪行を子が引き継ぐ必要性は皆無だ。世が望む、望まない問答は有象無象が勝手にやっていろ。
冷ややかなシビラの視線を男は嘲笑って跳ね除ける。
「海軍はお前を持て余してりゃしねぇか?いや持て余してるな。一つ間違えりゃ海軍が滅ぶんだから慎重になってるはずだ。さっさと交渉の道具にしちまやいいのにそれをしねぇ!」
嘲り喚く男を囲う吹き飛んだ手足は赤々と燦爛に輝いているのに、頭上からシビラの陰に覆われた男の顔は単に泥土のような質感の赤黒さだけだ。千切れた手足はいつまでも記憶に留めそうだが風貌はすぐ忘れてしまいそうだった。男が最期の叫びを口にする。
「お前がいくらいい子だろうが世間様は親父と紐付けて後ろ指をさすぞ!あいつは赤髪の娘だ、あー怖いってなァ!根も葉もねェ悪評が付いて回る!親父のせいで可哀想になァ!」
血が敷かれた笑い皺に憎たらしさを覚えられなかった。シビラは膝を折って覇気を纏った拳を振りかぶる。
「だろうね。でも、赤髪の娘だろうが気にしないって言ってくれた人がいた」
そう言って拳を振り下ろす。どぱん、と小気味よく破裂した脳味噌に頭蓋骨の白い破片が混じって四方八方に飛び散った。
高揚感の波が引いて罪悪感が嘔吐した。顔に掛かった血も口から垂れる反吐も拭わずふらふらと覚束無い足取りで倒れたフェドラの元へ辿り着いた。震える手でフェドラの目を閉じてやった後、フェドラの顔を抱き込んで、シビラは泣き叫んだ。
フェドラ生きている頃よりも美しかった。
豪語する表情
そこから記憶が混濁している。どうやって海軍本部に帰還したか自分の足取りが掴めず、気がつけば病室のベッドから上半身を起こしセンゴク総帥から直々に昇進を告げられていた。
どうやらシビラが討ち取った男は海軍転覆を計っていると曰く付き海賊の幹部であったらしい。ようやっと虚無から自我が帰ると俯いたシビラはみっともなく大声を布団に吐き出した。
「私はフェドラを見殺しにしましたっ!どうなるか解ってたのにそれしか上手くいかないからって!見殺しにしましたッ!だから昇進なんて出来ません…!フェドラを、フェドラに、フェドラ―――」
語尾がか細くなって消散した。目元が熱を帯びたと思えばぼたぼたと落下する涙を布団が啜っていた。自分がしたことを吐露し、そんなことはないと慰められ、許され、立ち直る等と虫が良すぎる。じわりじわりと生暖かい水分を啜り一部が丸い薄鼠色に変色した布団にシビラはがなり立てた。
「私は意地汚い臆病者ですッ!こうやって誰かに許して貰おうとしてる!見殺しにしたことが変わる訳ないのに!自分が可愛いだけの人間が昇進できるはずがないッ!!」
「命は決して平等ではない。貴様とフェドラを天秤にかければ必ず貴様に傾く。手配書が最も良い例だ命に値段が明確についている」
はひゅーと細い波線のような音が喉から鳴った。センゴクはシビラの傍らから直立不動の姿勢で話を続行する。嘆くシビラを見ても、仲間の死を何十年と照らした丸眼鏡の奥に鎮座する目は微動だにしない。
「意味のある死を迎えられただけまだマシだ。中には海賊共に無益に散らされた命がある。海の屑に一矢報いた。それがどれだけの偉大な意味を持つか」
フェドラの未来はシビラを生かしたことにより絶たれた。まだ生きるはずであったフェドラに報い続けなければならない。そう考えるとしゃくりが遅れてに追随した。上手く息が吸えず苦しい。シビラは高熱で三日間眠り、睡眠薬を手放せなくなった。