煙草の煙が当たる壁や天井に静観される人間の顔は、苦悩に満ちている者かニヤケが抑えられない者の二極だった。さぞ見ものであろう、ヤニ臭い十畳部屋で丁半博打に興じる男は天井や壁に囲い込まれそれらが冷笑しているように錯覚した。
運に袖にされた男は膝上に乗っている物の見事に痩せ細らせた財布を見遣り、素寒貧という文字を頭に浮かばせる。どうにも貧乏揺すりが止まる気配はない。
帽子を目深に被ったシビラは来店した。崖っぷちに立たされた男の隣に、背伸びし過ぎた子供を野次ような視線を浴びながら、堂々と灰が落ちて穴が空いた畳にシビラは胡座をかく。
この歳で賭場に行き慣れているのを見るに親が録でもないか、。たじろがなかったシビラを男は不気味に思った。
表情が笑顔に統一される。予知しているかのようにシビラは出目を全て当てた。これを受けた男達は神の啓示に肖り、丁と言えば丁、半と言えば半と追随する。勝ち越すシビラを尻目に壺振りが壺を振る。
「勝負」
「丁」
神の啓示だやれ従え。男達はシビラの声に群がった。一方、対座する壺振りは鴨だと思っていた小娘にしてやられ、このままでは有り金を毟り取られる
壺振りが開けようとした壺をシビラが上半身を乗り出し壺振りの手ごと自身の手で抑えた。
「イカサマしちゃあ駄目でしょ」
一拍跳ねた心臓から血液が送り出される。血管を伝って手先まで走り抜けた。熱は終着点の指先で弾け余韻を残して収まった。今の動揺が体外に出て悟られてはいないかと壺振りは不安になり、シビラの顔を盗み見るが遮蔽物の鍔が邪魔で視線が分からない。このせいで不安は解消されず平常心は戻らなかった。黒目を揺らしながら怒鳴る。
「何訳の分からんケチつけてやがるクソガキ。おれがイカサマをした証拠でもあんのか。殺すぞ」
知らないとはいえ海兵に死をちらつかせるなど無意味なことをする。
壺底に押し付けられる己の手を引き抜こうとするが、覆い被さる小さな手のこうもそこから伸びる小枝のようにほっそりとした指も動かない。無情に五指が暴れるだけだ。シビラはいごいご藻搔き苦しむ中手骨の硬い感触にどこかいじらしさを覚えそうだったが、左手で横から強引に壺を奪い壺口を一瞥して問うた。
「この糸は何?」
壺口の端に張られた糸を壺振りに突きつければ面白い具合に体色を青色に変えた。その光景が決定打となった客は皮膚に脂汗を生成する壺振りへ唾が入り混じった怒号を飛ばす。神の前で不正を働いた天罰だ。
立ち上がったシビラは胸倉を掴む客や四方を囲み詰め寄る客達に背を向け障子を開けて去っていった。一連の御業に思考を吸われた男には、宙に血を舞わせる人の塊よりも帽子に顔を潜める少女に用があった。至る所に青痣を拵える壺振りから金をせびりもせず退店したシビラの後をすぐ追った。
すれ違いながら昼の煩い大通りを歩くシビラを呼び止めた男はさながら蝿であった。忙しない身振り手振りに滑りがいい湿った舌でシビラを褒め称える。頭から降り注がれる賛美は煽てて話を聞かせる為のわかりやすい罠だ。シビラは影に隠れる目を細める。
「あの当たりの上でのイカサマ見抜きは神の領域だぜ!壺ン中の出目を連続で当てていつイカサマするか予測するなんざどうやってやるってんだ?心でも読めるのか?」
「別に、嫌な予感がしただけだよ」
「嫌な予感?」
「あの時、丁でも半でも嫌な予感がしたからイカサマだと思った」
「何だそりゃ?…まぁいいか!やっぱお前神様だ!ちょっとおれの悩み聞いてくれよ!」
男は勝手に身の上話をつらつら喋り始めた。何でも、四皇の縄張りでイカサマを働き大金を巻き上げたが、現場を押さえられてしまった。一度や二度ならまだしも、複数回に渡り別の縄張りで繰り返したので目をつけられてしまい逃亡している真っ最中であったという。現場が押さえられた店を四皇が懇意にしていたため、これほどの大事になってしまった。そう男は嘆いた。
「赤髪の縄張りでやったの?」
「おう」
「あー」
やっぱり、一瞬だけ苦虫を噛み潰した顔になったがすぐに元に戻った。
「赤髪なら話が通じるから大丈夫。誠心誠意謝れば許してくれるよ。怒ってなければ」
「怒ってたらどうすんだよ」
よよよ、と泣き真似をしながら男は話を続ける。巻き上げた大金は短期間で使い切り、逃亡資金もままならずこの賭博で金をせしめてやろうとしたらしい。だが壺振りのズルを見破れず負け越していた。イカサマを働いた男がイカサマの餌食になっていたとは陳腐なのようだった。逃してなるものかと膝に土をつけシビラの腰にしがみついた男はその無様な格好と同じように無様な声で縋る。
「このままだと殺されちまう」
「へぇ、そう」
「助けてくれよぉ〜!ちょぉっと博打で稼いでくれりゃいいんだ!このままだとおれ死んじまうよぉ〜!」
おいおい泣き真似を酷くする男の頭を片手で押し、引き剥がそうとするシビラの表情筋は 相槌を打ってから冴凍ったままだった。博打で負けた分を博打で取り戻せるわけがない。博打とは通常、勝って得た資産より負けて擦った負債の方が上回るものである。負債を上回ることがあるとするならば余程博打の才がある者か、天が与えた奇跡だ。
才なき者には滅多に起こり得ぬ奇跡に夢を馳せることの愚かしさが分別できる年齢で、己がしでかした問題を他者に解決して貰おうとする厚かましい性根に押し返す力が強まる。
「欲をかくからそんなことになるんだよ。ほどほどで止めておけばよかったのに、引き際を誤ってイカサマがバレるまで止めないから今みたいな状況に陥って困る」
「ぐぅ。なんも言えん」
「自己責任。自分で何とかしろ」
「ギャンブルやるんだったら農業やれ」
そんな御無体な。情け無い格好でなりふり構わず幼気な少女に縋り付く男と、それを引き剥がさんとするシビラ
爪に叩かれた銅メダルコインの音が人を黙らせる。シビラは白い歯を見せつけた。そして縋り付いたままだった男を引き剥がし、まだ人の体温が残る生温い腰を曲げて耳打ちする。
「これに懲りたらさっさと前半の海に逃げて手に職つけて生きろ」
勝手に四皇へ勝負を挑み、勝ってしまったシビラに人の身柄を賭けたことに対する文句を垂れる気力も失せた男は力なく笑った。
「へへ…お得意の勘か?」
「そうだよ。いい予感がするんだ」